第144話

「鹿見くん、おめでとう」


 そんな言葉が聞こえたのはある平日の昼休み。目の前に積まれたファイルやバインダー、未処理の紙束の奥から相澤課長が声をかけてきた。


 あれ、今日俺って何かあったっけ?ついこの間も記念日かと焦った記憶が甦る。

 奇しくもその時のネクタイを着けているわけだが。


「そんな怪訝な顔しないの」


 カップ麺を啜りながら課長は笑う。

 弁当持ってきてないってことは……今日残業なんだな、課長。そんな他人の生活事情まで分かってしまうくらいにはこの部署に長くいる。


 かく言う俺も余裕で残る、PCに次々と増えていく未処理案件の通知が俺を掴んで離してくれない。


「何かありましたっけ?」


「同棲よ同棲」


 思わず首を伸ばして周りを見る。

 小峰さんに聞かれるのが一番面倒だ、次点で春海さん。あの圧は一体どこからでてるんだろうか。


「安心しなさい、他には誰もいないわ」


「びっくりしましたよ」


 というかなんで課長も知ってるんだ……。人事はその辺しっかりしてるから情報が漏れることはないと思う。

 まぁ住居変更の書類出した時ににやにやされたのは苦い思い出だが。「あら〜」じゃないんだよ。


 俺の表情を読み取った課長が口を開く。


「あ、書類とかの個人情報からじゃないからね」


「なら理由は大体予想できてしまいました……」


 残りのスープまでぐっと喉に流し込むと、課長は立ち上がった。


「それで合ってるわ。まぁ嬉しそうに写真まで見せてくれたわ」


 思わずこめかみに指を押し込む。

 なにをやってるんだあいつは。


 秋津はそこまで相澤課長と会わないかもしれないが、俺は毎日だからな。

 こんな話になるならむしろ小峰さんが居てくれた方が気持ちが楽だったかもしれない。


 午後からの気まずい空気を想像して空を仰ぐ。見えるのはこうこうと輝く蛍光灯だけ。


 不意にポコンっとPCの右下に通知が来る。

 昼から会議だしスケジューラーのリマインドかと思えば、元凶の秋津だった。


『あんた今日残る人?』


 晩ご飯一緒に食べて帰る話とかしてないよな……?


『すまん、残る人だわ』


『私も残るからフリースペースで仕事しましょ』


 秋津は喋りながら仕事できるタイプだが、俺はあんまり得意じゃない。


『えぇ〜……今日課長も残るしなぁ』


『取引先から貰った美味しい洋菓子あるわよ』


 スマホで撮影したであろうちょっといいお菓子の箱が写真で送られてくる。


 美味しい洋菓子と仕事の進捗を天秤にかける。答えはもう決まってるが……。


『お菓子があるなら仕方ない、20時フリースペース集合な』


『もう別に18時からとかでも良くない?』


『他の人に見られるだろうが』


 どれだけこの関係が知れ渡ってたとしても、実際に見られるのは違うと思うんだ。

 

 晩の洋菓子を楽しみにしながらも、周りに同棲を吹聴するんじゃないと叱らねば、なんて考えながら俺は昼からの会議資料の発掘作業を始めた。

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