第44話 秋に桜は返り咲き(前編)
木曜日。今週は秋も深まるというのにやけに暖かかった。
定時になると皆そそくさ帰る準備をしている。そう、明日はお休みなのだ。三連休のなんと心躍ることか。
「失礼します」
こちらに目を合わせながら春海さんが挨拶、今日はこの後飲みに行く。別に一緒に帰りながら途中で行けばいいと思うが、どうもだめらしい。若い子の考えることはよくわからん。
「あれ、鹿見早くない?なんか予定あんの?」
俺も帰る準備をしていると目敏い小峰先輩が話しかけてくる。いいじゃないか、たまには定時退勤しても。
「今日この後予定あるんですよ」
「お、ついに彼女できたか……?」
「そんなんじゃないですって、ただの飲みです」
PCをシャットダウンし、Bluetoothマウスとキーボードの電源も落とす。
個人情報系の書類が机に出ていないことを確認して小峰さんに一言。
「んじゃ、お先に失礼します」
疑わし気な先輩の目を受け流し、エレベーターホールへ向かう。今日は秋津は実家に帰るとか言ってた気がするな。流石に何回もタイミング悪く春海さんと歩いている時に会うこともないだろう。
愛しき我が社のドアをくぐる。時刻は18時と少し、確か待ち合わせは19時半だったはずだ。
秋とは思えないぬるい風が頬に触れる。辺りはもう暗くなっているから身体が錯覚を起こしそうだ。
今日も今日とてクラゲのキーホルダーを揺らして帰宅、確か私服で来て欲しいと言ってたっけ。
クローゼットから秋服を見繕う。社会人になってからはめっきり私服で過ごすことが減ってしまった。
黒のスキニーパンツにサンイエローのニット、後は秋津と買い物に行った時に買わされた黒縁の伊達眼鏡を掛けていく。
「よし、いくか」
時刻は19時ちょうど、春海さんの最寄りはうちの近くだからこれくらいで間に合うだろう。
店の前に着くこと数分、向こうからポニーテールを揺らして春海さんが歩いてきた。
「お疲れ様です、鹿見さん」
「うん、おつかれ。春海さん。私服見るのは初めてだけど似合ってるね」
くすんだピンクのワンピースに真っ黒なヒール、いつもより少しだけ紅い唇と目元の彼女は、秋を溶けているようだった。
普段スーツ姿の彼女を見ているからか、大人な雰囲気を出されるとこちらも気後れしてしまう。
何とか平静を保ってお店のドアを開ける。
今日訪れたのは地元の野菜を使った料理が有名で、ワインの美味しいお店だ。
淡い光に包まれた店内に入ると、カウンターに案内される。彼女を奥に通して、自分は手前に座る。
あまりこういう場所に来たことがないのか、春海さんはソワソワしている。
「どうした、緊張してんの」
「あ、はい…普段あんまり外に飲みにいかないですし、ちょっと、鹿見さんと2人だからというか、あのあの…」
ちょっと最後の方は何言ってるか聞こえなかったけど…そうか、女子会とかだとカウンターに2人並ばないよな。知らんけど。
メニューはドリンクのみ、今日はコースでの予約だ。
白ワインをボトルで頼むと銀色の小さなバケツに氷と水と一緒に入れられた状態で運ばれてくる。
おぉ…と漏らすと、緊張が解けたのか春海さんがくすくすと笑っている。
「なんでそんなに笑ってるの」
「いや、先輩はこういう場所慣れてらっしゃるから気合い入れなきゃと思ったんですが…」
「いいよいいよいつも通りで」
ふりふりと揺れている緩く巻かれたポニーテールが愛らしい。グラスに注いでカチンッと合わせる。
「「乾杯」」
ひとくち、たったひとくち薄透明の液体を口に含む。それだけでまるでデザートを食べているかのような甘みが口を襲う。
「あっま…!なにこれすご」
思わず言葉が口を出る。春海さんもびっくりしたのか目を開いている。食前酒として白ワインが使われるのも納得の味わいだ。
