メモリー:田澤梨香

「梨香、高尾さんのこときらい」

 そう言ったら綾奈と美春から笑顔がスッと消えたことだけを梨香は覚えていた。なぜだか無性に嫌いだった。はっきりと口に出しただけで自然と高尾天愛のことが漠然と嫌いだと思った。

 田澤梨香の前席に座る高尾天愛は小さくて少し頬がぷっくりとしていて、いつも笑顔を見せる女児である。しかし勉強が得意ではないのか授業中に先生に当てられたら泣き出して授業を中断させることがしばしばあり、また鉛筆をしょっちゅう落とすので梨香が拾ってあげるのが常だった。毎日そうだったからだろうか。昼休み、仲良しの綾奈と美春と一緒に昨日のテレビ番組について話している最中、天愛も会話に割り込んできたので咄嗟に口に出したのが先の言葉である。

 梨香、高尾さんのこときらい。

 すると天愛は泣きそうな顔をしてどこかへ消えた。

 しかし天愛は翌日から梨香に話しかけるようになった。その際、彼女が何を言っていたかはろくに思い出せない梨香だったがともかく面倒で鬱陶しい気分になったのだけは記憶にある。

 梨香が天愛を嫌いだと言ってから、三人は自然と天愛から離れて話すようになったのだがそれでも天愛は三人を見つけて異様な執着を見せた。

 きらいにならないで。そんな風に言われて追いかけられた。あまりにもしつこいので梨香は天愛に向かって砂場の砂をかけた。天愛の口の中に砂が入り込み、彼女はその場で嘔吐した。それから天愛は学校で腫れ物扱いになった。みんなが天愛のことを揶揄し、また担任教師も天愛の面倒を見ることにウンザリとしていたので席が近い梨香に「高尾係(という名目の世話係)」を言いつける。このことが嫌だった梨香は数日だけ学校を休んだが、復帰したら綾奈と美春が天愛を罰するルールを作っていたのですぐに実行へ移した。

 その頃ちょうどバラエティ番組でこっくりさんの特集をやっていたか、はたまた母親から聞いたのか、学校の図書室にあったおまじない本を見たのか、こっくりさんやエンジェルさんを真似て遊んでみた。放課後の教室。三人でおまじないごっこをするのが至福の時間であり、当時同じクラスの男子との相性を占う恋占いにハマった。しばらくは三人でこの奇妙でスリリングで新鮮な遊びを楽しんでいたのだが、パターン化されてきたらすぐに飽きた。ふとこれに天愛を加えてみたらどうかと考える。

「高尾さんをこの輪の中に入れるでしょ。で、命令するの」

「それやって楽しいの?」

「だってあの子、遊んであげたらなんでも言うこと聞くよ」

 やがて天愛を含めて放課後のおまじない遊びが始まる。

 天愛は常に真ん中に座らせた。それはわらべうたの〝かごめかごめ〟のごとくあり、三人はそのシステムを取り入れて天愛を輪の中から出さないようにした。紙の上に座らせ、言うことを聞いたら遊んであげるなどと言って頭を叩く。髪を抜く。天愛はされるがままでニコニコと笑っていた。

 少しは懲りるだろうと思っていたのに全然堪える様子がない彼女に対し、三人は不気味さを抱いていく。

「あの子、嫌がらせされても怒らないんだけど」

「天愛って天使って読めるよね」八歳の認識であり、曖昧に覚えていただけに過ぎない。

「そうなんだ。じゃあ天使ちゃんって呼ぼう」

 すると天愛もその呼び名を気に入った。

 そうして何度かおまじないごっこ『天使ちゃん』は秘密の遊びとして放課後の教室で行われた。


 ***


 二〇〇一年五月十四日。大型連休もとうに過ぎ、週明けの月曜日。その日の放課後も教室で『天使ちゃん』は行われたが何故かその日は天愛の様子がいつもと少し違った。おそらく先生に怒られたかなにかでずっとメソメソしており、放課後に三人で天愛を捕まえても嫌だ嫌だと泣くばかりだった。それでも無理やり彼女を紙の上に座らせておまじないをかける。この頃にはすでに『天使ちゃん』のルールがしっかり出来上がっていた。

「天使ちゃん、おいでください」

 そう唱えると真ん中に座る天愛がグスグスと鼻水をすすって泣いた。泣くと声が響くので足で蹴った。すると天愛は大人しくなるがすすり泣きは止まない。

 いつものようにいろいろな命令をした。とにかく尊厳を踏みにじるような強要を繰り返し、彼女が「いいえ」と拒否すれば肌をつねった。「はい」と言うまでやめない。次第に命令のレパートリーがなくなってきたので美晴と綾奈は飽きているようだったがその日の天愛があまりにも聞き分けがなかったこともあり梨香は苛立ちを募らせた。

「あんたが消えてくれたら私は幸せになると思うの。だから消えてくれない?」と言ったら天愛は「いいえ」と呟く。頭を殴れば彼女は涙を飲んだ後「はい」と了承した。

「そしたら、私と友達になってくれる?」

 天愛はすがるように言う。梨香は笑いながら「いいよ」と返した。

 その瞬間、天愛は急に引きつけを起こし、その場で倒れた。怖くなった三人は教室を飛び出した。


 天愛は授業中に奇声を上げることが多くなり、担任から毎日叱責を受け、酷いときには廊下に机を出された。廊下で一人で座る天愛だが、それに飽きれば彼女は机の上に乗って天を仰ぐ仕草をする。何かを呼び寄せるように。天愛の異常行動をクラスメイトたちは面白おかしく感じていた。梨香もまたそのうちの一人だった。とうとう頭がおかしくなった天愛はそろそろ学校から消えてくれるに違いない。

 しかし予期しない事態が起きる。

 ある時、クラスの女子が『天使ちゃん』を真似た遊びを昼休みに行っているのに遭遇した梨香はサッと青ざめた。

「何してるの?」と聞けばあまり話したことのない彼女たちは「天使ちゃんだよ」と返す。なぜ知っているのかさらに聞けば天愛が教えてくれたと言う。なんでも天愛は梨香と約束したのだと言い、これをみんなでやれば幸せになれるのだと。この噂はクラスの垣根を超えて広まっていき、事情をよく知らない下級生たちも真似て遊ぶようになった。そんな様子を見る教師たちも「エンジェルさんか。懐かしいね」と微笑ましく眺める。

 梨香と綾奈と美春はそれ以来『天使ちゃん』を行っていない。そして天愛は中学生になっても奇行をやめることはなく、梨香だけでなく学年全体の厄介者として扱われる。

 しかしそれほど色んな人間から小突かれ続けた天愛だが、中学卒業後の彼女を知る人物は誰一人としていなかった。噂では奇行な姉を持つ弟がストレスのあまり暴行を加えて自宅に監禁させているなどと囁かれたが信憑性は薄く、現に天愛の弟である空翔つばさは不登校児だったので、単純に誰かの悪質な嘘だろう。また地元の同世代たちは結束力が固く、街角で天愛っぽい人間を見たとなればたちまち携帯メールで回覧板のごとく情報を共有していたがどれも人違いだった。

 ただ不審な女性が子供を追いかけ回すという事件が頻発しており、その犯人も高尾天愛だろうという認識があったが真偽の程は定かじゃない。

 一方、梨香は高校に進学し、綾奈と美春と離れた。天愛がいつの間にか消えていたことに関心はなく、それからの生活は彼女の人生において比較的平和で穏やかなものだった。

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