第109話
平日朝はどうにも身体がしっくり来ない。満員とはとうてい言えない電車から降りて改札を抜ける。
一昨日は結局秋津がむにゃむにゃ言いながら泊まっていき、昨日は部屋の掃除を丁寧にしていたら一日が終わっていた。
あいつがいると……散らかるんだよな。
休日のなんと儚いことよ。
駅から出ると見慣れた建物に見慣れた看板、自分の環境が変わったとしてもこの景色が変わらないのは安心する。
大通りには人もまばらだ。
朝の澄んだ空気を通勤中に嗜むのも社会人の……と言いたいところだが、仕事が終わってないから早く出勤してるだけなんだよな。
特に今週はできれば早く帰りたいし。
「あ、有先輩!」
聞きなれない呼び方に振り返ると春海さんが。
あんなことがあったからドギマギしてしまう。というか彼女は大丈夫なんだろうか。同じ部署だし。
「お、おはよう春海さん。今日早いね?」
右手に握られたコンビニで買ったと思しきブラックコーヒーが揺れる。
「この時間なら先輩がいるかと思いまして」
並んで歩く、いつもの通勤よりもゆっくりと。
一昨日までと変わらない調子で彼女は話し続ける。
変わっているところと言えば短く切りそろえられたさらさらの黒髪が彼女の顔の周りを跳ねているところくらいだろうか。
肩にすらかからない黒髪は、それでも彼女によく似合っていた。
自分のせいかと聞くのはあまりにも傲慢で、それでいて自意識過剰だろう。
いつかコンビニを通り過ぎてどんどん会社へ近づいて行く。
自社のビルが目に入ると頭がプライベートから仕事用に切り替わる気がするんだよな。
ふと話題が途切れる、いつもだったら心地良い沈黙に身を委ねるところだが。
歩くペースが少しだけ、俺たちにだけ分かるくらい速度を落とす。
「私思ったんです、自分から忘れるなんてもったいないなぁって。だから」
無論なんの話かは聞くまでもない。
ぴょんっと前に出ると呟くように彼女は言葉をこぼしていく。
「だから、忘れられるまではこの気持ちを大切にしようと思うんです。」
あの時みたいに彼女は振り返る。桜は舞ってないし川もない、朝の静かなコンクリートジャングルだけど。
最近見たはずなのにどこか遠い憧憬のような、ビルの隙間から彼女を照らす朝日がスポットライトのような。
これから踊り出さんとばかりに躍動的な彼女はまるでバロック絵画で。
手を広げてこちらを振り返る。
挑戦的に笑った彼女は確かにヒロインだった。
「あ、そうだ。私のこと名前で呼んでくださっていいんですよ?会社でもうららって」
◎◎◎
こんにちは、七転です。
更新しないと言ったな、あれは嘘だ。
一区切りまでもう少しだけ、私の持久走にお付き合いください。
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