夢遊病4

 その後、井原から連絡を受けた僕たちはファミレスを出た。ちょうどレジまで行く道の脇にソファ席があり通りかかる。ソファ席の一つに座る大学生風の男性がパソコンで何か作業しているその横に、あの膨張した霊がいたのでこっそり祓った以外はとくに何事もなかった。

「あなた、さっき何かを祓ったね」

 店を出てすぐ三雲が目を光らせて僕を見た。多分、僕の指の動きを見ていたんだろう。面倒だったので無視して、井原たちが向かったという場所まで移動する。それは季四菜が指定した場所だった。

「嫌がらせかよ、あいつ」

 繁華街から離れた場所にある閑静な下町の一角にそびえる細長い建物。立て看板があり、そこに休憩時間の料金が書かれてある。いわずもがなラブホテルだった。しかもかなり年季が入っている。

「……そういえば三紀人くんって、一回もホテルに連れてってくれなかったよね」

 三雲が建物を見上げながら呑気に言う。

「ほら、大学の時覚えてる? 初めての時」

「……うん」

「サークルの飲みの時、私が三紀人くんを気に入って二人でこっそり抜け出したでしょ。三紀人くんだって、まんざらでもなかったし」

 僕は黙り込んだ。三雲はさらに淡々と続ける。

「てっきりホテルに連れてってくれるんだと期待したんだよね。そしたらあなた、自宅に連れ込むんだもの。失敗したかもって正直思った」

「あー……そう」

 付き合ってから結婚して離婚するまでそんな話、一度もしたことがなかったのにどうして今になってそんな話をするのか。関係が切れたからしやすいのか。とはいえ、僕も彼女の淡々とした声で当時の情景を思い出せても感情までは蘇ってこなかったので、情感も何もなく記憶を振り返った。

 大学二年の秋だった。三雲が主演した舞台が成功した打ち上げの日。偶然、三雲の近くに座ることができた。でも僕から話しかけることはできず、同じ小道具の先輩が三雲に話しかけて、僕に繋いでくれたのがきっかけだった。本当は先輩が僕をダシにして三雲を狙うつもりだったのだが、あからさまに見え透いた態度が酒の勢いと共に溢れ出し、とうとうその場で泣きながら三雲に告白していたので白けた三雲は僕にばかり話しかけるのだった。そう、それで僕が霊感を持っているという話になって三雲が──

「いや待て。あの日、僕は別に君をどうこうするつもりなかったよ。君が先に手を出してきたから。酔った勢いで」

「でもその後はあなただってその気だったじゃない」

「そりゃそうだろ。うちの看板女優だし、何より僕も君がずっと好きだったんだから」

 彼女の言葉にかぶせるように言えば三雲は腕を組む。実はこれも付き合って結婚して離婚するまで話したことがないことだった。

「……あっそ。じゃ、ホテルに連れてってくれなかったのはどうして?」

「そんなに行きたかったの? でもまぁラブホは出るからな……視える僕にとっては気になってしょうがないし、そんな気分の時にいちいち除霊しないといけなくなって雰囲気ぶち壊しだろ」

 当然のごとく言うと、三雲は「あぁ」と呆れ半分の納得を含ませて頷いた。

「別に君の前に誰かとラブホに行った経験はないよ」

 念の為に強めに言っておく。

「どうでもいいわ、そんなこと」

 ピシャリと言い放たれ、僕は黙り込んだ。これに彼女はいたずらっぽく笑う。

「よーし、じゃ、その当時の私の願いを叶えに行きますか!」

 彼女はそう呟いて店の中へ入った。


 三雲の願いは叶えない。絶対に。死んでも嫌だ。そんなことを彼女の後ろで背後霊のようにブツブツ呟くも、彼女は無視して指定された部屋へ颯爽と向かった。僕はエレベーターの隅にある盛り塩を見てため息をついた。ほら、やっぱりここも出るんだよ。こころなしか嫌なニオイもするような気がする。具体的には言えないけどカビっぽいニオイのような気がするが、雰囲気と僕の感情がそういう錯覚を起こしている可能性はある。一方、三雲はかなり平然としていた。どういう神経をしているんだこの女。

 古いエレベーターの音が不穏を醸し出し、また薄暗いので余計に寒気を感じた。四階のフロアに出て廊下に敷き詰められた赤い絨毯を歩く。ところどころ黒ずんだシミがあるが、壁やドアはアンティーク調の装飾が施されていた。404号室に入る。不吉な数字だなと思いつつ、三雲の後ろから入る。中は薄暗い照明で入るとすぐに大きな浴室がある。その奥にダブルベッドがあり、テレビが備え付けられていた。ベッドと化粧台の装飾はドアと同じようなアンティークっぽいもの。枕側の壁にかけられた謎の絵画、レースカーテンがかかった小窓、冷蔵庫、テーブルとソファ。見たところ怪しいものは何もない。ただ、ドアの隅に盛り塩があったのを見逃さなかった。

