夢遊病5
「うわぁああああああああああああああああああああああっ!」
スピーカーだけでなく壁を通して聞こえる鋭い悲鳴。それは恐ろしいものに直面し混乱するような咆哮だった。
「井原さん!?」
僕が動くより先に三雲がパッと駆け出して部屋を出る。隣の403号室の扉を叩いた。
「甲斐さん! 井原さん! 開けて!」
僕も遅れて到着する。季四菜が慌ててドアを開けた。さすがの彼女も困惑に満ちた表情を浮かべている。
「何があった?」
「急にじゃよ。除霊が完了した途端じゃ。なんにもおらんっちゅうに、急にヤツが取り乱したんじゃ」
季四菜は「我のせいじゃない」とでも言わんばかりにそう訴えてきた。僕は三雲と季四菜を後ろに下がらせ、部屋の中へ飛び込む。
「井原さん!」
声をかけると彼は姿見の前で顔を覆ってうずくまっていた。それはまるで自分の顔を確かめるようであり、その顔は恐怖と驚きに満ちている。
「違う、違う違うちがうちがうちがう……! 違う! これは誰だ! 誰だぁぁぁっ!」
「井原さん、しっかりしてください」
「井原……そう、俺は井原柊士だよな? そうだよな? なのに、どうし、どうして、顔がっ……これは、俺じゃない! 俺の顔じゃない!」
井原はしきりに、違うと連呼した。そしてジタバタ暴れ、僕の体を思い切り突き飛ばした。これに三雲が近づこうとする。
「眞純、来るな!」
僕は咄嗟にそう叫んだ。尋常じゃない様子の男に近づけさせるわけにいかない。それでも三雲は状態をよく見ようとこわごわ近づいてくる。急いで起き上がって三雲の肩を掴んでドアまで押しやる。
「来るなって言ってるだろ!」
「でも、彼は顔が違うって」
「分かったから! 落ち着くまで外に出てろ!」
三雲と、ついでに季四菜を部屋から締め出す。その直後、凄まじい破壊音が部屋に響き渡った。井原が鏡を割ったのだ。鏡の破片を自分の顔に思い切り突き刺した。
「ああああぁぁあああああああああぁぁっ!」
痛みか混乱か、判然としない悲鳴が上がる。悪霊のほうがまだマシだと思うほど目の前にいる人間は半狂乱であり、近づくことすらできない。そんな地獄絵図の中、僕は彼を落ちかせることではなく、別のことを考えていた。
さっきの僕と同じだ。僕と同じ呪いを受けている。これがきっとなれの果てなのだ。彼は呪いのせいで自分が何をしていたのか覚えていない。無意識で遊んでいた。いうなれば夢遊病。それは確か城戸綾奈もそうではなかったか。Aさんもそうだった。呪いを受けたものは徐々に精神を崩壊させられる。井原の場合はその自分の行動が分かっていなかった。
三雲が言っていた。彼は以前と顔が違うと。「それは片付きそう」と井原は言っていた。それというのは女性間のトラブルであり、彼は顔を整形することで回避しようとしていた。井原柊士ではない別人として外見を変えた。しかし、それを元の井原は知らない。
つまり井原柊士は無意識状態で整形した。正気に戻った彼が半狂乱になるのは言うまでもない。それも何かのきっかけで戻ってしまったのが今の状態だ。
「誰だ、誰なんだよ……お前は誰だよ……!」
思考の海から顔を這い出せば、彼は顔を血まみれにしてすすり泣いていた。いや、笑っていたかも知れない。
***
ホテルのスタッフが警察と救急車を呼んだので、井原は警察官と救急隊員に取り押さえられるようにして搬送された。僕らは警察からの聴取を受け、数時間程度で現場から解放された。まったくとんでもない休日だったなと不謹慎にもそう思う。
「……季四ちゃんは?」
いつの間にか消えた季四菜を探すも周囲から忽然と姿を消している。三雲だけが僕の横で疲れた顔をしており、肩をすくめるだけ。
「眞純って、久しぶりに聞いた」
茶化すように言う彼女に対し、僕は眉根を寄せた。彼女が何を言っているのか瞬時に判断ができなかったが鈍い思考を回してようやく合点した。
「咄嗟に出た。ごめん」
「ううん。別にいいの。えっと、一応、甲斐さんからは状況を聞いたわ」
曰く、除霊が完了した後に井原を見れば、彼は姿見をしばらく呆然と見ていたという。それまでは落ち着きなく部屋の中を歩いていたらしいが、祝詞が終わったと同時に隣の部屋から物音がしたので井原は物音のする方の壁を見た。そこに鏡があった。それをしばらく見つめていた。季四菜が声をかけると井原は彼女に訊いたらしい。
『誰だ?』と。
それはさながら城戸綾奈の状況と同じだったらしい。ただ城戸綾奈と違うのは取り乱し具合だった。城戸綾奈はとくに驚きはしなかったが、何かに操られるように夢見心地な顔をしていた。井原はその反対だった。彼は季四菜のことも覚えていなかったが、自分が顔の整形をしたことも覚えていなかった。自分の顔を見て混乱に至ったというのは僕の推測と合致していた。
「えーっと、つまり井原さんは多重人格ってこと?」
三雲が困惑気味に問う。その答えについては僕も断言できるほど理解はしていないが、つまり彼は二重人格ではなく三重人格と言ったほうがシンプルで分かりやすいかもしれない。それぞれA=オリジナル人格、B=今日のメイン人格、C=トラブル・整形した人格とすれば辻褄は合うのではないだろうか。もしかすると女性と関係を結ぶごとに人格が増えている可能性もある。
