第52話

 今日は大変だった、本当に。経理課に顔を出したのが始まりか、終いには春海さんにも……いや、この話はやめておこうか。


 季節はもう冬。


 いつも通りクラゲが揺れる。残業戦士と化した俺を暖かく迎えてくれるのは、自動で点灯する照明だけだ。


 鞄を床に置く。窓を開けているせいか冷たい風が部屋に入り込んでいた。

 手早くスーツを脱いでスウェットに着替えると、ワイシャツや靴下は洗濯機へ。社会人になって初めて貰ったボーナスでドラム式洗濯機を購入したのは間違いじゃなかった。

 ボタンを押すだけで全部やってくれる神アイテムだ。服は畳むのが面倒なので、基本ハンガーにかけてラックに吊るしている。


 そもそも外に出る用事なんて、秋津と買い物に行くか飲みに行くかの2パターンしかないしな。社会人になってから服のレパートリーがすこぶる減った。


 今日も今日とてキッチンに立つ。

 作るのは暗殺者のパスタだ。これいつも穏やかじゃないなって思うけど、どんな由来があるんだろう。

 片付けが楽だから軽率に暗殺者になっていきたい。


 取り出したのはニンニク。こいつがないとイタリア料理ははじまらない。

 薄くスライスして鷹の爪と一緒にオリーブオイルを敷いたフライパンで加熱していく。


 フライパンを火にかけている間に残り物のベーコンを薄く切る。疲れたし肉々しいものも食べたい。


 ニンニクのいい香りがしてきたらベーコンも投入、もうこの匂いだけで酒が飲めそうだ。

 続いてトマト缶を丸ごと入れる。やはりトマトペーストなんておしゃれ食材は家にない。

 フライパンからジュウっと音がしたかと思えば煙が立つ。


 ふつふつと沸いてきたらメインであるパスタのご登場。いつもなら絞ってばさぁと円状に入れるところ、今回は半分に折って縦に並べる。

 恨むなら26cmの家の相棒に言ってくれ、そう祈りながらパキッとパスタを折る。


 この作業を飛び散らさずにできる人間、本当に尊敬するわ。


 くつくつと煮えるパスタを見つめると、やはり思い浮かぶは人間関係。社内恋愛なんてろくな事にならないのに。


 そういえば大学同期が結婚するんだった、式は年明けだっけか。

 スマートフォンを眺めて独りごちる。ちょっといいスーツを出してこなきゃなぁと考えたところで、香ばしい匂いが。


 パスタの裏面が焦げ付いてきたらひっくり返し、缶に残っていたトマトを水と一緒に流し込む。

 ここまできたら後はラストスパート、塩と顆粒コンソメで味を整える。


 あー前に秋津が持ってきたワインが残ってたっけ。寒くなってきたしホットで飲むか。


 急遽小ぶりの鍋を準備し、赤ワインを注いでいく。蜂蜜と一緒に温めれば簡単ホットワインの完成だ。


「いただきます」


 最近2人でご飯を食べる機会が多いからか、1人での食事に気楽さをおぼえると共に一抹の寂しさが顔を出す。

 御託はいい、ご飯だご飯。


 テーブルの中央に陣取り得意げな顔で湯気を上げている暗殺者のパスタに向かう。


 フォークで巻き上げてひと口。


 トマトの旨味やニンニクのガツンと来る匂い、それに焦げから溢れ出るコク。

 パスタが舌に触れる度、まるで口の中で旨味たちが殴り合いをしているかのような錯覚を覚える。


 二口、三口と続けて、というか続けざるを得ないほどに、指が勝手にフォークを回していく。

 不意にベーコンに行きあたる。ニンニクの香りを纏ったベーコンの美味しさは言うまでもない。なんでこんなにベストマッチなんだ。食材でアイドルグループ作ったらデュオで曲出るくらいには合っている。


 ホットワインの温かさで安心したのかアルコールからか、はたまた残業のせいか脳が疲れている……いやこれは絶対に残業のせいだ。


 遅めの晩ご飯を堪能していると、スマホが震えた。


『今日も残業で疲れ果てて、でもちゃんと料理しているであろう鹿見くんに提案です』


 なんだなんだ、秋津はナチュラルに俺の行動を言い当てないで欲しい。こいつの予知能力というか俺に対する予想が当たりすぎてて怖いんだよ。部屋に監視カメラとか仕掛けられていないか探すか…?


『今度のお休み、買い物行かない?ボーナスも入るし』


 かんっぜんに忘れていた、ボーナスだ。寒い部屋に一筋の光が差したかのようにテンションが上がる、何を買おうか。


『よし行こう、朝からうちでご飯食べてから行くか?』


『ちょっと返信の早さが気持ち悪いんだけど。あといつもと違って乗り気なの何?』


『ボーナスのこと完全に忘れてたわ』


『働きすぎよ、でも朝ごはんはいただくわ』


 もぐもぐと口を動かしながら画面に指を走らせる。


『んじゃ土曜日で。俺は今から食べ終わった皿を片して寝るから』


『あ、やっぱり私の予想あってたでしょ?パスタとかかしら』


『お前まじで見てる…?』


『見てたわよ、ずっとね。それじゃおやすみなさい』


 スマホを裏返して机に置き、短く息を吐いて目を閉じる。

 今の生活が嫌いかと言われればそんなことはない。ほんのちょっと労働時間が長いだけだ。友人とも会えるし自分の時間もある。


 空になった食器達をまとめてキッチンに運ぶ。こうやって連絡をとって会うのも、本当は当たり前じゃないんだよな。

 偶然、そう偶然住んでいるマンションが同じだっただけ。


 無心で皿やフォークをスポンジで拭う。気温が低いからか、水道水がお湯になるまでに時間がかかる。


 それでも今こうして会えるなら。


 いつの間にか冷えた指先はじんわりと熱を持っていた。

 


◎◎◎

こっそり深夜に更新する日があってもいい。

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