失踪2

 スマートフォンのアラームが鳴る。この音が鳴ると体が勝手にビクッと反応して目が覚めるが眠気は覚めず、寝ぼけ眼のまま三段階でかけたアラームのうち一つを解除して再び枕に顔を埋めた。十分後、第二弾アラームが鳴り、また止めて枕に突っ伏す。段々脳が鈍く動き出すがそれでも起きなければという意識がなければとっくに眠りに沈んでいくところだった。しかし第三弾アラームが鳴る前に電話がかかってきた。

「……はい」

 相手が誰なのかも確認しないまましょぼしょぼの目を開いて電話に出る。喉がかすれていてうまく声が出せない。そんな僕の耳に届くのは懐かしさを感じる低い声だった。

『おはよう、

 僕を〝みき〟と呼ぶのはこの世で一人しかいない。それまで眠気で重たかった頭が一瞬冴えた。

「弐支……?」

『どうだい、久しぶりの俺のモーニングコールは。目が覚めたかい』

 時計を見ると現在午前七時。電話の向こうにいる弐支はスッキリとした目覚めらしい爽やかささえ感じる。平日だから出勤前だと思うが、今はちょうど朝食中なのかもしれない。学生時代は夜型人間だったくせに、いつも規則正しい生活をしているはずの僕と違って寝起きがいいのは本当に昔から納得がいかない。

「えーっと、なんか用? 僕の最後の十分睡眠を邪魔するほどの」

『そう邪険に言うなよ。俺がショック受けて死んだらどうする? お前、俺の家族養ってくれるんだろうな?』

「なんでそう極端なんだよ……」

『素直に、起こしてくれてありがとうって言えばいいのに。あぁ、そんなことを言いたいわけじゃなかったんだ。電話切るなよ』

「切らないよ」

 むくりと起き上がってベッドの上で目をこすりながら弐支の相手をする。

『ニュースは見たかい?』

「いつのニュースだよ。今朝のなら今しがた起きたばかりだから知るわけないよ」

『あぁ、そうだったな。テレビあるんだっけ? ニュース見てみろ。ヤバい事件がいよいよ幕を閉じるらしい』

 もったいぶる言い方をするな。僕はしぶしぶ部屋の隅に置いたテレビをつけた。各局似たりよったりな朝の情報番組をいくつか変えていく。そこでちょうどニュースを読んでいた局にチャンネルを合わせた。それは山奥で遺体が二体見つかったという痛ましい事件だった。若い女性と見られる二名の遺体──行方不明と思われる女性の──現在身元を確認──そんな声を断片的に取り入れ、僕の脳はすっかり覚めた。

「これは……」

『〝天使ちゃん〟の復讐が完了したようだ』

 知り得ないはずのことをサラリと電話の向こうで言われ、時が止まる。そして忍び寄る不気味な恐ろしさが朝の爽やかさをぶち壊す。

「……なんで弐支が知ってるの?」

 今回追いかけている『天使ちゃん』のことを弐支には話していない。それなのになんだか知ったような口ぶりの彼が不気味で堪らない。そして彼は電話の向こうで首を傾げているに違いないことが覗えるような呆れ声で返した。

『兄弟だから当然だろう』

「いやいやいや、兄弟だからって、甲斐姉弟みたいなテレパシー持ってないだろ、僕らは」

『バカ。そんな気色悪い回線使うかよ。簡単な話、壱清に聞いたとも言えるし、俺はもともと知っていたとも言える。そういうことだ』

 含みのある言い方をするな。こういうとき、彼はとても機嫌よく僕をからかおうとするので話す気になるまで放置するに限る。僕は電話をスピーカーモードにしてテーブルに置いた。顔を洗って身支度をしていく。その間、弐支は僕から放置を食らって必死に呼びかけていた。

『おーい、みきー』『寝ちゃったのかー』『ねぇ、無視しないでくれる?』『三紀人くーん?』『ちょ、あの、ごめんってば。怒らないで』

 買い溜めしている菓子パンを食べながらペットボトルのコーヒーをグラスに注ぐ。眠気覚ましのブラックを飲みながらようやく弐支の相手をしに戻った。電話は通話が切れたかのごとく静かになっていた。

