第35話
ただいま時刻は19時、定時は過ぎているがまだまだ元気である。
事務課のオフィスに残っているのは俺と春海さんだけだ。そろそろ事務処理だけでなく企画系の業務もやっていこうということで、鈴谷君と春海さんも小峰さんと俺それぞれについて秋口にあるイベントの準備をしている。
「進行表のこの部分、表記揺れがあるから計画と同じにしとこうか」
「はい!」
皆そそくさと帰ってしまったから、そこそこ広い事務部屋に俺の声が響く。
別に今日絶対仕上げなければならないかと言われればそんなことはないが、明日以降俺の手が空かない関係で春海さんにも残ってもらっている。
彼女に残業をお願いした時妙に嬉しそうだったが、もしかして残業モンスターの素質ありか…?こっちの世界は危ないので近付かないほうがいい。
「鹿見さん、企画書のこの部分って空欄なんですが…」
「あぁそこは営業課の枠だから置いといていいよ、どうせギリギリに入れられるだろうから」
スプレッドシートを横から覗き見すると、甘い匂いが鼻を抜けて一瞬体の動きが止まる。
「どうかしました?」
不思議そうに頭をこてん、と横に倒した春海さんがこちらを見る。
「いやなんでもない、ごめんよ」
「そういえば飲みに行くって話、いつにしましょう」
「あ〜言ってたな。結構前なのによく覚えてるね」
「約束しましたもん!私基本的にいつでも空いてますよ!」
「うーん、来月頭の平日とかどうだろう。ある程度この企画関係も終わってるだろうし」
「そうしましょ!またチャットで候補日送りますね!」
残業中なのに元気だなぁ。
そこから数十分、キーボードを打つ音だけが部屋を支配する。時刻は20時と少し、春海さんはもうそろそろ辛くなってくるだろう。
「春海さん、」
「は、はい!」
びくっと肩を揺らしてこちらを向く彼女、突然声をかけて悪いことしたか。
「疲れたしちょっとだけ休憩しよっか」
そう言うと俺はコーヒーメーカーへ近付き、マグカップを用意する。
「コーヒー淹れるけどどうやって飲む?俺はブラックで」
「じゃ、じゃあ私もブラックで」
あれ、普段ミルクとか砂糖入れてた気がするんだけど…。眠気と戦うためかな。
ガーッピーッとコーヒーメーカーが唸りをあげる。
この匂いだけでもう目が覚めそうだ。ただ、今コーヒー飲むと夜眠るのに支障がなぁ…。まぁ残業を乗り切るためだ、そんなことも言ってられない。
マグカップを2つ自席に持って帰る。ここでこぼすとこれまでの苦労が無に帰すため、慎重に慎重に。
春海さんは黒い液体と見つめあっている。コーヒーって飲むのにそんなに勇気いるか?
意を決したのか小さい口をマグカップに付ける。
驚くべきというか案の定というか、目をぎゅっとつぶって喉を鳴らす。
「無理してブラック飲まなくても」
「うぅ〜やっぱり苦いです、」
「普段ミルクと砂糖いれるもんね」
「バレてましたか…今日くらいは鹿見さんと同じのをと思ったんですが…」
「せっかく淹れたんだから美味しく飲んでよ。ほれ」
コーヒーメーカーの隣に置いてあるスティックシュガーと、冷蔵庫からミルクを取り出して渡す。
「ありがとうございます、次こそは」
「いやいや無理しないで普通に甘くして飲んで」
そこからなんとかキリのいいところまで片付けるとさっさと会社を後にする。
春海さんの家は俺の最寄りの隣駅、乗る電車も同じだ。
「今度飲みに行く時、会社帰りじゃなくて一旦帰ってもいいですか?着替えたいので」
「いいけど…じゃああの駅近くでお店探しとくよ」
「ありがとうございます。あ、私この駅なので」
「そっかそっか、今日はお疲れ様。付き合わせてごめんね、助かったわ」
「こちらこそご一緒できて良かったです!ではまた明日、おやすみなさい!」
会社にいる時よりどこか上機嫌な彼女はヒールを鳴らして颯爽と電車を降りていった。
◎◎◎
旅行パートだと思った?残念、残業でした!この世は無常……!
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