ノイズ2
今日は早上がりにしてもらい、三雲と連絡を取って待ち合わせをした。丈伍に頼んだ解呪のことを話せばすんなりと納得してくれる。
「そうだわ、私たちもいい加減に呪いを解かなきゃねー」なんて呑気なことを言う始末だ。
「三雲、単刀直入に訊く」
脇を自転車が通り過ぎていく曇り空の路地裏。依頼者の自宅へ向かう道中、二人で横並びになって歩きながら僕は真剣に言った。つばを飲んで後を続ける。
「君は今どういう現象に悩んでる?」
この問いに彼女は肩をわずかに上げた。まるでいたずらがバレた子供のような仕草である。
「え……あぁ、そうね。そういう話、しなきゃいけないんだったんだわ」
鬱陶しそうに髪の毛を耳にかけながら三雲はポツリと言った。しかし後に続かない。いつもそうだ。彼女はこういう時、僕を頼ろうとはしない。いつもは鬱陶しいくらいつきまとってくるのに。
「悩みとか弱みとか絶対に見せたくないのは分かってるよ。君のそういうところが……僕は、その……ん、なんでもない」
わざとらしく咳払いすると三雲はクスリと笑った。
「そういうところが嫌いなんだよね。はいはい、分かってる分かってる」
三雲はさっさと足を早めて振り返る。夏の日差しをバックに髪の毛を流す彼女の姿は色褪せることがないので僕はすぐに目をそらした。
「……そうね。私は今、忘れっぽくなってるかも」
「え?」
急な告白に上ずった声が飛び出す。
「忘れっぽいのよ。あなた、私に電話かけてきたじゃない。あの時ね、ちょっと覚えがなかったの。井原とか言ってたけど誰それって思った。一瞬よ、一瞬」
「それって……」
「あとはまぁ色々とねー……視線を感じることがあるかも。そろそろお迎えが近いのかもねぇ。ふふっ。その時はバッチリ怪異をカメラに収めなくちゃだけど」
そんなことを笑いながら言うな。そう言いたいのに言えなかった。
黙り込んでしまうと三雲はおどけたように笑って近づき、僕の胸をドンと拳で押す。
「何怖い顔してるの。冗談に決まってるでしょ! 三紀人くんだってMさんが視えて困ってるんじゃない。だったらさっさと解決しましょうよ。解呪よ解呪。私たちはまだまだ死ねないんだから」
「あぁ……うん」
「それともいっそ一緒に死ぬ? それでも別に私は構わないけど」
ニッといたずらっぽく歯を見せて笑う三雲。そのあざとくも憎めない笑顔に向かって僕はぶっきらぼうに言い放った。
「死んでも嫌だ」
「あははは! そう言うと思った!」
三雲は無邪気に笑うと、また僕の横に並んで歩く。本当にいつぶりだろう。彼女といて居心地が悪くならず、むしろ自然体でいられるのは。去年のうちにそういう機会があれば僕らはまだ一緒に過ごしていたのかもしれないのに……そんな感傷に浸っている場合ではないな。
この呪いを解いたらもう彼女には会わない。そう心に決めた。
***
亡き娘の声が聞こえる現象に悩まされていた。それはふとした時に起こる。休憩をしている時、風呂に入っている時、朝起きる時、調理中、掃除中、イヤホンやヘッドホンで音楽を聴いているはずなのに娘の声が割り込む。『お母さん』と呼びかける声だけであり他に何かを訴える様子はない。声音からしてただ母を呼ぶだけのものなので、苦しそうだったり怯えているようだったりといった様子はない。
初めて娘の声が聞こえるようになったのは、娘が行方不明になって三ヶ月が過ぎた頃だった。その際、田澤は憔悴していた。娘の事件が公になり、さらに娘の過去がネットにさらされ、メディアで取り上げられ、頻繁に誰かから誹謗中傷を受けるようになり、中古の家を手放し、夫と別居し、ひっそりとアパート住まいになった頃である。田澤は酷い睡眠障害に悩まされており精神科にかかっていた。処方された睡眠薬のせいで娘の霊の声が聞こえるようになったと医者に訴えたが、そのような症状は出るはずがないといったようなことをやんわり言われてしまう。別居中の夫に迷惑をかけるわけにいかずそれ以降誰にも相談せず、またその病院も行かなくなったそうだ。
