ノイズ6

 なぜ言われるまで気づかなかったんだろう。なぜ僕は三雲眞純が僕を呪っているという可能性を考えなかった。無意識にその考えを排除していたのか。まったくおめでたいやつだ。

 それからどうやってトレジャーメディアを出たかはあまり覚えていない。自宅へ戻り、無心でシャワーを浴び、食事はろくに摂らず、パソコンも開かずソファに身を投げて沈む。ぼうっとする頭で思い浮かぶのは三雲の顔ばかり。呪いとか霊とか霊能者とかとにかくどうでもいい。普段は霊の気に飲まれないよう平静なメンタルを保つことに意識を向けているけれど、こればかりは……少々堪える。いやかなり堪えている。ソファに爪を立て、足をバタバタさせるくらいには堪えていた。

「あの女……本当にいつもいつも面倒なことをしてくる……あぁ、もう、本当に……ほんっとうに……! あぁっ!」

 年甲斐もなく恨み言を呟く。こういう時は自分の心を誤魔化さずに正直に怒るほうがいい。悲しい時はしっかり悲しみ、怒りたい時は怒る。また人のいないところでやるほうが羞恥心が生まれずに済むので一人暮らしで良かったと思った。

 むくりと起き上がると前髪が上に逆だっていたので元に戻す。しかし、一度火がついた心では苛立ちが止まらないので意味がなかった。

「なんで僕が呪われなきゃいけないんだよ、くそっ……本当に腹立たしい……それで呪ってのうのうと平気な顔して接してくるの、あれはなんだ!? なんなんだよ、意味が分かんねぇ! 大体そっちがそうやって迷惑かけて、心配させてくるからだろ! この、僕の心労も知らずに! それをっ、それをさぁ! はぁーっ、やってらんねぇ!」

 ソファと揃いのブラウンのクッションを思い切り殴った。もう絶対に助けないと誓う。そもそも僕たちはもう赤の他人。関係は解消したわけで、こうして頻繁に会っていることこそおかしな話だ。

「はぁ……よし。よし、そうだ、それでいい。うん……」

 冷蔵庫へ向かい、開ける。貯蔵していたビールが一本もなく、代わりにMさんが微笑んでいる。バタンと乱暴に閉めた。くそ。また苛立ちが湧く。

「まぁいいや……買いに行けばいいんだ。ふぅー、よし」

 一人で飲んでも酔えないけど気晴らしにはなる。財布とスマートフォンを取って外に出た。鍵を忘れてきたことに気づいて、イライラしながら戻って鍵を取る。ふと部屋を見るとMさんがいた。睨みつける。彼女は口を開き、何かを言おうとしていたがその前にドアを閉めてしまった。

「えっ」

 思わずもう一度開けるも彼女はいなくなっていた。

「なんなんだよ……」

 ドアを閉めて鍵をかけ、リンドウ色の熱風空間に飛び込む。今日も暑い。ビール二本は飲める。そんな夜だと思った。コンビニまではここから数一〇〇メートル歩けばたどり着く。住宅街の中にポツンと急に現れる青い色のコンビニの光が眩しくて思わず目を細めた。最寄りのコンビニなのでどこに何があるのかはすでに把握済みである。冷蔵スペースの酒類コーナーへ淀みなくまっすぐ向かい、いつも買うメーカーのビールを確認。今日は五〇〇缶を二本手に取る。そのままクルリと振り返ってレジへ行く。小銭が足りなかったので仕方なくスマートフォンのウォレット払いにする。そうして店を出る頃にはすでに日が暮れており、僕の苛立ちもいくらか冷めていた。普段なら絶対やらないけど、喉の渇きのせいでビールを一本手に取った。プルタブを開け、信号待ちの間に喉へ流し込む。

「はぁー……生き返った」

 父が昔言っていたようなセリフを言うようになったなと地味に嫌な気持ちになりながら、ビールをさらに飲む。信号がなかなか変わらないのでスマートフォンを出した。丈伍からメッセージが入っていた。

