第57話 夏芽あいの逡巡
side:夏芽あい
私は今、取引先のオフィスにお邪魔している。先程までは打ち合わせで暇を持て余していたが、今は茶髪の美人に手を引かれるが如く先導されている。
「夏芽さん、こっちこっち」
秋津さん。凛とした雰囲気の中にも無邪気なところがあり、その上営業成績もトップと来た。逆立ちしても敵わないなぁという気持ちと、どうしてこんなに話が合うのだろうと不思議な感じがする。
「わぁ、広い…。」
連れていかれる先々でこの会社の自由さに驚かされる。秋津さんが突然「部長室」と書かれた部屋に入ったかと思うと、満面の笑みで出てきたのだ。
「社内見学おっけーもらったので行きましょう!」
アポ無しで幹部級に会えるところもさることながら、社内見学なんて外部の事務員にさせていいのか…?
心配になって彼女に聞くと「だいじょぶだいじょぶ、社外秘のとこにはいかないから!」とのことだった。
フリーアドレスを採用しているのか、色んなところで社員さんがPCやら資料を広げている。
彼らは秋津さんが通ると、例外なく笑顔で挨拶するのだ。すごい……。
彼女もみんなと一言二言交わすと、どんどん進んでいく。もうこれ社内全員と知り合いなんじゃないだろうか。
様々なスペースを見たが、最後に案内されたのは古風なフロアだった。よくあるオフィスといったいでたち、目を引くのはその書類や蔵書の数だ。
色とりどりのファイルが棚いっぱいに敷き詰められ内線が鳴り響く。
他とはひと味違う部署の名は事務課というらしい。あれだけの書類の中、座っているのはたったの5人。とんでもない量の業務を捌いているのがこの人数だということに戦慄する。
そんな空気にも臆することなく、秋津さんは声を上げる。
「こんにちは〜!」
その声に振り向く顔が4つ、みな他の社員さんと同じように顔を綻ばせている。
「いらっしゃい秋津さん」
厳しそうな印象の女性も好意的である。すごいなほんとに。
「お忙しいところお邪魔して申し訳ございません、相澤課長」
その名前で思い出す。顔合わせの時彼の後ろにいた人だ。
「お久しぶりです、相澤さん」
「いらっしゃい、夏芽さん。コーヒーくらいしか出せないけど」
「いえいえそんな!お気遣いいただいて…。」
1度しか見ていない私の名前を覚えてるなんて。
可愛らしいポニーテールの女の子とがっしりした体格の男の子がコーヒーとお菓子を準備してテーブルに案内してくれる。
言われるがまま座って皆さんのお話を聞く。私も似たような業務をしているから、共感もできるし勉強にもなる。
そんな中、キーボードを叩く音は鳴り止まない。
社内のありとあらゆる人が彼女に好意的に接している中一人、事務部屋の奥で作業している人間は胡乱げな目線をこちらに向ける。そう、鹿見 有である。
ちらちらと彼の方を窺うも目が合うことは無い。ブルーライトカットメガネをかけた彼は新鮮だが、そんなこと口にできるはずもない。
いつの間にか缶コーヒーを手にした秋津さんはずんずんと部屋の奥へ進み、彼の後ろに立つ。
「ほら、鹿見くん」
「何しに来たんだ、秋津さん」
振り返りすらせずにコーヒーを受け取る。あの2人、仲悪いのかしら…。わざわざ声をかけに行っているところを見ると、うざがってるのは彼の方ね。
「たまには顔見せに来たのよ」
「そういうことは営業終わりの書類をちゃんと提出する時だけでいい」
どことなく壁があるのに言葉に遠慮はない、なんともちぐはぐな関係に見える。
ようやく手を止めると、彼は受け取った缶コーヒーのプルタブを引く。
「あ、これサンキューな」
「泣いて喜びなさい」
目線に気がついたのか、近くに座っていた男性の社員さんが口を開く。
「あぁ、あの2人同期なんだ。鹿見のことは知ってるんだっけ?同じプロジェクトで」
「あ、はい。いつも仕事が早くて助かってます」
「あいついつの間にか終わらせてるからな」
先輩からの評価も高いらしい。
受け取ったコーヒーを飲む彼の顔を見てハッと気付く。
先ほどエレベーターホールで話しながら紅茶を飲む秋津さんの表情とよく似ていたのだ。私が大好きなあの顔だ。
そうか、そうなのか。ちぐはぐな距離感と言葉遣い、遠慮の無さもだからなのか。
悔しいかな、私の頭は最速で答えをはじき出してしまう。彼女と話しやすいとか好みが合うとかそりゃそうに決まってる。同じ人間を好きになってるんだから。
彼女が今の。いや、もしかするとずっと前から彼はあの人のものだったのかもしれない。
私はあんな顔を見たことがない。鬱陶しそうな、それでいて慈しむような。傍から見れば二律背反な感情も、彼女を見ればいつものことだとわかる。
自分の今の立場が、もうすでに終わった私にはどうすることもないこの無力感が憎らしい。
こんなに寒い冬だというのに、今日だってマフラーと手袋なしじゃ通勤すらままならない気温なのに。
「そろそろ時間ですよね」
いつの間にか近くに帰ってきた秋津さんが気を遣ってくれる。確かにそろそろうちの会社のメンバーと帰る時間だ。
朗らかに笑う彼女からは、名前通りの涼し気な金木犀の匂いが香る気がした。
それでも、大学を卒業してから切れたと思っていた縁がこんなところで繋がってしまったんだから。
であるならば、ならば手を抜いている暇なんてないんじゃないだろうか。
「夏芽さん、帰られるんですね。今日の議事録と資料諸々送っといたんでご確認ください。わざわざ弊社まで足を運んでいただきありがとうございます。」
他人行儀な彼に一発お見舞したくて。こんな私が切れる手札はこれしかなくて。
一歩だけ足を前に進めて彼の目を正面から見る。
「ありがとう、相変わらずね。昔みたいにあいって呼んでくれてもいいのよ?有」
眉間を押さえながら「馬鹿かよ…」と呟く彼を横目に事務課の面々に感謝を伝えて挨拶する。
その場にいた人たちは目を見開いて私と彼を交互に見ていた。ただ一人、伏し目がちな秋津さんを除いて。
私の名前とは真反対な冬も、ちょっと首元が寒いこの季節も、まだまだ捨てたもんじゃないと思えた。
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