第99話
車内のモニターに俺の最寄り駅が表示される。
ゆるりと揺れる吊革を見つめるが、心まで揺れることは無い。
この時間になると人混みというほど乗客もいないため悠々と降車。
まばらな人の間を縫って歩いていく。
『今最寄りついた、もうすぐ帰る』
先ほど会社を出る前に来ていた定時退勤モンスターからのメッセージに返事する。
こういう時に限って、あいつは定時に帰ってだらだらしているんだろう。なんだかちょっとムカついてきたな。
こっちが頭を悩ませているというのに。
改札に向かうエスカレーターで立ち止まると、頭の中にもやもやと思考が渦巻いていく。
鞄の一番上には彼女から貰ったチョコクッキー。
春の匂いがする彼女は、いつか桜の木の下で笑っていた彼女は、まるで心臓を撃ち抜くかのように手を傾けた彼女は、それでもやはり後輩だった。
夏芽が煙草を吸う気持ちも今ならわかる気がする。
どうにもやり切れない気持ちは、煙と一緒に宙へ投げるのがいいんだろう。
公園を横に見て歩いていく。繁華街というには規模が小さくて、住宅街というにはあまりにも賑わっているこの通りももう何度目か。
奥に見えるのは、前にたこ焼きを買った店。あれからかなり時間が経ったかのように思えてしまう。
この街には思い出が多すぎるのだ。
風が吹いてコートの裾をはためかせていく。
口があのチョコクッキーの甘みとコーヒーの苦味をまだ覚えている。
彼女の入社以来数多の時間を過ごせども、未だに仕事の上での関係という感覚が強い。
もちろんかわいいとは思うが。
信号の前で足が止まる。ここ、長いんだよなぁ。
少しの間瞼を閉じる。
なかなかどうして、こういう時に頭に浮かぶのはソファで寝そべっているあいつなのだ。
悔しいが、生活の一部になってしまったんだから仕方がない。
そういえばあいつは誰かにチョコをあげたんだろうか。自称のみならず他称モテる女こと秋津氏は、イベントに前向きな人間だ。
クリスマスに祭り、あのはしゃぎようからもそれが窺える。
空を見上げると霞む月がうっすらと光っている。
誰かに自分の作ったチョコを渡す秋津を想像すると、胸が痛いとまでは言わないももの、重たい息が口から漏れた。
家まであと数分、ポケットのスマホが震える。
『待ってるから早く帰ってきて』
あいつ、駅からの時間計算してるのか。怖すぎる。
『もうマンション見えてるから』
『部屋、暖かくしとくわね』
部屋暖かくしとくわね…?俺の部屋にいるのかよ。
改札を抜けた時よりも歩幅が大きくなる。街路樹や電柱もどんどん後ろへ。
夜も更けてきたというのに、明るい光に包まれる。
見慣れたエントランスに入ると、オートロックのドアを開けるため、俺はいつものようにクラゲを揺らした。
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