もしくは何かに操られているのか。それらを無意識に行った、なんてとても考えられないが。季四菜が言った〝夢遊病〟が今になってしっくりきてしまう。
「井原さんのことをもっと詳しく調べた方がいいわね」
三雲は考えることを放棄するように投げやりな口調で言った。
「ともかく、彼が結婚詐欺師というのは変わりないのだし。あの女子高生にインタビューした内容はね、それがメインなのよ。城戸綾奈と井原柊士はAさんに対して結婚詐欺を働いた」
そうなのだろう。彼が別人格が行ったこととはいえ結婚詐欺師だと判明した時点で僕もその予想はついていた。ただ、この場合悪意があるのは城戸綾奈が強いと言える。井原のインタビュー音源を思い出す。彼がAさんのことをあまり知らなそうだったのは結婚する気がなかったからだ。
僕と三雲は繁華街を抜け、人も車通りもない道路をトボトボ歩いた。現状の異常が複雑に絡み合っていてお互いに無言が続く。うまく処理ができない。井原を調べたところで城戸綾奈とAさんの失踪が分かるのか。そもそも『天使ちゃんの呪い』とはなんなのか。雲をつかむような話に思えてしまい、僕は思考を手放した。
今日の夕飯のことについて頭を切り替える。実家からそうめんが届いたからそれを湯がいて食べよう。それでいい。
「でもまぁ、城戸綾奈を中心に考えたらやっぱり彼女たちが発端なのだと思うわ」
三雲はまだ考えていたらしい。僕は一歩遅れて反応した。
「ん、うん……そうだろうね」
「井原さんはきっと城戸さんから呪いを伝染されたのかもね……ただ五年前からだから、それ以前の話になってくるのよ。『天使ちゃん』の呪いは五年前からじわじわゆっくりと時間をかけて精神を蝕むものなんだわ」
そうなんだろうな。そう相槌を打つと三雲も静かに「うん」とか「よし」とか無意味な鼓舞をする。前方の信号が青だったので早歩きで行こうとすれば、不意に三雲が止まった。
「あ、ちょうどいいとこに小幡くんだわ……もしもし?」
電話に出てしまったので僕も立ち止まらざるを得ない。僕と三雲は赤に変わる信号を見つめながら小幡からの調査報告を受けた。
『あ、三雲さん。おつかれっす。なんかトラブったっぽいですけど、大丈夫です?』
こちらの沈鬱な状況とは打って変わって安穏としたのんびり声で問われると、自分の気持ちとは無関係に苦笑が生まれる。三雲も同じなのか噴き出しながら答えた。
「大丈夫よ、私はね。それで何か分かったの?」
『そうそう、〝天使ちゃん〟のことですけどー。城戸、
「横山?」
僕が口を挟む。三雲は素早く「Aさんよ」と言った。納得する。
『で、その人物はタザワリカっていうんすけどー、その人、五年前に亡くなってるんすよね。まぁ、亡くなったっていうか失踪というか、ともかく死体が見つかってるんで』
五年前──奇しくも井原の件と繋がってしまった。
***
それから三雲は
ただ、僕はそろそろこの呪いについて本格的にどうしたらいいか悩んでおり、仕事にも身が入らない。Mさんはいつでもどこでも現れる。いい加減ウンザリしてくるのだが、この呪いを解く方法が本当に見つかるのか不安になっている。
田澤梨香や城戸綾奈、横山美春、井原柊士を追いかけたところで『天使ちゃん』に繋がるのか謎である。井原に関しては『天使ちゃん』をやったわけではないし。ともかく『天使ちゃん』を行って失踪したとされる三人の女性はすでに消息を絶っているので解呪の手がかりなど見つかるはずもない。これで終わればいいのに、呪いは蔓延していく一方だ。
僕は昔の大ヒットホラー映画のようにこの事件がうまく解決する兆しを予感できずにいる。ホラー映画なら全員死ぬわけだろうし、僕もいずれこの呪いのせいで気が狂って死ぬのかもしれない。それこそが呪いなのかもしれない。
ここ数日はネットで『天使ちゃんの呪い』について検索することが増えた。しかしどれもこれも有力な情報を記したものはなかった。単純に『天使ちゃん』を複数で行い、呪いたい相手を殺すよう『天使ちゃん』に命じる。すると『天使ちゃん』は数日から数ヶ月以内に対象の相手を呪い殺す準備をする。呪われた相手は金縛り、妄想、健忘、幻聴・幻覚などの症状が現れるという。僕と三雲は幻覚に当てはまるのだろう。そして北崎は金縛り、井原は健忘の症状が出ている。ここまで一致しているわけだが、肝心の『天使ちゃん』が呪い殺しにくるということについてはまだ分からない。ただ平野が行ったように『天使ちゃん』発祥の廃校に置いてある紙を使うことが条件とされており、あとはルールに従って『天使ちゃん』を行うだけ。ただし、呪われた相手が『天使ちゃん』のことを知っていて、そのことを他人に話すと呪いが伝染るという記述はなく、僕と三雲はどうにも該当しないような気がする。そうして他にも条件があるのではないかと何度もキーワードを絞って検索をかけたが、有力な情報はなかった。
やがて僕は北崎に電話をかけてみた。しかし繋がることはない。そして同様にあれ以来、井原にも繋がることはなく当然折返しの連絡がくることもなかった。
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