第5話
木曜日、それは希望に満ち溢れた日である。週の後半も後半。もう週末という山頂が手に届きそうなほど近い平日である。そう、普段ならば。
時刻は午前10時20分。嵐の前の静けさなんてとうの昔に過ぎ去り、今は台風の中である。具体的には、明日の大口案件2つの商談に向けて、大量の処理を捌いていた。これもギリギリになって方針転換した営業課の上層部が悪い。
確かに方針転換した方が従前のものよりいい案ではある。やはり数年でこの会社を大きくした営業課の手腕は確かだ。
しかしそれは外から見た時の話だ。中で処理を進める身にもなってくれ…。前の案で行くなら、この木金も日付が変わる前には帰れそうなくらいには準備していたが、全部水の泡だ。儚い。
既に昨日の徹夜を乗り越えているため、目の下には真っ黒な隈が見て取れる。事務課(とは名ばかりの事務と企画担当)は総出で朝からフルスロットルである。
いつもは元気のいい後輩ズも顔が死んでいる。そうか、修羅場は初めてか。ようこそこちらの世界へ。
「ちょっと外の空気吸ってきますわ」
さすがに今日は出勤している上司の相澤さんに声をかけて、席を立つ。
「いってらっしゃい。営業課のバカどもに会ったら一発殴っといて。」
いつもは穏やかな相澤さんも今日ばかりは荒れている。まぁたぶん俺と先輩の小峰さん、課長の相澤さんは今日も徹夜だからああもなるか。
愛しきわが社の自動ドアをくぐって近くのコンビニへ向かう。世間はもうすぐ大型連休か、駅前のノボリを見て気がつく。今年はちょっと実家に顔を出すか。確か学生時代の同期たちも帰ってきているだろうし。
コンビニの棚からコーヒーとエナジードリンク、それと後輩たちへのお土産をかっぱらうとレジでお会計する。
暗雲立ちこめる事務部屋に帰ってくると、先輩の小峰さんが上司の相澤さんと話していた。
「こっちの案件、進め方と稟議の上げ方この方式でいこうと思いますがいかがです?」
「稟議の回し方はこれでいいけど、進め方はもうひとつの案件と抱き合わせの方がいいんじゃない?途中までルート同じでしょ。」
「あ〜たしかに、一旦両方作ってまたお見せします。」
「よろしく、頼りにしてるわよ。」
いつになく和やかに進んでいる。修羅場でもこうであってくれ。
後輩ズは必死に書類を捌いているところだ。2人の前にプリンとシュークリームを置く。
「来週抜けたら楽になるから耐えような。」
「「は゛い゛……」」
ゾンビのような声で返事をした2人、目の前の甘味に気を取られたのは一瞬、すぐに書類を捌き始めた。こりゃ末期だな。早く帰ってもらおう。
パチパチとキーボードを叩く音、シュッぺラッと紙を捲る音が空間を支配する事務課。普段なら内線も鳴るが、営業課は明日に向けてのミーティング、経理もうちと同じで修羅場ってるのだろう、今日に限って電話は静かなもんだ。
「休憩!」
上司の相澤さんが鶴の一声を上げる。言葉になっているのかいないのかわからないうめき声を出しながら、先輩の小峰さんが机につっ伏す。
「2人とも、一旦休もうか。お昼でも食べに行こう。」
目の死んだ子犬2匹を連れてエレベーターへ向かう。外に連れ出さないと休み時間まで仕事しそうだもんな、この後輩ズ。
先週よりも暖かくなった大通りを抜けて、1本中の路地に入る。
普段1人で昼食を摂りたいときに訪れる小さな和食屋の暖簾をくぐる。
「あら鹿見ちゃん、いらっしゃい」
いつも聞く女将さんの穏やかな声が響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます