失踪4

 昇降口が開いている。中を覗けば、自分の背より少し低い靴箱が連なっている空間があり、どれもこれも時が止まったよう。窓はすべて板が打ち付けられていてこれ以上ないほどの闇が広がっていた。スマートフォンのライトで足元を照らして奥へ進む。昇降口の正面に階段があり、その横に備え付けの校舎内マップがあった。二年二組は三階にある。迷わず階段を上ったが、一段一段上がるたび重たい埃が足元にまとわりつく。踊り場にネズミの死骸を見つけて息を飲み、また上る。二階から三階へ。今度は踊り場に鏡があり、自分の姿が映って少し怯む。気を取り直してまた上る。

 ようやく三階の廊下へ足を踏み入れたその瞬間、水の中へ沈むような感覚に陥った。それまであった夏の熱気が一気に消え失せ、半袖から剥き出しの腕がたちまち粟立つ。重たく反発する空気に触れると背中毛が逆立った。気が澱んでいる。踏ん張らなければ前に進めないほど重たい。ゆっくりと歩を進め、二年二組の教室へたどり着いた。どれも施錠されている教室だが、二年二組だけドアが開いている。

「眞純……!」

 思わず声が飛び出した。机がすべて教室の後方に積まれているのに、教室の真ん中に机が一つだけ置いてあり、そこに彼女がぐったりと突っ伏していた。

「おい、しっかりしろ! 眞純!」

 肩を掴んで揺り起こすも彼女の顔は青白く、どうも意識がないようだった。脈はある。まだ死んでいない。彼女を移動させようと動かせば、机の上に『天使ちゃん』の紙が置いてあった。


 しあわせになった?


 子供の字でそう書いている。さらに文字が自動的に書かれていく。


 ますみちゃん

 ともだちになろう

 むかえにいくよ


 僕は彼女を抱きかかえ、教室を出ようとした。しかし足を掴まれ、バランスを崩すも踏ん張って背後を見やった。

 足首に手が腕が巻き付いている。教室の床から何かが浮かび上がろうとしている。それはあの真っ黒な深淵と似ていて全身が危険を感じていた。彼女を抱えたままでは身動きが取りづらい。しかし、やるしかない。右腕で彼女を支え、左手を振るって勢いよく空を斬る。

「……っ!」

 床が大きく波打つように揺れた。

「キャアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 黒い腕に傷がついたと同時に教室中に金属をこするような大きな悲鳴が上がった。しかしそれはまだ存在している。

 祓えない。こんなに大きく強い霊──いや、これはもう化け物だ。僕の力じゃ太刀打ちできない。言葉で促して浄化させることも不可能。

 黒い腕と足が同時に床から這い出し、首の断面が出てくる。腹と胸の位置が逆になっており、なにもかもがあべこべの物体がすすり泣きながら出てきた。笑っているのかもしれない。呻くようにも引きつった笑いにも聞こえる。『天使ちゃん』のおでましだ。

 僕は呼吸を整え、ゆっくりと気を落ちつかせた。息を吐き出す。集中する。これだけの霊気が満ちる中、生者の気配が僕らとまた別にあることを悟り、背後の窓に手をかけた。

「……さて、いい画が撮れましたか?」

 目の前の『天使ちゃん』が蠢く様をじっと睨みながら、僕は背後の廊下にいる人物へ言葉を投げた。思い切り窓を開ける。そこには黒いキャップをかぶった男がいた。カメラを片手に佇んでいる小幡司は呆気にとられたように一歩後ずさる。

「どうして……だって、全部忘れてたはずじゃ……」

 彼は動揺を声に乗せて囁く。僕はちらりと背後を見つめた。

「思い出したんですよ。離婚する前に少し細工をしたので」

『天使ちゃん』はただただその場にいるだけ。ハリボテではないが、あれはもう自我を持たないもの──この小幡が攻撃を促さない限り動くことはできない。

「呪者は君でしょう? 小幡さん……いや、高尾空翔つばささん?」

 鋭い声音で言うと彼はカメラを降ろし、クツクツと気味悪く笑った。

「おばたつかさ、入れ替えると、たかおつばさ。考えたらすぐ分かりますけど、そんなことを考えるきっかけなんてないです。君がただ、ちょうど高尾天愛の弟の年齢くらいだなと思っただけ」

 静かに手短な説明をする。彼は反応を示さずわずかな抵抗心があると感じられた。

「付け加えるなら、高尾天愛の弟は行方不明だと言いましたよね。高尾家のことだけ情報が薄くて、君の調査にしてはなんだか雑だなと思いました」

「それだけで?」

「まあ他にも理由はつけられますが……上司が死にかけている様子をカメラに収めようとしている時点で言い逃れは無理ですよ」

 なおも冷静に話せば、空翔はようやく認めたのか、ため息をついた。

「呪者が弟だって、なんでそう思うんです? 俺、別に姉の仇を討ちたいわけじゃないっすけど」

 彼は平然と笑いながら言った。その言葉に嘘はないだろう。彼は姉を貶めた人物を回りくどいやり方でじわじわと呪殺したが、そこに姉への想いは微塵も感じられない。

「自分のためじゃないですか?」

 僕の言葉に彼は軽薄そうな口を結んだ。キャップのつばを深くかぶり、背後の窓に背をもたれて疲れたようにため息をついた。

「君の趣味はバッドエンドにすること、でしたね」

「そう。自分の手で最悪な結末を生み出すのがいい」

 そう言って彼は首を鳴らし、そのままの体勢で僕を暗い瞳で睨めつける。やがて、彼は軽く鼻で笑った。

「偶然にしちゃいい実験だったな。二年前、三雲さんがすすんで実験体になってくれたおかげで呪いの紙が完成した。複製しまくって呪殺がスムーズに運んだし、もうあとは三雲さんが死ねば完璧。俺好みのいいバッドエンドになる。別に三雲さんに対して呪い殺したいほどの恨みはないけどね」

 そう言うと彼は腕を組んで笑った。そしてカメラをその場に放り投げ、教室に入ってくる。

「ほら、姉ちゃん。友達ほしいんだろ」

 なんの躊躇いもなく化け物に近づく高尾空翔が無邪気に言う。邪悪な笑みを浮かべて三雲をまっすぐ指差した。しかし高尾天愛は不気味に蠢くも、弟の声に従う素振りを見せなかった。どちらかというと戸惑う様子だった。

「ん? どうしたの? 姉ちゃん、友達だよ」


 アレ、天使チャンノ知ラナイ人ダヨ。


 幾重にも重なったような声がそう言った。これには空翔もわずかに驚きを見せる。

「知らない人でも友達は友達だよ。いっぱいいたほうがいいだろ? もっとたくさん増やせばいい。そうしたら姉ちゃんは幸せになる」


 ツバサモ幸セニナル?


「……あぁ、うん。だからさっさとやれよ。いつものように」


 デモ、怖イヨ……天使チャン、怖クテ近ヅケナイ。


 その声に空翔は僕を見た。そして気だるそうに目を細め、姉の体に蹴りを入れる。

「お前が怖がってどうすんだよ! いいからさっさと殺せよ!」

 瞬間、姉の姿が唐突に大きく膨らみ、まるで怒りを現すように獰猛な咆哮を上げた。それは大きな野獣のごとくあり、真っ直ぐに僕を狙って飛びかかってくる。咄嗟に三雲を廊下に放り出した。が、僕はまともに攻撃を受けた。壁に背中を打ち付け、痛みに呻く間もなく体の中に黒いものが染み込んでいく。まず感じるのは酷く冷たい水のようなもの。そのあとに内臓を虫が這うような気持ち悪さ。呼吸ができない。自分の体が何者かに侵食されていく。しかし恐怖を感じる暇もなく、朦朧とする意識が暗い深海へと引きずり込まれていった。