仕事を始め、忙しくなってからは娘の呼び声も聞こえなくなった。また寝付きもよくなり精神も安定してきたが、一人暮らしの生活に慣れた頃になってまた娘の呼び声が聞こえるようになる。
「それがこの二ヶ月くらいのことです……」
田澤由貴子はくすんだ顔でうつむき加減に言った。よく眠れていないらしい腫れぼったい目に、たるんだ頬と顎が彼女を実年齢よりも老けさせているように思える。全体的に角のない小柄な彼女は自宅に僕たちを招きいれ、狭い居間のテーブルに不揃いのマグカップとグラスをそれぞれ用意してくれた。コンビニかスーパーで購入したと思しき麦茶がマグカップの中に注がれている。三雲はグラスの方を受け取って遠慮なくゴクゴク飲んでいた。
「梨香は……私の前ではいい子でしたよ」
田澤は虚ろな目をテーブルに落としたまま静かに言う。僕は彼女が話したいことをまず全部話させることにし、黙っておいた。三雲にもきつく言ってはいる。
「いい子だったんです。初めての子供でしたし、もともと娘が欲しかったこともあって随分と可愛がりましたよ。活発で明るくて、クラスでも仲がいい子がいっぱいで毎日が楽しそうでした。でも段々……そうですねぇ、小学校に上がってからは限定的な友達と遊ぶことが多かったようで。なぜでしょう、六歳までは活発だったのに小学校に上がってからは少し人見知りが始まったんですよね。何があったのかは分かりませんが。でも学校生活で問題は起きてなさそうでしたし、友達もいたし、梨香は学校から帰ったら私に今日の出来事を報告して、やっぱり毎日楽しそうでした。なかでも綾奈ちゃんと美春ちゃんの話はとくによく出ました」
綾奈と美春という名前に僕と三雲はわずかに反応した。しかしここはグッと堪える。
「三人でいることが多かったみたいです。娘の話では、ですが。だからまさか梨香が……その頃からイジメをしているなんて知らなかったんです。授業参観でもクラスの中で和気あいあいとしてましたし、保護者の間でもそういった話は出ませんし、家庭訪問でも先生はそんなこと一言も言いませんでした。だから知るよしもないんですよ。私は悪くないと思います。だって、そしたらどうしてその当時から誰も何も言ってくれないんでしょうか。娘がイジメをしていると、その、いじめられていたという子の保護者は? どうして教えてくれないんでしょうか。先生は何を見ていたんでしょうか。娘が卒業までその子のことをイジメていたと、どうしてそれが表面化しなかったんでしょう。誰かが見ているはずですよね? あんなに人がいっぱいいるのに、どうして……」
そこまで一息に言うと口をつぐむ。唐突に間があいた。
「田澤さん? あの、私は娘さんがやったことについてあなたを責めようとは思っていませんよ」
つい横槍を入れると、田澤はパッと顔を上げて笑った。
「あ、そうですよね。すみません……つい。梨香のことを思い出すとダメなんです」
「いえ、謝らないでください。すみません。どうぞ続けてください」
しんと静かな空間に扇風機のモーター音が寂しく流れている。ぬるい風が僕らと田澤の間を行ったり来たりするその空間は夏の灼熱を遮断するようだった。田澤は「えーっと」と逡巡し、取るに足らない陰鬱な贖罪や後悔や自己防衛を織り交ぜた話を再開させた。
「そうですねぇ……えー、はい。だから娘がイジメをしていると知るわけがなく。成人式の日、晴れの日に、私がいる目の前で娘が切りつけられて……怖かったですよ。今でもあの日のことを夢に見ることがあります。忘れたいのに、忘れられない。忘れさせてくれないんです。その日から始まるあらゆることはあまりにも情報が多すぎて、記憶がないですけど。でも、あの日、梨香を切りつけた相手は女の子でしたけど、あの場に似つかわしくないちゃんちゃんこを着てました。えぇ、そうです。赤い半纏みたいな。真っ直ぐに梨香を狙って切りつけて笑ってました。『迎えにきたよ』って尋常じゃない様子で……」