「あのね、ラブホに限らずともどこの物件でも出るものは出るのよ。いちいち気にしてたら生活できないじゃない」

 部屋に入った瞬間、三雲が怒ったように言った。

「ほんと、あなたのそういうところが嫌い。めんどくさい。本当にめんどくさい!」

「急にどうした」

 何を怒っているのかまったく分からない。三雲は大きなベッドに腰掛けてふんぞり返った。また無視か。まぁいいや。ほっとくことにしよう。僕は浴室とトイレ、テーブルやベッド下、ソファ下に目を走らせた。異常はない。ちょっと身構えすぎだったかもしれない。そう思ってベッドの方へ帰ると、三雲が壁に備え付けられたテレビの裏を見ていた。

「何かある?」

「何も」

 僕の問いに彼女はそっけなく答えた。そしてちらりと僕を見る。

「そっちは?」

「ないよ。盛り塩くらい」

「何もないのかー……何よ、ちょっと期待したのに。幽霊が出るのかと」

 最後の方は付け足すように言っていた。三雲はそれからベッドについていたライトのカバーを外し、異常がないことを確認して舌打ちした。そして、おもむろにベッドから離れて言う。

「シャワー浴びよっかなぁ。ラブホのお風呂、そこらのホテルよりアメニティが充実してるから、取材した時は絶対使うの」

 心霊番組のディレクターだし、ラブホに出る霊なんかの調査も多いのだろう。僕はソファに座って「どうぞ」と促した。すると三雲は機嫌を良くしたように笑って浴室へ向かった。その時、タイミングよく僕のスマートフォンが鳴る。

「もしもし」

『あ、浅香さん。着きました?』

 電話口にいるのは軽薄そうな笑いをにじませた井原だった。

「井原さん。あ、はい。到着しました。指定された通り隣の部屋に」

『そうですか。良かった。あ、じゃあ甲斐先生に代わりますー』

 ほどなくして井原から季四菜へ電話が代わる。

『よう、元夫婦! 久々の再会に盛り上がって仕事を疎かにするんじゃないぞー』

「バカ言うな。大体、なんでこんなところで除霊するんだよ」

『井原さんは無意識とはいえ、複数の女性から恨まれとるからな、それもこれもきっと初めて使ったホテルに関係があるんじゃと思ったのよ。このホテルを使ったのは井原さんが二十歳の時じゃそうで、人気もないし料金も安いしで、使い勝手が良かったんじゃな。でも運悪くここに足を踏み入れてこの霊に気に入られたんじゃろう。彼には女の強い怨念が染み付いとるからなぁ……うむ、やはりこの部屋に住んどった女の霊が井原さんに取り憑いたんじゃ』

 嘘八百も大概にしろ。言ってることがめちゃくちゃだ。原因が生きてる女性たちの怨念なのか、女の霊なのかどっちだよ。

 しかし、季四菜の厳かな声音の向こうで井原が『なるほど』と神妙に呟いているので気の毒に思えてきた僕は頭を抱えた。

『では、除霊する。三紀人、お前は待機じゃ。この電話は繋いどくから、何かこちらで異常があればすぐに駆けつけるように。再三言うが、くれぐれも三雲さんと変な気を起こすなよ』

「はいはい、さっさとどうぞ」

 まったく。精神年齢が小学生で止まってる従妹に辟易する。

 僕はスマートフォンのスピーカーをオンにしてテーブルに放った。いよいよ盛大な茶番劇が始まろうとする時、浴室では三雲が本当にシャワーを浴びている。彼女のシャワーと季四菜の祝詞の二重奏はあまりにも滑稽で馬鹿げていた。僕の貴重な休みを返せと言いたくなる気持ちを抑える。

 そしてとくに異常は起きない。三雲のシャワー音が止むも、なかなか上がってこない。「あわっあわ〜」と楽しげな声が聞こえてきたので機嫌は良さそうだが。それから三雲は十分に入浴を楽しんで、備え付けのタオルで体を拭いて服を着る。僕があまりにも無言なので三雲の音が耳に入って仕方ない。