「弐支? 拗ねたの?」

『あ、戻ってきた。あー、良かった。お前に嫌われたら死んじゃうとこだった……』

 すると電話の奥で弐支の長女が母親に告げ口をしている声が割り込んできた。

『ママー! パパがまた死んじゃうって言ってる!』

「……子供に悪影響だからそういうことを言うのやめなよ」

 二児の父親なのに根っこはまったく変わらない兄の情けなさについ笑うと弐支は鼻息を飛ばしてきた。

『一年ぶりにみきと絡んだから嬉しくてつい。俺は結局いつまでもブラコンのまま生きてるのさ』

「あっそ……」

 コーヒーを飲む。苦味に顔をしかめていると、先ほどの弐支の言葉に違和感を覚えた。

「一年ぶり……?」

『そうだよ。なんだい、みき。のかい、まだ』

「………」

 僕は壁にかけたカレンダーを見た。四月に戻る。確か姪っ子の入学式で、弐支家族と出かけたような気がしていたのに一年も間が空いていたはずがない。

「弐支……結夏ゆいかちゃんって今年、一年生、だよね……?」

 結夏ちゃんは弐支の長女で僕の姪っ子だ。今年小学一年生になったばかりだから入学祝いを買った──と思ったが徐々にこの記憶の誤差に気がついており、冷や汗が浮かぶ。違う、入学祝いを買ったのは今年じゃない。

『二年生だよ』

 僕の嫌な予感と重ねるように弐支が言った。僕は頭を抱えた。

『まだ寝ぼけてるんだな』

 どうやら一年ぶりに話をするらしい兄の声音はわずかに安堵しているような節があった。それが何を意味するのか、ある程度の予測がついたがこの朝の忙しい中で弐支の胸ぐらを掴んで問いただしに行くには無理があるので早々に諦める。だから一言、疲れた声を投げつけた。

やったんだな?」

『ひどい。人を犯人扱いするなんて。でももうお前なら分かったはずだぜ。昨日の夜、そういう気配があったんで電話をした。おめでとう、これで俺たちは自由だ。ふふん。また飯にでも行こうぜ。じゃあな、仕事行ってきます』

 一方的に勝手な話をしてブツリと通話が切れる。最後の言葉は僕に言ったのか義姉に言ったのか判然としなかったが、もう何も言わないスマートフォンから流れる通話終了の音を消そうと思いつくのに数秒かかった。


 子供の頃に出会った『こまちちゃん』のことを、その時期の僕はしばらく思い出すことができなかった。それは父が僕のショックを和らげるためにあえてそうしたらしい。思い出したのは大人になってからだ。

 記憶の一部を封じることができるという嘘のような術が我が浅香家には存在する。そしてその術は弐支も使える。むしろ父以外じゃ弐支しか使えない。ほとんど絶滅危惧種のような極小の力だが今回もどうやら使われていたらしい。一年も。一年の間、何らかの代償を払って僕の記憶を封じていたのである。

 さて、その記憶というのは一年間すべてというわけではない。僕は間違いなくこの一年の記憶を有しているがどこか欠落した状態だった。

 小幡から何度も問われた三雲と離婚した理由──これがまるっきり抜け落ちていた。というより何か別の事情にすり替わっていた。結婚してすぐにテレビ局を辞めて今の仕事を始めた三雲の忙しさに僕はついていけず、すれ違う生活に神経をすり減らしていた出来事だけで僕を三雲との離婚に向かわせていたというものである。だから小幡に問われてもうまく答えることができなかったのだ。違和感があったから。

 つまり僕が今回、弐支に一部を封じてもらっていたのは三雲眞純に関することからなる一連の出来事だ。まだすべてを思い出せたわけではないが、おそらく昨日の夜に僕は自ら深淵を見た。自力で封印を解いたのだろう。

