歪な道
街中で、夫の数馬さんを見かける。声をかけようとして、その右肩に他の人の左手が乗った。
(あ……)
夫の右側に立つ人の名前を、私は知らない。あんな、背中がぱっくりと開いたタイトなドレスを着るような人はいない。髪の毛も巻き巻きと、ウェーブがかかっていて、毎朝これをセットするのは大変そうだなっていう、的外れな感想が浮かび上がった。くるんとしたまつ毛は、きっとマツエクを付けているのだろう。アイシャドウに、チークに、顔面だけでそれなりの総額になりそうなお顔の、私よりは年上、夫よりは年下っぽい女性。
素性のわからぬ美人はその左手の指を、極めて自然な感じに夫の右手に絡める。薬指に指輪が光っていた。
「行きましょ」
「ああ」
二人は私の視線に気付いていない。夢じゃないかしら。私は、呆気に取られていた。全身から力が抜けるような感覚があった。買い物バッグがアスファルトの上に落下する音で、現実に戻ってくる。立ち尽くしている場合ではない。
帰らないといけなかった。この荷物を家まで運んで、洗濯をして、掃除をして、夕飯の支度をしないとだわ。そうでないと、昌代さんに何を言われるか。
(言わないと)
私は買い物バッグを拾うより先にスマホを取り出す。夫と謎の女の人が恋人繋ぎで歩き去る姿を、カメラで撮影した。決定的な証拠を掴んでおかないとだわ。
そうしないと、私の妄想だって決めつけられちゃう。
「……ただいま戻りました」
荷物だけでなく気も重たい。姑の昌代さんは、定位置に普段通り。私が帰ってきたことなんて、気にも留めない。振り返ることもない。おかえり、なんて、最初の数日ぐらいしか聞いてないわね。
嗚呼、毎日毎日どうしてこうも買うものがあるのでしょう。私の前世は働きアリだったのかもしれないのだわ。昌代さんの買い物メモの通りにお買い物を済ませて、買ってきたものを冷蔵庫か冷凍庫、常温で保管できるものは常温で保管、仕分ける。その間、昌代さんはソファーにどっかりと座って昼のワイドショーを眺めているだけ。昌代さんは女王アリね。何もしない。巣に居座る。
そんな昌代さんに、芸能人よりも身近なところの不倫騒動をお見舞いしてやるんだから!
「昌代さん」
呼びかけはスルー。
「先ほど、数馬さんを見かけたんですよ」
数馬さん、と昌代さんの愛する息子の名前を挙げると、昌代さんはテレビのリモコンを乱暴に掴んで、電源を切った。
「数馬さん、既婚者の女の人と歩いてました」
まずは口頭でお話しします。すると、私の言葉を鼻で笑ってから「見間違いじゃあないかえ?」と昌代さんのダミ声が返ってきました。ここまでは想定通りですね。
「この写真、見てください」
次に証拠写真を突きつけます。昌代さんは一人息子の数馬さんを大層可愛がっていらっしゃいますし、私も数馬さんには私なりに一生懸命尽くしてきました。その結果が、これですよと。
「今朝、数馬さんは灰色のスーツに赤いネクタイでしたよね?」
朝は家族で食卓を囲み、一家を支える稼ぎ頭の出勤時にはお見送りする。――それが、この家のルールです。そうでしょう?
だから、スーツとネクタイの組み合わせも柄も覚えています。よほどのことがないかぎり、着替えることもないでしょうよ。
「それに、この女性の指、見てくださいよ。ほら」
私はスマホの画面の一部を人差し指で指し示して主張する。老眼が始まった昌代さんの目でもわかるはず!
「会社の人じゃあないのけ?」
何言ってんだこのおばさん。
……おっと。素が出そうになってしまいましてよ。おほほほ。
「平日の午後から、こんな派手なお洋服でお仕事するような人が、数馬さんの同僚なのですの?」
私の正論に、昌代さんの眉間にシワが寄る。寄せなくともシワだらけの顔にシワが増えますわよ。
「人違いやろ。数馬を疑うんはよしなされ」
「そうですかねえ?」
ちょっと小馬鹿にしたノイズが入っちゃったか、昌代さんは「たかが女一人と歩いてただけでえらい言われよう。怖い怖い。数馬が可哀想やわ」と開き直りやがる。
たかが?
私の聞き間違いじゃないですわよね?
「
え。
えええええええええええええええ!?
「数馬を愛しているんだったら、この件は大目に見てやりなさいよ」
いや。無理でしょう。無理無理。数馬さんと出会って、実家暮らしってことになって、義理の母親――姑の昌代さんからのこの扱いにも耐えてきたのよ? それで、こう?
ありえない。ありえないでしょうこんなの。私は無理ですわ。数馬さんの、ひいてはこの家の財政管理を任されているもんだから、信頼されているとばかり思ってたんだけども、まさかまさかの裏切りがあるなんてね。
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