「ふぅ……さっぱりしたぁ。昨日お風呂に入れなかったからちょうどよかったわぁ。あなたも入る?」

 濡れた髪をタオルで拭きながら現れる。

「夏場で風呂に入れない環境って、ちょっとまずいんじゃないか」

 つい口走ると、三雲は口をへの字にさせた。

「だってしょうがないでしょ。『天使ちゃん』のことで忙しいのよ。最近家に帰れてないからねぇ」

「仕事に熱心なのはいいけど……もう少し自分の生活を見直したほうがいい」

 三雲の楽観的な声に対し、僕は静かに言った。三雲は肩をすくめて向かい側のソファに座る。

「それで? 首尾よく進んでるの?」

「絶好調だよ」

 鼻で笑いながら状況の説明をすれば三雲はしばらくスマートフォンを眺めていた。流れてくる音声は季四菜の祝詞のみ。向こうはきっと外部の音を遮断するため、こちらの会話を聞こえないようにしているだろう。そう思ったらしい三雲はスマートフォンから目を離さずに言った。

「井原さんの、本当に除霊できるのかなぁ」

「ないもんはないんだから、あまり効果はないんじゃないか。まぁ厄除けとしてなら都合がいいかもしれないな。むしろ彼が『天使ちゃんの呪い』を受けてるなら、この除霊は無意味なんだけどさ」

「あなた的にはどうなの、二重人格の可能性。ほら、解離性なんとかっていうの」

 タオルで毛先をポンポン優しく叩きながら三雲が訊く。

「そうだな……これが絶対的な診断はできないけど」

「前置きはいい。あなたの意見をお願い」

「うん。人格が変わった瞬間を見てないからなんとも言えないけど、でも話を聞いてる限り、似ているけど少し違う気がする」

 まずそもそも、解離性同一性障害は本人にとって耐え難い強い心的ストレスを切り離そうとして引き起こすもの。井原の話ぶりからは過去のことなどは聞けてないから判断しようがないが、彼曰く複数のクリニックで診察してもその可能性は低いと見られていることから当てはまらないのだと思う。あの楽観的な性格が井原の別人格であるという可能性も考えられるが、そうだとしたらあの井原自身が女性関係のトラブルを引き起こしているのではなくオリジナル人格である井原柊士が引き起こしていることになる。仮にオリジナルをAとし、僕らが会っている方の井原をBとすれば、Bが別人格だがメインに成り代わっているためAのトラブルをBは知らない。逆も然りだろう。

「そう言えばさっきここへ来る途中にざっくり調べたんだけど、解離性同一性障害の場合、別人格が警戒して表に出てこないということもあるみたい」

 思い出して言うと三雲はタオルを首にかけて感心げに頷いた。

「じゃあやっぱり二重人格なのかなぁ。だとしたら面白いのに。うちの番組に顔出ししてくれないかなー」

「なんでもネタにするなよ……本人にとっては深刻な悩みなんだろうし」

 三雲の言葉に呆れてたしなめると、彼女はいたずらっぽく笑った。その笑顔が不意に固定される。

「三雲?」

「何?」

 訊くと彼女は平然と返した。しかし、僕の前にいる彼女は動きを止めていた。まるでオンライン通話中にフリーズしたように。

「どうしたの、三紀人くん。大丈夫?」

 僕はつい立ち上がってソファの脚にかかとをぶつけた。バランスを崩してソファの後ろに投げ出されるようにして転がった。

「三紀人くん!?」

 三雲が慌てて立ち上がり、駆け寄ってくる。背中と腰を思い切りぶつけた僕はしばらく声が出せずに呻いた。三雲を見る。正常に戻った。

「……ごめん」

 左足がソファの背に引っかかったままなので自力で起き上がれない。立ち上がろうともがくと三雲が左足を床に下ろしてくれる。ようやく身を起こし、目をこすって三雲を見つめる。困惑気味の彼女の顔が近い。

「……大丈夫。もう大丈夫」つい押しのけるように彼女の顔を遠くに追いやる。

「何か視えたの?」

「呪いだ……君がフリーズしたように見えて、それで、」

 今しがた起きた現象がうまく処理できない。そんな僕に対し、三雲は気の毒そうな顔をする。

 その時、枕元の壁にかけられた絵画がカタカタと音を立てた。震えはすぐに止まる。急いでまばたきをして見やると絵画が白いモヤに包まれていた。それがフッと消えていく。

 僕はまだ痛む体を引きずりながら絵画まで行って裏を見た。その場所が不自然に塗り直されている形跡がある。

「……霊はこっちの部屋だ。壁の中に封じ込められていたみたいだよ」

 きっとその壁の中に御札でも貼ってあったのだろう。もともと封じられていた霊が季四菜の祝詞、しかもスマホのスピーカーを介して除霊された。

「結果オーライじゃない」

 三雲がケラケラ笑う。その瞬間、スマートフォンの向こうから井原の悲鳴が聞こえた。

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