失踪5

 体が、重い。まるで鉛のような体は酷く冷たく、芯が震えていて生きた心地がしない。どうやら一瞬だけ幻視の中へ意識が飛んでいたようだ。やがて自分の心音を感じ、今この場に生きていることを実感する。壁にもたれて座り込んでいたらしいことがようやく分かった。目の前は真っ暗だが僕が落としたスマートフォンの明かりだけが唯一の光源だった。そんな真っ暗な教室の中で、僕の体から黒いヘドロのようなものが剥がれていく様を捉えた。

「うわっ!」

 そう悲鳴を上げたのは高尾空翔で、霞む目を凝らして視てみると、ヘドロのような黒い存在が彼にまとわりつこうとしていた。

「なんだよ! なんで俺の言うことを聞かない! あぁ、もう! また失敗かよ!」

 苛立ちを隠しもせずぶつけている。そのすきに僕はポケットに入っていた鈴を出した。これは昨日、季四菜から渡されたものだ。

 リン、と微かに静謐な音が木霊す。その音に空翔が血走った目を向けた。

 僕は怯むことなく壁づたいに立ち上がり、真っ直ぐに彼らを見つめる。高尾天愛だったものが一つの塊になって元の形に戻っていくのをしっかり捉え、鈴と一緒に空を斬る。瞬間、彼女は痙攣を起こして収縮していった。

「やめろ!」

 空翔がヘドロを剥がしながら近づこうとする。しかし、何もない空間に風が巻き起こり、呪殺に使った紙がバサバサと机の上から舞い上がった。紙が教室中に広がり空翔の行く手を阻む。どこからか祝詞が聞こえてくる。鈴の中だ。それが季四菜の祝詞だと気がつき、僕はさらに姉弟の元へ鈴を向けながら近づく。教室の板が大きく震え凄まじい音を響かせた。

 ビシッ──!

 ひときわ大きく教室が軋みを上げる。

 そして気がつけば、ちぎれた無数の紙吹雪が教室内を舞い、化け物の姿は跡形もなく消え去っていた。床に転がる空翔の姿がある。わずかな光源で見えるのは彼の足から血が滲んでいる様子だった。

「クソッ……」

 空翔が体を起こし、立ち上がろうとする。しかしすぐによろけて床に突っ伏した。足がちぎれている。それに気づいた彼は目を大きく見開かせた。

「え……? あ、っ……は……?」

 理解不能な現象に痛みや恐怖が麻痺したかのように、ただただ呆然と自分の足を見つめている。

「……呪いに対抗するには、呪者に返さないといけないそうです」

 うまく整っていない呼吸のまま静かに言うと空翔は僕と自分の足を交互に見た。鮮血が床を濡らしていく。

「おそらくすべての呪いが君に返ったんでしょう。その報いです」

「あんたがやったのか?」

 床に伏す彼は立ち上がろうと腕を立てた。しかしうまくいかず、腕が折れる。折れた腕はそのまま腐り落ちるようにして床に崩れた。それでもなお空翔は僕を真っ直ぐに睨みつけて這い寄ろうとする。普段の彼とは想像もつかないほどの執着を見せる。その執着とはなんなのか。復讐を終えたはずの彼は未だに何も満たされていないようだ。

「僕だけの力じゃ無理です……ただ、もう呪殺は済んだ。だから君のお姉さんがもう終わりにしようと」

「黙れ! 終わりになんかするかよ! 俺は、まだ足りてねぇんだよ! 俺の人生をぶっ壊しといて、このままで済むと……」

 そう叫ぶ彼の口から血が噴き出す。血だけでなく臓器のような塊も出てきた。全身が腐り落ちようとしている。腰から下が朽ちて断面があらわになったが、その姿はまるで江戸川乱歩の芋虫を彷彿とさせた。そんな姿になっても彼はすべてを恨み尽くさんとする激しい憎悪の目を向けながら笑っている。

「ふざけんじゃねえ……俺はもっと、これからも、幸せそうなヤツら全員ぶっ殺すんだ……それ、な、のに……」

 なぜ彼がここまで歪んでしまったのかは想像に難くない。が、同情する気にはなれない。人はみな平等であるべきだと思うし、悪人でさえ人は人であり生ある限りは救えたらと思う。でももう救えないものと成り果てたものに対して手を差し伸べることはできない。

 その時、両手だけの霊が彼の筋張った首を掴んだ。あっと思ったときには遅く、両手だけの霊は彼の首を絞め上げる。そのまま首が落ち、空翔の顔がごろりと転がった。

「田澤、梨香……」

 梨香の手がトドメを刺した。これに深い因果を感じずにはいられなかった。


 ***


 気がつけば眠っていた。夜中のうちに上司へ仕事を休む旨をメールで伝えているので朝が来てもゆっくり眠っていられるだろうと思っていたのだが病室の壁にもたれて眠るのは難儀なものだった。

「……三紀人くん」

 そう呼ばれるまで頭は働かず、目を開けてぼんやりと白いシーツを見る。

「三紀人くん」

 ベッドに横たわる三雲のうわ言が脳に達してようやく眠気が飛んだ。彼女はまだ目をつむったままだが意識を取り戻したのか、か細い声で繰り返し僕を呼ぶ。

「三紀人くん」

「眞純? 僕の声が聞こえるか?」

 手を握ると彼女は弱々しく握り返した。

「私、まだ生きてる?」

 小さく紡がれる声を受け止め、僕は彼女の手を強く握った。こちらの世界へ連れ戻すように。

「バカ。当たり前だろ」

「そっか……そっかぁ……」

 彼女は安堵ともがっかりとも取れるような声音で微かに笑った。


 朝焼けと同時に三雲の意識がはっきりとしてきたので医者は「驚異的な生命力だ」と称した。救急搬送された彼女はほとんど心肺停止状態で、また頭をひどく打ち付けていたのもあり最悪な事態も考えられた。どうにか息を吹き返して病室に移動したもののまったく意識が戻らないので僕はずっと付きそうことになり、今に至る。ちなみに頭を打ったのは僕が廊下に放り投げたせいだが黙っておいた。この秘密は墓まで持っていこうと誓う。

