第105話 しづ心なく花の散るらむ

 結局相澤さんにはちょっといいペンを、小峰さんにはコインケースを買った。

 いつも決まった時間に缶コーヒーを買いに行く小峰さんにはぴったりだろう。


 ショッピングモールでお昼を食べようと思ったがやはり休日、家族連れが席を埋めていた。まぁ子どもとの大切な時間だ、疲れた社畜たちはすごすごと外に出るに限る。


「よしじゃあ帰るか!」


「あ、そしたら駅まで散歩がてらゆっくり行きましょうよ」


 ぽかぽかとした穏やかな気候は確かに散歩にうってつけだ。


「そうだね、今日なんだか暖かいし」


 ショッピングモールに来た道とは別の道を進んでいく。

 通りに植えられた花たちも蕾を振っている、どうやら春が始まるらしい。


 住宅街を抜けて坂を上ると川沿いに出る。ジョギングをする人、犬の散歩をする人、子どもと遊んでいるお父さんやお母さん、こういうのを見ると。


「いいですよね、ゆっくりと時間が過ぎる感じがして」


 景色に目を向けたたまま春海さんはつぶやく。


「奇遇だね、俺もそう思ってた」


 日常の良さを感じるには非日常が必要だ。

 まぁ俺たちからすれば地獄が日常だから、休日の昼に外をゆっくり歩くのは非日常なんだろうけど。


 遠くまで続く川に沿って桜が植えられている。

 まだまだ3月も上旬、白とピンクの蕾がまるで景色というキャンバスに筆を落としたかのように点々と色を添えていた。


 いつか偶然見つけた狂い咲きの桜を見た時のように、彼女は数歩先を歩いている。


 くるっと振り向いた顔は儚げに、片方だけ持ち上げられた口角はどこか自嘲的だ。


「ねぇ先輩」


 あぁこの感覚、知ってる。

 遊ぶ子どもたちの声、自転車の通り過ぎる音、川のせせらぎが今は遠く聞こえる。


「知ってると思うんですけど」


 彼女は丁寧に言葉を落としていく。


「鹿見さん、あなたが好きです。優しいところも、先輩や後輩のために走り回って疲れた顔も、目も、声も全部」


 揺れるスカートに後ろで組まれた手、潤んだ瞳はまるで物語から飛び出してきたヒロインのようだ。


 穏やかで柔らかくて、ちょっと天然でどんなことにも前向きな彼女はまさに春、気温や空気でさえ今は彼女の味方をしている。


 だが。

 だが、そんな魅力的な彼女の気持ちにはどうしても。


「ありがとう春海さん、俺は」


 とてっと近づいてきた彼女に言葉を遮られる。


「知ってるんです、先輩。きっと、きっと勝てないことも。それでも私は」


 ここまで言わせて言葉にしないのは失礼だ。


「ありがとう、こんな人間を好きになってくれて。それでも俺は、もう誰かに渡す分がないんだ、全部られてしまって。だから春海さんの気持ちにどうしても応えられない」


 一息に、それでも噛み締めるよう大切に言葉を吐く。


 彼女は頭を振ると一歩、二歩と後ろに下がった。


「ありがとうございます、ちゃんと受け止めてくださって」


 両手の指を絡めてくっと彼女は伸びをする。

 幾分和らいだ雰囲気で、ゆっくりと綺麗な唇から言葉が紡がれる。


「先輩を好きな時間はとっても暖かくて楽しくて、それこそまるで春みたいで」


 今まで見た中で一番綺麗な表情に目が釘付けになる。

 俺はこの先を聞く義務がある。


「素敵な時間をありがとうございました。この気持ちを忘れられるまではあなたが好きです」


 徐々に世界が音を取り戻していく。


 ぺこりと頭を下げると彼女は駅の方を振り向いた。

 背筋を伸ばして真っ直ぐと歩く彼女に柔らかな風が吹いて、編み込まれた髪が揺れる。


 まるで美術館に飾られる大きな一枚絵のような景色を、俺は二度と見ることはないんだろう。


 最後に一瞬だけ視界にとらえた頬を流れる雫は時期尚早、早咲きの桜を映して淡いピンク色に光っていた。


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