 ***


 夕焼けが机に反射し、交差する光の筋を生み出す。規則正しく並んだ三十の机。グラウンド側、前から三番目の机で八歳の少女たちが三人、真ん中に一人の少女を置いてぐるっと囲むように手を繋いでいる。儀式めいた様子だが重苦しさはない。クスクスと忍び笑う声が開いた窓の向こうへ吸い込まれていく。五時のチャイムが鳴り、カーテンがはためく──

 気がつくとそこは教室だけの世界だった。誰も僕には気づかない。ただ無邪気に遊ぶ少女たちだけの空間。それはきっと彼女がずっと夢見ている世界なのだろう。唐突に悲しみが襲いかかってきて無意識に涙が落ちた。悲しみに溺れていく。次第に何が悲しいのかすら分からなくなっていく。

 やがて呆然とする僕の前に一人の少女がうずくまっていた。

「せんせい」

 不意に呼びかけられ、無意識に「はい」と答える。彼女がどうして僕のことを「せんせい」と呼ぶのか判然としないが自然と彼女と向き合う形で見つめ合っていた。

「せんせい、わたしは悪い子なの?」

 涙で顔をぐしゃぐしゃにした少女は、かつての高尾天愛。まだ『天使ちゃん』になる前の彼女だ。

「どうしてお母さんはわたしのことをかわいがってくれないの? お父さんはいつもいない。わたしが悪い子だから?」

 情けないことに答えが見つからない。黙り込んでいると彼女は肩を落として立ち上がる。

「でもね、いつかはきっとみんながなかよくしてくれるって信じてるの。だってね、梨香ちゃんがそう言ってたんだよ」

「え?」

 思わず声を上げると、彼女は得意げに笑った。

「小学校に入る前にね、病院で会ったことがあるんだよ。一緒に遊んだの。それでまた会おうねって約束したんだ。梨香ちゃん、忘れちゃってたけど」

「……そうだったんだ」

 なんとも言いようのない虚脱感に襲われる。得意満面な彼女の頭を撫でると嬉しそうな笑顔が華やぐように咲くので、さらに胸が痛んだ。

「忘れられるのって、つらいですよね」

「そうだね……」

 僕の言葉に彼女の笑顔が少し曇った。子供にしては大人びた寂しげな表情を見せる。そしてジワジワと涙を浮かべた。やがて大粒に変わり、笑顔のまま涙を流す。いたたまれず、抱き寄せると彼女は火がついたように泣き出した。しばらくそのままでいる。

 ようやく落ち着いた頃、僕と彼女は宛もなくその空間をさまよった。真っ暗な洞穴のようなトンネルが見えてくる。

 足元には血溜まりが浮かんできた。これに彼女は深いため息をついた。

「わたしのせいでみんな不幸になっちゃった。ツバサも苦しんでるの。わたしのせいでね」

 そう言って彼女は腕を組む。うーんと悩み、小首を傾げたままの状態で僕を見上げた。

「……ねぇ、せんせい。ツバサのこと助けてくれる?」

「え?」

「わたしにしてくれたように許してあげてよ」

「うーん……」

 さすがにそれは難しい相談だ。

「そうしたら、ますみちゃんは返してあげるよ」

 あっけらかんと言われ、僕は苦々しく顔をしかめる。とんでもない交換条件だな。

「ちなみにどうして? 彼はかなり許されないことをしてきましたが」

 言ってみると彼女は後ろ手を組んで恥ずかしそうに言った。

「だって、わたしの弟なんだもん」

「そうですか……」

 正直、彼を許すことはできない。だったら──

「あなたが許してあげるのはどうでしょう?」

「へ?」

 今度は天愛がキョトンとした。狐に摘まれたような顔で見上げている。そんな彼女に僕はクスリと笑った。

「だって、お姉ちゃんなんでしょう?」

 すると彼女はパッと顔を綻ばせた。

「そうだね!」

 彼女はトンネルの向こうへ駆け出した。手を振りながら消滅していく。その瞬間、世界が真っ暗闇に染まった。

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