「なんか、久しぶりによく寝たわ」

 まだ体を起こすことはできないが、三雲の目はすっかり冴えていた。

「寝不足で心肺停止していたのかってくらい、すっかり元気だな」

 おかげでこっちはどっと疲れが溜まっている。僕もかなり衰弱していたはずなのに入院させてもらえないのは少々納得がいかない。そんな僕の不機嫌を見抜いたのか三雲はシーツを引き寄せて、ふふっと笑った。

 やがて静かに気まずい時間が訪れ、その空気に合わせるかのごとく三雲がぽつりと訊いた。

「それで、彼はどうなったの?」

「……呪い返しにあって、死んだ」

 酷い有様で。かつての部下がそんな風に死んだと聞かされればさすがの三雲も顔をしかめて黙り込む。

「君は彼が呪者だと気づいていたのか?」

 訊くと彼女は首を横に振った。

「私もね、今やっと自分の記憶がなんだかあやふやだってことに気づいたのよ。そうだったそうだった。あなたとすでに『天使ちゃん』を追いかけて、それで呪われたんだわ」

 彼女は静かに当時を振り返った。

 あの時、高尾空翔の姿は影も形もなかったが、どこかで僕らのことを嗅ぎつけたのだろう。彼が呪殺を企てている際にいち早くその情報を掴んだのが三雲だった。彼女は僕を引っ張り出し、田澤梨香の死までは突き止めていたものの高尾天愛にまではたどり着けず、また当時はそれほど『天使ちゃんの呪い』もマイナーすぎて情報が足りなかった。だから三雲はリサイクル回収倉庫に置いてあった紙を使って『天使ちゃん』を一人で行ったのだ。その結果、三雲は『天使ちゃん』を呼び出して呪いを受けることになった。

「……あの紙はまだ彼にとって試作品でしかなかったのよね。でも私が勝手に降霊術を行ったから偶然にも呪殺の道具が完成した。これじゃあ私も同罪ね」

 そう言う三雲の声にはまったく反省の色が見えない。

「でももう紙は消滅した。呪いも消えた。『天使ちゃん』もいなくなった。私の尻拭いをしてくれたあなたのおかげよ」

 さっぱりと言い切るので僕はもう何も言い返さずに黙っておいた。目がつらい。体が重い。骨がギシギシ軋んでいる。筋肉が強張っているし、さっさとシャワーを浴びて布団に潜りたい。

「よし、帰ろう」

「え? 待ってよ! まだ話は終わってない!」

 思い立ったように立ち上がったら彼女に腕を引っ張られて椅子に座らされた。

「もう、なんだよ……帰らせてよ。眠たい」

「大事な話が終わってないでしょ!」

「大事な話ぃ? なんだよそれ。さっさと言えよ」

 眠気のせいで機嫌がさらに悪くなる。そんな僕に構うことなく三雲は僕の手を強く握りしめてボソボソ言った。

「その……」

「ん?」

「ほら、えっと」

「なに?」

 いつも気丈な彼女にしては妙に言いよどんでいる。

「ほら、えーっと……もう呪いは解けたわけでしょ」

「うん」

「だからさ、そのー……復縁しない?」

 最後の方の言葉はかなり小さくて聞き取りづらかったが、そう聞こえた。僕は「えっ?」と息を飲んだ。じっと見つめればみるみるうちに三雲の頬が紅潮していく。

「あー、やっぱなし! いい! もういい!」

 突然、思い切り枕を顔に投げつけられ、その衝撃で眼鏡がずれる。

「は、はぁ? なんだよ、どっちだよ!」

「うるさい! いいのよ! もう私たちはどのみち終わってたんだから! やっぱこのままでいい! あのクソ面倒な手続きをまたやるのかと思うと吐き気がするわ!」

 ダメだ、三雲の情緒がよく分からない。だがあの手続きをまたやるのかと思うと吐き気がするのは同意だ。しかも結婚のときより離婚の方が大変だったし、手軽にできることじゃない。

「こっちだって願い下げだ。ただでさえ、君に関わってたら僕まで命を落としかねない」

「あーあ、霊能者の端くれだっていうのにビビりなんだから! こっちだってあなたみたいなへっぽこ霊能者は願い下げよ! 下手な商売ばかりして、ストレス溜まっちゃう!」

 僕の嫌味が三倍になって返ってきた。口でも勝てない僕は彼女の顔面に枕を押し付けた。

「ぶっふぁっ!」

 奇妙な悲鳴を上げる三雲。僕はフンと鼻で笑って立ち上がった。

「いいな、しばらく大人しくしてろよ。仕事も休むんだ」

「それは私の勝手でしょ! これからも仕事は続けるし!」

「ああそうですか。だったら君には金輪際会わないよ」

「えぇ、どうぞ! お望み通り、私も会わないようにするわ! さっさと消えて!」

 そうして彼女は僕の目の前でカーテンをサッと閉めた。しかし、カーテン越しに小さな声が聞こえた。

「……じゃあね」


 帰路につく。そのさなか、あの数週間前に彼女と再会した日を思い出した。考えれば考えるほど、あの時の彼女は別人だったな。今の三雲が三雲らしい。

 八月最初の朝陽はほんの少し湿り気を帯びていた。

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