【メール見て】

 いつものそっけない仕事依頼であり、そのままメールボックスを開く。そこには田澤由貴子からのメッセージが入っていた。


【リカの声に疲れました。すみません。すみませんすみ縲ゅ☆縺ソ縺セ縺帙s縺吶∩縺セ縺帙s縺なさいごめs縺斐a繧薙↑縺なさい私が悪>遘√′謔ェ縺?〒縺縺吶∩縺セ縺帙s縺ァ縺励◆遘√′謔ェ縺九▲縺溘〒縺吶Μ繧ォ縺ッ謔ェ縺上≠繧翫∪縺帙s縺ァ繧ゅb縺?ュ」逶エ髯千阜縺ァ縺吝ォ後〒繧ょソ倥l繧九%縺ィ縺後〒縺阪∪縺帙s遘√′謔ェ縺??縺ァ繧ゅ≧豁サ縺ォ縺セ縺吶°繧峨←縺?°縺企。倥>縺励∪縺吝、ゥ菴ソ縺。繧?s縺斐a繧薙↑縺輔>縺ゅ↑縺溘↓縺励◆縺薙→繧堤ァ√?蜻ス縺ァ蜆溘>縺セ縺吶←縺?°螳峨i縺九↓縺顔悛繧翫¥縺?縺輔>螟ゥ菴ソ縺。繧?s縺ィ繝ェ繧ォ縺。繧?s縺ゅd縺ェ縺。繧?s縺ソ縺ッ繧九■繧?s繧医↓繧薙〒縺ェ縺九h縺上@縺ヲ縺上□縺輔>螟ゥ菴ソ縺。繧?s縺ゅj縺後→縺?#縺悶>縺セ縺励◆】


 飲んでいたビールが気管支に入っていき、激しく咳き込んだ。しかも口に残っていたビールでさらに咽る。

「え、はぁ? ちょっと待って、何これ」

 すぐに丈伍へ電話をかけた。

「丈伍!」

『あ、にぃ。なんかヤバそうやん。どうするん? 今から現場行ける?』

 僕の焦りとは裏腹に丈伍はのほほんとした声で言う。

「急すぎて理解が追いつかないよ! なんかヤバそうなのは分かるけど!」

『そぉだよねぇ……んー、どうしたもんか。あ、そうだ』

 しばらく丈伍の声が遠くへ行く。そうしている間に信号は青に変わったが僕はくるりと方向転換してビールをグイッと一気に飲み干した。急に飲んだから胃が苦しくなる。

「うぇぇ……現場行くしかないか……今から行くと、えーっと」

『飲酒霊能師は引っ込んでろ。うちのバカ姉貴が近くにおるっぽいけん、向かわせるわ』

 丈伍は厳しく言うと何やら電話の向こうでキーボードをカタカタ打ち込んでいた。

『うん、季四ちゃん、おったわ。よーし、行って来い! エンタァーッ!』

 そう言ってひときわ大きくキーを押す音がして静まった。なんだかゲームで操作しているような軽やかさだが、季四菜あいつはパソコンのキーで言うことを聞くのかと場違いなツッコミを頭の中でしてしまう。

『うっし、にぃは一旦帰れ。晩酌の邪魔して悪かったな』

「いや、行くよ。一本飲み終わったし」

『えぇ……あっそ。じゃ、好きにしぃ。とりあえず姉貴が行ってくれとるけん、喧嘩すんなよ』

 どうやって季四菜を見つけて現場に向かわせているのかは想像もつかないが、そんなことを考えている暇はない。駅まで走っていき、改札に飛び込んだ。


 ***


 真っ黒な夜の中、古びたアパートはまるで幽霊屋敷のようだった。錆だらけの階段を駆け上がってその場にビールを置いて田澤由貴子の部屋の前にたどり着く。部屋のドアは半開きだった。

「季四ちゃん! 田澤さん!」

 声をかけて中へ入る。不気味なほど静かな部屋なので、一旦息を整えてサンダルを脱いだ。部屋に足を踏み入れるとギシッと床板が鳴る。完全に部屋着のままで来たが構わず部屋の中を覗いた。真っ暗だ。紐で引っ張るタイプの蛍光灯なので紐を手探りで探す。