その言葉に既視感を覚えた。三雲が質問したそうにウズウズしているが、テーブルの下で彼女の腿を叩いてたしなめる。がっくりと肩を落とす三雲。一方、田澤は洟をすすっていた。
「う……すみません。だって私たちも被害者なんです。皆さんはそうは言いませんけどね。そうです。私たちは加害者でもありますからね。親の責任だとも言われました。その通りです。はい。で、えーっと、それからですね。梨香は酷く怯えてPTSDも発症して、家から一歩も出られなくなりました。夫が、そんな梨香を責めるので……私も梨香を、責めるようなことを言ったかもしれません。覚えてません。とにかく毎日が暗くよどんでいて、家庭は崩壊しました」
それから三年後、梨香は失踪する。ここまでは新聞やテレビニュース、ネット記事、週刊誌などとほぼ同じ情報である。しかし梨香の失踪についての報道は小さなネット記事だけであまり表面化しなかった。すでに成人式傷害事件は風化されており、その後すぐにパンデミックが起きたわけだから表面化しなかったのは必然と思えた。
「梨香がいなくなって、夫は私を責めました。別居して今はもう連絡も取っていません。そんな頃ですかね……急に梨香の声が聞こえたので、帰ってきたのかもと思って玄関を見たんです。でも娘はいませんでした。外にも出て確かめましたがいなくて……でも『お母さん』と呼ぶ声が止まなくなって、それできっと娘はその日に死んだんだと思いました」
なんだかそう思ったんです、と彼女は静かに息を吐くように言った。そして麦茶を飲み、自嘲気味に笑う。
「なんでしょうねぇ……なんだかその時、私は少しホッとしちゃったんです。娘のことで悩んだり辛くなったりしなくていいんだとか、そんな風に思ったんですねぇ……まったく、私は母親失格ですよね。でも堪えられなくて。私が死ねばいいんでしょうかね。そうしたら世間は許してくれるんでしょうか。風化したとは言え、あの事件を知ってる人はいるでしょう。アサ先生も思い出しますよね。被害者ヅラした酷い親だと。被害妄想だって分かってるんですけど、今でも時々思いますよ。気分が優れない日なんかはとくに、そこでヒソヒソ話している人の内容を妄想するんです。あ、あそこの人ってあの事件のクズ親だって」
そして締めくくるように彼女は渇いた笑いをこぼした。
「それでは……えーっと、霊の声のことですが」
気まずい空間で本題に入るのはいささか勇気がいることだった。田澤は切り替えるように表情を無に戻して顔を上げる。
「梨香さんのご遺体が見つかったのは、その声が聞こえてから翌年でしたよね」
「はい」
「場所は廃校の小学校。間違いないですか」
「そうです。小学校の中庭に埋められていました」
淡々と答える田澤の目は真っ黒で、今度は僕の方がうつむく。タブレットに詰め込んだ資料を読むふりをしてごまかした。
「それで、あの声はやっぱり梨香が死んだことを知らせるものだったんだと確信しました」
「本当に娘さんの声で間違いないですか」
「間違いありませんよ。だって私は腐っても母親です」
言動の卑屈さに僕は反応がうまくできなくなる。ここまで状態が酷い人を相手にすることがなかったので、うろたえている節はあるが……そんな焦りから僕はついまばたきをした。
しまった──そう思ったときにはすでに遅い。田澤由貴子の背後に女性の霊が立っていた。
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