 このことを即刻話すべく三雲に連絡を入れようとスマートフォンを取る。そろそろ出ないと遅刻になってしまうので家を出ながら電話をかけた。

 しかしそれから電車に乗るまで何度コールをかけても彼女は一切応答しなかった。


 ***


 昨夜の件でどっぷりと疲れているが、出勤しなくてはならないので支度を整えて出かけた。寝不足の体は夏の熱に刺激されて溶けようとしていた。

 そうして通勤中、陰鬱な霊を何体か見つけて祓えそうだったら祓いながらいつものように出勤する。しばらくしたら同僚たちがやってきて子供たちを迎える準備をする。保護者も出勤がてら、つくしハウスに預けにくるがその中に雅言くん親子の姿は今日もなく、さすがに心配になってくるが元気な子供たちや元気のない子供たちを一気に相手にしていくと考えている余裕がなくなった。

「雅言くん、久しぶりー!」

 笑い合う子供たちの声が耳に届き、ふと見やればしばらく休んでいた雅言くんがいた。今日はお父さんが送ってくれたようですでに姿はなかった。さっそくみんなに囲まれる雅言くんは少し人見知りしているようでよそよそしい。

 あくびを噛みながら仕事に入る。そんな時間も過ぎていく頃、エアコンが効いた部屋で一人だけぽつんと絵を描く女の子が目に留まった。

「あの子、誰だっけ」

 思わず呟くと、傍らにいた男性の同僚が「え?」と気づく。

「あぁ、あの子は今日からの子ですよ。名前はー……あー、なんだっけ」

 思い出せないらしい。そんな大事な話を聞いた覚えがない僕は困惑の笑みを浮かべて彼を見たが子犬みたいに小顔な彼はもう僕の困惑には関心がなく、バタバタと施設の中を移動する。

 僕も仕事をするべくその場から動いた。あと一時間で念願の休憩だ。そう気を抜いて目をこする。寝不足の疲れがだんだん重たくのしかかってきており、節々が悲鳴を上げ始めた。頭もクラクラしてくるが体力と気力でどうにか踏ん張っている。そんな僕の孤軍奮闘をつゆ知らず、子供の誰かが僕の膝裏を思い切り何かで突いた。ガクンとバランスが崩れ、あっけなく崩れ落ちる。

「やったー!」

 四年生男子軍が狙ったらしい。そのまま上からのしかかられ、比喩ではなく本当に子供の体重で押しつぶされかけた。

「痛い痛い痛い……死ぬ……」

 床に伏したら子供たちはバタバタとどこかへ散っていった。こういうことは日常茶飯事だが、今日はとにかく堪えた。

 そんな僕をあの女の子がじっと見ている。丸くつややかな髪型はまるでりんごのようにキレイな丸みを帯びていて、夏場だというのに薄手の白いカーディガンを羽織っていた。全体的にまんまるなその子は表情が乏しい。

「どうしましたか」

 僕は寝そべったまま訊いた。すると彼女はビクッと肩を震わせて目をそらす。そのまま匍匐前進して近づいてみる。女の子は意外にも嫌がる様子はなく、その場に座ったまままたお絵かきを再開させていた。上体を起こして様子を見てみる。

「何を描いてるんですか?」

 今度はちゃんと座って訊いてみるが彼女は関心を示さずただただ黒いクレヨンで画用紙に何かを描いていた。

「これは……顔ですか?」

「はい、かおです」

 少女は意外にもハキハキとすぐに答える。反応があるのは少し嬉しい。調子に乗って話しかけてみる。

「誰の顔なんでしょう?」

「おうちにいます」

 推定年齢六歳ほどの少女だが、物言いが大人びているように思えて少し笑ってしまう。しかし彼女はやはり僕の様子には関心がなく顔の下に伸びる体を黒で塗りつぶした。その次に赤いクレヨンを取る。

「しあわせのもようをかくと、とてもよろこびます。すきなんです」

 そう言いながら人物の回りにハートマークを描いていく。ハートの中には顔のような目と口も描かれた。

「この子って、君のお友達ですか?」

「てんしちゃんです」

 僕の声にかぶせるようにして彼女は言った。ハートの中が赤い色で溢れていく。言葉を失っていると彼女はパッと顔を上げてニコリと微笑んだ。

「てんしちゃんは、まいにちママとなかよししています。ママもおえかきしてあそんでます。てんしちゃんといっしょに」

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