「季四ちゃん……いないの? 田澤さーん?」

 いくらか声を低めて呼びかけるも人の気配をまるで感じない。ドアが半開きじゃなければ留守だと思う。部屋は閑散としており、居間に行けば扇風機のモーター音がした。弱風がブーンブーンと左右に流れる。その不穏さに思わず心がすくむ。

「誰か返事して……」

 全身から汗が噴き出していて指が滑るなか、どうにかスマートフォンのライトを点けた。すると目の前に紫色の髪の毛があった。

「季四ちゃん」

 なんだ、いるじゃないか。

 そう思って肩を叩く。すると季四菜はゆっくりと振り向いた。虚ろな目をしている。

「季四ちゃん……?」

 まばたきをしてそれを捉える。季四菜の中に何かが入り込み、顔が重なって視える。焦点の定まらない目を僕に向けると急速に血走った。

「あっ……あがっ、がががっ……」

 季四菜の口が痙攣していく。眼球がひっくりかえる。やがてひきつけを起こしたように彼女の呼吸が早くなっていく。その尋常じゃない様子に息を飲み、ゆっくり後ずさった。

「季四菜から離れてください」

 声をかける。自分の声じゃないような気がするほど冷静に、再度繰り返す。しかし季四菜の中に入り込んだ霊はどうしたら良いか分からないというような混乱を表情に張り巡らせていた。

「離れてください、由貴子さん。大丈夫です。離れて。でないと除霊しなきゃいけなくなる」

 除霊は霊にとって苦痛を伴うらしい。だから悪意のない者には極力対話を試みたい。しかし彼女は僕の言葉に従わない。

「嫌だ……嫌、なんで、なんでどうして……」

 季四菜の口を通して言う。そして手を伸ばして僕の方へとすがってきた。ダメだ。ここまできたらもうどうしようもない。

「しっかりしろ、季四菜!」

 彼女の襟首を掴んでひっくり返し、背中を叩く。すると季四菜は目を覚まして傍らにあった神楽鈴を掴んで鳴らした。瞬間、部屋の中が柔らかい膜でいっぱいになるような圧力がかかる。しかしすぐにそれは解かれ、正常な空間に戻る。鈴の音の残響が静かな空間に溶けていくとようやく息ができた。

 季四菜が長く息を吐く。そのまま彼女は床に座り込んだ。

「季四ちゃん」

 慌てて支えると彼女は僕の腕をぐいっと押しのけた。

「大丈夫じゃ、三紀人にぃ。ちょっと暗すぎてやらかしただけ。ほんまあんたが来てくれて助かったわぁ……あはははっ」

 呑気に笑う季四菜だが、体は凍るように冷たい。目はまだ焦点が定まっておらず瞳が揺らいでいる。

「何があったんだ」

「知らんわ。こっちが聞きたいっちゅーに……まぁ、聞かんでも分かろう。さっき我に取り憑いとった女……ここの住人じゃろ。あんたとうちのぼんくら弟の依頼人。ほれ、見てみ」

 そう言って彼女はまだふらつく体を壁で支えながら奥のスペースへ行く。僕も彼女に付き添ってゆっくりと奥を見やる。分かってはいたがこれは──

「ここの住人が死んだ、ただそれだけのことじゃろ。ほんま嫌な死に方しよるわー……」

 田澤由貴子が首を吊って死んでいた。押入れにある太いポールに縄を垂らして首を絞め上げている。また首から下が長く伸びており、腕も足もだらりと床に向かって垂れ落ちていた。事切れてどのくらい経っているのか不明だが口や鼻から体液が滲み出ており、見るに堪えない状況だ。

「自分で死んだくせに我に取り憑こうなんぞ、イミフじゃイミフ」

 季四菜が死体からふいっと目を逸らして吐き捨てた。

 その際、僕の耳に何かが息を吐く音が届く。目も当てられない田澤由貴子の背後に、いつの間にか娘の姿があった。

 お母さん。

 田澤梨香はそう呟くと、ふっと姿を消した。

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