続いて運ばれてきたのはアスパラの目玉焼きのせ。家で作るのは黄身が見えているが、この目玉焼きは両面ふんわり焼かれている。
フォークとナイフで黄身を割り、切ったアスパラにつけて口へ運ぶ。ピリッとした黒胡椒にアスパラと卵本来の甘みがよく混ざって、まさに絶品。店員さん曰く、このアスパラはこの市で採れたものを使っているらしい。
もちろん美味しいものはそれはそれで幸せだが、背景を知っているとより楽しく食べられる気がする。
右隣には綺麗な所作でアスパラを切る彼女、こういうところで育ちが見えるよな。確か学生時代はずっと女子校だっけか。
ほんのりとピンクの頬を緩ませる春海さんは、先程と違って年相応に見える。
コースは進み、ワインのボトルも半分になった頃、やはり話のメインは仕事についてだ。
「今期なかなか大変だったよな、鈴谷くんも春海さんもよく頑張ったと思うよ」
「ありがとうございます…去年はもっと落ち着いてたのに」
「あぁ…あれが特別なだけで、今の方がいつも通りって感じかな」
「えぇ…これが続くんですか…」
「まぁまぁ、大丈夫。俺のあっちのプロジェクトも大詰めだし」
「営業課に鹿見さん取られるの大変なんですからほんと」
頬を膨らませてぷりぷりと怒っている。
かわいいな、と口からこぼれそうになる。酔いも回ってきたか、少し身体が熱い。
今日のメインは魚らしい、白ワインを頼んでいてよかった。テーブルに丁寧に置かれたのはきのこと鮭のムニエルである。
外はパリッと中はふんわりの白身魚は本当に白ワインと合う。付け合せの野菜もほくほくで、少し暖かくなったとはいえ秋の風に晒された身体に染み渡る。
「これ美味しいな」
「ほんとに、こんなの家じゃ作れないですよ」
「そういや春海さんって一人暮らしよね、料理とかするの?」
「大学時代から一人暮らしでして、料理は人並みです…人様にお出しできるようなものは…昔習ってたので苦手ではないんですが」
「料理に習うとかあるのか、すげぇ」
「親がその辺厳しくて」
独学も独学、ジャンクなものを作って秋津に食べさせている自分が恥ずかしくなる。
「で、でも鹿見さんもお料理上手ですよね?いつかいただいたお弁当、とっても美味しかったです!」
「ありがとね、そんな気を遣わなくても」
「嘘じゃないです!鹿見さんさえよければまた…」
「お、じゃあまた作ってくるね」
ふんわりと時間は流れていく。会社の昼休みだとこうもいかないし、たまに飲みに行くの楽しくていいな。
「あ、ちょっとお手洗いに…」
少し高めのカウンターチェアから降りる春海さん、っとヒールが床のタイルに滑って転けそうになる。
「ちょっ…」
手を伸ばし、思わず引き寄せて抱きとめてしまった。緩く巻かれたポニーテールが頬を掠る。秋とは思えない香りが鼻に抜ける。
驚くほど軽くて柔らかい彼女の身体に動揺する。
すぐに抱きとめた手を離す。
顔を上げた彼女と目が合う。いつかの飲み会帰りに見た綺麗なブラウンの瞳、会社で見るよりも紅い頬、整った鼻筋が見える。半開きの唇から目が離せない。
時間にして2秒もなかっただろう、急いで顔を背ける。
「ごめん…こんなつもりじゃ」
「い、いえ、助かりました。ありがとうございます…」
名残惜しそうに腕から手を離す彼女、長く綺麗な指先に視線を奪われてしまう。
奥のお手洗いに消えていく彼女を見送る。
自分の手に季節外れのあの、薄いピンク色の花の匂いが残っている気がする。
ぶわっと上がった体温を冷ますかのように、俺はなみなみとグラスに注がれた白ワインを飲み干した。
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