ノイズ3

 乱れた髪、ボロボロのセーターとロングスカート、裸足は紫に変色し、髪の隙間から覗く顔色も紫色で腫れぼったい。唇は割れ、ささくれだっている。手首から下がない。両方とも。腕をだらりと垂らし、疲れたように猫背だった。それはまるで何かで吊るされているような状態を思わせる。

 僕は霊を死んだ時のままの色彩と状態で視認することができる。そんな僕の視線に田澤由貴子の背後霊も気がつき、ゆっくりと真っ黒な目で見つめてきた。

「………」

「三紀人くん?」

 異変を感じた三雲の声が遠い。

 その女性の霊は僕から目を逸らすと田澤由貴子をまたじっと見つめた。僕の喉は張り付いていて声が出せない。強烈な異臭と思念を感じ取り、全身が縛り付けられるような錯覚に陥った。

 祓わなければ。脳内で声が聞こえる。祓わなければと。祓え。飲み込まれるな。

 手をわずかに動かすと霊がすぐさまこちらを見た。そのスピードにあっと驚く。いつの間にか霊はテーブルの上に立ち、僕の脳天を見つめていた。ない手を伸ばそうとしてくる。髪の毛が垂れ落ち、僕の頬に当たる。その感触が生々しく感じられ、一気に全身へ霊気が伝っていく。目をそらせない。女の口が開く──異臭──鼻をつく霊のニオイ──饐えたニオイに体が無意識に反応し胃の中がもんどり打つ。心臓を冷たい手で撫でられるようなヒヤリとしたものを感じ取る。震えが走る。胃が逆流する。生理現象には抗えない。でも目をそらせない。硬直する。息が詰まる。強烈な〝死〟に引きずり込まれる。

 あ、

 ヤバい。

 気づいたときにはバチンと音が鳴り、僕は立ち上がって空を斬っていた。目の前で田澤由貴子が驚愕に目を見開いており、横では三雲も固まっている。

「……失礼しました」

 荒れた息で力なく言って座り込んだ。冷や汗が噴き出していく。今、初めて呼吸をしたかのように肺が活発に動いており心臓の鼓動もはっきり分かる。胃に残る気持ち悪さを感じ、思わず俯いて咽る。そこでやっと自分が生きていることを実感した。

「あぁ……あらら、すみません。多分、なんか祓ったんですよ、彼」

 三雲が僕の背中をさすりながら田澤に話しかけるのを聞く。田澤は「はぁ」と間抜けな声を出した。

「すみません」

 僕はそれだけ言って息を整えた。その横で三雲が呆れながら言う。

「急に祓うんだもの。びっくりしちゃうでしょ。祓う時はちゃんと前もって言ってよ」

 しかしそれに答える余裕はない。いくらか気分が落ち着き、首元をわずかに緩めてもう一度田澤に謝罪する。田澤は「いえ」と困惑気味に返すだけでもう関心がなさそうだった。

「……えぇっと、お嬢さんの霊は、まだ成仏していないようです」

 やっとの思いで伝えるも田澤は「そうですか」と何やらガッカリしたように呟く。

「まぁ、そんな気はしました。だってまだ聴こえますから、娘の声が」

 僕はもう一度まばたきをしようとしたが頭を振ってやめた。時間を置こう。祓えの力なんてその場しのぎのものでしかなく、除霊となればまた勝手が違ってくる。それにまだ除霊するわけにいかない。

 あの霊──田澤梨香は何を訴えているのだろう。


 ***


 この件について田澤由貴子本人はあまり困ってはいないようだった。しかし僕に依頼を寄越してきたということは娘の成仏を願っていると思う。具体的な解決などを要求されなかったが──僕が体調不良になったことも原因だが──ひとまず今日は引き上げることにし、後日様子を見に来ます、話をしましょうと告げて足早に家を出た。年季の入ったアパートの二階。角部屋。錆が浮いた鉄板の階段を降りる際、手すりを握っていると三雲が背後で、三紀人くんと遠慮がちに声をかけてきた。

 夏の熱気を体内に取り込もうとするも、僕の体はまだ震えが止まらない。いきなり流氷に放り込まれたかのような寒気を感じ、あまり口をききたくない。

「……三紀人くん、田澤梨香ってそんなにヤバいの?」

 まるで心配しようと迷った結果、いつもどおりのふてぶてしさを選んだような言い方だった。そんな三雲に僕は強がる。

「酷い死に方をしたようだよ。手首がなかった。多分、どこかに監禁されていたんだろう。パッと見た感じでは酷い暴行の跡があったし、死後数週間といったような」

 そこまで言って口をつぐむ。気分の悪さからくる苛立ち、不安、恐怖を一度に呼び起こしていくような精神の不安定さを実感し立ち止まる。息を吸って気を落ち着かせた。

「……ヤバいのね」

 三雲はそれだけ言うと僕の手を握った。体温が指の芯に触れていく。

「怖かった?」

「……怖いとか、そういうのは」

「怖かったくせに。だからあなたはすぐに祓っちゃうんでしょ」

 そう言う彼女の顔は呆れたような、それでいて愛しそうに笑うので直視できない。目を逸らした。でも手を引っ込めることはできなかった。柔らかく細い指を握り返す。

 しばらくはそのままでいて、互いに無言のまま歩く。その間、僕は田澤梨香の霊を改めて思い返した。先ほど口でも言ったように田澤梨香の霊は死後のままであり、酷い有様だった。同級生を傷害事件の犯人にさせるまで追い詰めた彼女にふさわしい末路なのかは判断しかねるが、当事者にとっては願ったりかなったりなのかもしれない。

 ちなみに田澤梨香からイジメを受けた人物は傷害事件のあと精神鑑定が行われている。その後、しばらくして死んだらしいが詳細は不明。名前は──高尾たかお天愛そら。その字面から容易に連想できてしまう。もうここまでたどり着いてしまった以上、僕も三雲もいよいよ『天使ちゃん』というのがなんなのか薄っすらと予測が立っていた。ただお互いにそれを断言できる材料がまだなく口が重たい。それに肝心の解呪の見通しがまったく立たない。

 いつの間にか僕らは繋いでいた手をほどいていた。それに気づいたのは人通りの少ない駅前についてからだった。

「三紀人くん」

「ん?」

 三雲がおもむろに口を開いたが、ホームから流れてくる電車の音にかき消されてうまく聞き取れなかった。それを三雲も気づいたのか、改めて僕を見上げて言う。

「田澤梨香の霊を降ろして話を聞くっていうのはできる?」

「……それも手ではある、けど」

「何よ、消極的ね。やっぱり怖いから嫌? まぁ無理にとは言わないわ。あなた、そういうのはやりたくないって前から言ってたし、降霊は専門家にやってもらうほうが安全だろうし」

 謎の配慮をしてくれるが、その裏にはあまりお金を使わずに手っ取り早く田澤梨香とコンタクトを取りたいのだということが、彼女の苦笑から窺えた。それをしっかり読み取っていながらも僕はフラットに答えを返す。

「それもそうだけどさ。そりゃ僕は修行した身じゃない、ただ祓えの力が強いだけの一般人だからね。極力危険なことはやりたくないし、やるべきじゃない」

「そうよね」

「あぁ。それに、あれをやるとしばらく腹を壊すから嫌だ」

「……体調の心配」

 三雲はやれやれと残念そうに項垂れた。僕が降霊もできないことはない、という点についてはスルーだった。もしくは相手にしていないだけだろう。僕のポテンシャルを甘く見ているに違いない。

「うーん、そういうのこそ季四ちゃんが得意なんだけどな……」

 困惑を示すように頭を掻く。

「でもまぁ田澤梨香の話を聞くまでもないだろう。彼女は呪いの発生源ではない。他の横山や城戸に呪いをかけたとは思えないし動機もないからね。逆も然り。その三人に強い恨みを持って呪い殺そうと考えるのは一人だけだ」

