第29話

 目を覚ますと違和感を覚える、身体が重い。あぁこれはあれだ、熱あるな。

 フラフラと身体を起こし、体温計を取りに行こうとなんとかリビングに向かう。小さな画面が指し示すのは38.2℃、意外とあるな。


 時刻は朝の7時25分、普段ならばもう歯を磨いてジャケットに腕を通している時間だ。

 こんな状態で仕事するのは正直気が進まない。おそらくミスで他の人に迷惑をかけてしまうだろう。ここはひとつ、有給の使い時だ。


 ベッドに舞い戻ると枕元のスマホを手に取る。仕事用のチャットアプリを開いて相澤さんの名前を探し出す。


『朝から申し訳ございません。発熱しまして、1日お休みいただけますと幸いです。』


『了解、最近働きすぎよ。ゆっくり休みなさい。』


 ずっと見ているのかという程返信が早い。これでお子さんの送り迎えまでしているのだから驚きだ。


 それにしてもまさか昨日夏芽に会うとは思わなかった。どこかであの会社に聞き覚えがあるかと思えば、彼女が就職していたところか。大学時代に別れてから卒業までほとんど顔を合わせず、人伝いに聞いただけだったから忘れていた。


 これからプロジェクト進める時あいつとやるのか…。まぁ仕事だ、私情は持ち込まないが。初対面で色々調整していくよりはやりやすいか。


 別に俺たちは喧嘩で別れたり、どうしようもないことがあって別れたわけじゃない。何となく付き合って、何となく一緒に楽しんで、そして何となくじゃ未来が見えなくなって別れた、それだけだった。


 いつになく頭で独り言が響く、風邪だと思考がまとまらない。


 今日は休みを勝ち得たことだし仕事のチャットアプリは絶対開かないぞ。ごろん、と寝返りをうって決意を固める。


 どんどん体温が上がっている気がする。夏もそこそこ、冷房をつけているはずが肌が熱を持っている。ただ身体の芯から冷えるような悪寒もする。あぁ久しぶりだな、風邪特有のこの不快感は。


 心なしか喉も痛くなって気がする。そういえば冷蔵庫にもう食材がなかったような……。どうしようか、まぁ1日くらい何も食べなくても大丈夫か。


 そんなことを考えながらまぶたは下に落ちる。どうしてか眠りに落ちる直前に頭に浮かんだのは、秋津の顔だった。


ーーー


 不意に目が覚める。日が高く昇っているところを見るともうお昼だろうか。

 きゅるきゅるとお腹が鳴る。すまんな俺の身体、冷蔵庫に何も無いからお前を満足させてやれない。


 水を飲もうと寝室のドアを開けてリビングに続く廊下を歩いていると、何やら音が聞こえる。風邪で耳がおかしくなったか?


 覚束無い足で身体を引きずって歩いていると、リビングのドアが開く。


「ちょ、なにやってんの。寝てなさい」


「は?なんでお前」


 驚きでけほけほと咳き込む。


「細かいことはあとあと!ベッドに帰りなさい」


 夢でも見てんのか?目の前にはスーツの上にエプロンを着た秋津が立っていた。

 そのまま彼女は俺の腕を引っ張ると、寝室へと連れていく。風邪で重い身体では抵抗もできない。


「おい、風邪うつるから……」


「別にうつってもいいから。とにかく寝てなさい。あんたが風邪なんて珍しい」


「俺も人間だからな」


「あんたは残業モンスターでしょうに」


「お前にだけは言われたくない」


「はいはい病人は寝ましょうね〜どうせ病院行ってないんでしょ、まったく」


 そのまま元いたベッドに寝かされる。布団を掛けられ、隣にペットボトルのスポーツドリンクまで準備される。なんなんだこの高待遇は。


「ほら、もうちょっとだけゆっくりしてなさい。お昼作ったげるから」


 返事を待たずに秋津は俺の髪をくしゃっと撫でるとキッチンへと消えていった。

 呆然としたのも束の間、再びまぶたが重くなる。あいつがいるってだけで安心してしまう自分の感情に悔しさを覚えながら、俺は思考を手放した。

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