第87話

 目を開くとスマホでかけていた目覚ましを止める、金曜日の朝。

 俺は割とホテルで寝られるタイプだから快眠だった。カーテンを開けて入ってくる朝の陽射しに思わず伸びをする。


 今日は急遽決まった展覧会の視察当日だ。


 昨日は結局コンビニでパスタを買って部屋でだらだらと食べた。

 秋津なんかパスタとパンとケーキとかいう罪コンボを連鎖していたので、それはそれはよく眠れているはずだろう。

 ここぞとばかりに部屋に残りたいと喚く甘党モンスターを、なんとか隣の部屋に押し込められたのは僥倖だった。

 出先でくらいゆっくり寝かせてくれ……いつもは家主のベッドを占領してるんだから。


 スーツに着替えて秋津にチャットを送る。


『俺はそろそろ出れるけど、いけるか?』


『ばっちりよ!』


 返信を見て扉を開けると、隣からもガチャっと同じ音がした。


「おはよう、鹿見くん」


「あぁおはよう秋津、仕事モードだな」


 パンツスーツを着こなして髪を下ろした彼女は、できる営業といったところか。

 というか実際できる営業なんだよな、腹立たしいことに。


「ちょっと来て〜」


 部屋に手招きしている秋津に近付くと、いつものように手が伸びてくる。


「結び目整えるわね」


 流石に社会人も5年やってれば寝ていてもネクタイを結べる。そんなにおかしなことにはなっていないはずだが。というか人前に出るからちゃんと鏡見て結んだし。


 無事チェックアウトを終わらせると荷物をコインロッカーに預けて会場へ向かう。


「どこから見て回ろうか」


「私的には最初に知らないとこ少し見た後、取引先のところに挨拶がいいかも」


「そうだな、初手取引先だと長引くかもしれないし他のと比べられんもんな……全然真っ先に取引先のところ行くつもりだったわ」


 なんでこいつは朝からこんなに頭を仕事に切り替えられるんだ。俺なんてまだ半覚醒だぞ。


 薄い桃色の爪が目の前を通り過ぎる。


「ほらほら起きなさいな、せっかく久しぶりに私と仕事してるんだから」


 頬をつんつんと突く彼女を見て少し安心する、いつもの秋津だ。


「悪い、なんか普段仕事してる時間に外にいると変な感じがして」


「まぁ普段は会社にずっといるもんね、そのうち事務課の椅子に本当に根っこ生えるんじゃないかしら」


「そこまでじゃねぇよ」


 20階建てくらいの大きなオフィスビルに入る、自動ドアですらスケールがでかい。


「うわなんか緊張してきた」


「なんでよ。私たち別に出展してないでしょ」


「他所様のオフィスってだけでアウェイじゃん」


「もう、そんなのだと一生営業できないわよ。ほらちょっと手貸しなさい」


 言われるがまま手を差し出すと、そのまま彼女にぎゅっと握られる。

 悔しいがその柔らかい手に安心する。気持ち軽く握り返して手を離す。


 彼女は珍しいものを見ような顔で自分の手をぐーぱーと握っていた。


「どうしたの、あんた」


「だから緊張してるんだって。どこかの営業さんに慣れないことさせられてるから」


 悪態のひとつでもつかなきゃやってられない。


「ごめんって〜でも来てくれたじゃん」


「そりゃ仕事だからな」


「鹿見くんのそういうとこ、嫌いじゃないよ」


 その一言を最後にいつものできる営業の顔に戻る。俺もこいつのこういうところ、嫌いじゃないんだよな。


 エスカレーターで3階に上がると、そこはもうスーツを着た社畜達で賑わう会場だった。


 受付で会社名を伝えて名刺を渡すと、首に掛ける入館証が配布される。


 秋津のおかげで緊張が和らいだ俺は、意を決して展示ブースへと足を踏み入れた。


 

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