「『天使ちゃん』ね。高尾天愛が『天使ちゃん』なわけだ」

 三雲が固い口調で僕の言葉を引き継ぐ。頷くと彼女はため息をつきながら髪をかきあげた。

「……なんともまぁ安直というか。私たちが難しく考えすぎていただけだったってことね」

 そう。はっきりと確定的には言えないが田澤梨香、横山美春、城戸綾奈はに『天使ちゃん』を生み出したのだろう。単なる憶測でしかないが情報を繋げていくとその解釈がしっくりきてしまう。

 ホームに入り、二人で一緒に電車へ乗る。がら空きだったので隣に座ってただただ黙りこくってぼんやりと物思いに耽る。差し込む夕焼けの筋に目を細めていると、ふいに義姉が言っていたことを思い出した。

 だってほら『こっくりさん』はともかく『エンジェルさん』も目に見えない不気味な存在でしょ。そんな気安く呼ぶような相手じゃないと思うんだよね。だってこっちは好きな人のことを知りたいんだし、もう少し敬意を払って呼び出すものよ。

 まったくその通りだ。そして一人の少女をいじめるために生まれたおまじないが、いつしか学校中に流行って今や定番のおまじないにまで昇華しているのだから恐ろしい。

 そして高尾天愛はいじめられているにも関わらず、田澤や横山、城戸たちに友達になってほしいと願っていた。それを承諾した彼女たちは幸せになった時に迎えに──

「……高尾天愛は、」

 僕はつい呟いた。

「彼女たちと同い年のはずだ。どうしてあの動画では子供の声がしたんだ?」

「え、え? 何? 私に言ってる?」

 うたた寝していたのか三雲が驚いて顔を上げて訊く。気づかないうちに僕の肩へ頭を預けていたらしく気まずそうに離れた。そんな彼女に構うことなく疑問を口に出す。

「横山美春。君が作ったあの番組では子供の声が聞こえていた。そりゃ脚色だって言うんだろ。でもじゃあ、じゃあ君はなんで子供をあてがった? 横山美春は『天使ちゃん』の声を聞いたんだろ。城戸綾奈も同じく。高尾天愛は彼女たちと同じく成長したはずなのに」

「高尾天愛が幽霊になったってことは? 幽霊になって子供の姿で追いかけきた、みたいな。だって彼女、もう亡くなっているんでしょ」

 三雲が軽く言うが僕は首を振って納得しない。

「霊にそんなことができるのか?」

「知らないよ。大体、霊が呪いをかけることもできるの?」

 そう言われてしまえばなんとも返せない。

「ね、私に聞かないで。でも……うーん、確かに横山さんは子供の声が聞こえている……だからそのとおりに脚本を作ったのよ」

「それは君が調べたことなのか?」

「え? えーっと……」

 僕の立て続けの問いに彼女はやや拍子抜けしているようで目をしばたたかせながら思案する。

「うん。私もだけど、小幡くんも一緒にいたわ」

「あぁ」

 あの有能な助手か。

「でもなんだかあなたの言いたいことは分かってきたかも。ちょっと調べてみましょ。小幡くんなら高尾天愛の情報だってすぐに調べられるはず」

 容赦なく部下をこき使おうと腕を回す三雲である。とは言え僕もすぐに「頼む」と言うので、小幡に対する申し訳ない気持ちがをわずかに心の中で浮上した。

 すると、なんだかタイミングを見計らったかのようにスマートフォンが震えた。見てみると丈伍からだった。資料がいくつか添付されたメールが届いている。

「じゃあ、僕は解呪について考えてみるよ」

 駅が最寄りに着く。僕が立ち上がると三雲は手を振って見送った。

 あ、そうか。今からスタジオに行くのか。それに気づいたときにはすでに電車のドアが閉まり、ぬるい突風を巻き起こして遠い地平線へと吸い込まれていった。

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