夢遊病3

 井原いはら柊士しゅうじ、三十歳。実業家。女性関係のトラブルを起こすが身に覚えがない。相手の女性曰く二年前、マッチングアプリで井原と出会い、食事をした後、人気のないラブホテルで井原と性行為に至った。これは女性本人も同意の上であり、その後も何度か食事とホテルを共にする関係になった。それから井原は彼女に結婚をほのめかしたが女性側の家族との顔合わせに現れなかった。それきり連絡がつかなくなったので女性は井原の事務所を突き止め(交際中にも関わらず職場を知らないのはどうなのか)、井原に詰め寄ったが彼はまったく覚えていなかった。女性は井原が通う複数のキャバクラのキャストも同様の被害に遭っていることを興信所を頼りに突き止め、井原を脅すがやはり彼は覚えていない。しかし井原自身はなんとなく心当たりがあった。女性との関係のことではなく、この現象についてである。「またか」と。

 彼は五年前から自身が身に覚えのない行動を取っていることを薄々感じていた。友人に金を借りた、複数の女性と関係を持ったなど。ただそれ以外ではとくに困ることはなく、また勉強はできる方だが記憶力はいまいちな面があり、そのせいだろうと楽観的に考えていた。しかし結婚詐欺を繰り返しているという状況に陥ってようやく事の重さに気がついた彼は複数の心療内科を受診するが、原因は不明だった。

「なんかそのー、悪霊みたいなのが僕の体を乗っ取ってその女性たちと関係を持ったみたいなこととかないですかねぇ。もしくは解離性同一性障害とか。まぁこれについては医者からその診断は出来かねると言われまして。あれでしょ、別人格ってやつ。僕の中にもうひとりの人格がいてそいつが僕になりすましているみたいな。ちゃんとそいつにも名前があって別人として生きているみたいな。でも、そういうわけじゃないっぽいんですよねー。医者の前では人格が変わることもないですし、その相手の女性が言うにはちゃんと〝井原柊士〟と言ってたって。どうなんですかね。僕としてはあまり考えたくないことですが、そのー、周囲にも言われたこともあって、悪霊、の可能性も考えられなくないのかなって。どうですかね? 甲斐先生はそう仰るから、そうなのかなって思うんですが自覚症状はないし。浅香さんも視える人なんですよね? 複数のにぜひ意見を聞きたいなって」

 井原はつらつらと調子よく話した。本当に悩んでいるのだろうかと疑うほどに軽快な口ぶりなので僕と三雲は曖昧に笑った。井原の横では、ファミレスの一角で浮きまくる巫女装束姿の季四菜がフリードリンクのオレンジジュースをズズズと音を立てて飲む。どうも今日は井原の奢りらしいのだが僕と三雲は遠慮してお冷だけ。井原はコーヒーにミルクと砂糖をたっぷり入れたものの手をつけずにいた。

 木曜日の午前中。僕が空いている日で日程を組まれたのでこの日となったわけだが、世間は夏休みの最中である。近くにショッピングセンターが多くあるこの地域のファミレスには当然、親子連れで賑わっていた。

 井原は説明を終えてもコーヒーに手をつけず、僕を値踏みするようにじっと見つめていた。

「甲斐先生から聞きましたよー、臨床心理士なんですってね。霊能者で人間の心理にも詳しい、これ以上ない専門家じゃないですか。で、どうです? 僕は二重人格ですか?」

 なんだろう。ちょいちょい小馬鹿にしているような節が彼の声の端々ににじみ出ている。

「あー……いや、どうですかねぇ……やっぱりそういうのは経過観察が必要で。それに、僕はちょっとその分野には詳しくなく……」

 しどろもどろに言うと彼は目元の笑みを消した。

「はぁ、そうですかぁー……じゃ、やっぱり違うのかもなぁ。悪霊のセンはどうです?」

「うーん……」

 正直困った。井原には何も異常が視えないのだ。前回の北崎のように生き霊が憑いているわけでもない。僕は何度も目をこすり、霊を視ようと目に力を込めたり息を整えたりしてみたが何も視えなかった。呪いのせいで僕の視る力がなくなったのかと少し不安を覚えたが、井原の周囲ではなくファミレスに来店した客の背後に肉がふやけて膨張したような霊が視えたので、やはり彼は何にも取り憑かれていないのだと確信した。

 いないものはいない。そう言いたいのだが、彼の症状を聞くに異常性は感じられ、彼が言う解離性同一性障害の可能性も否めないなと思う。ただもし本当にそうなら対処を間違うわけにいかないので無責任に診断したくない。

 そうやって思考がまとまらず黙っていると三雲が肘で僕をつついた。それでも僕は困惑を示した。井原の表情がだんだん失笑に変わっていく。すると見かねたらしい季四菜がジュースのグラスから口を離して言う。

「な、厄介なもんが憑いとるじゃろ」

 僕は彼女を見つめた。何もないけど、と視線だけで訴えてみるも彼女は薄っすらと笑みを浮かべた。そして厳かに咳払いして井原へ言う。

「ヤバいもんが憑いとります。残念じゃが、こりゃあ除霊が必要ですね。うんうん。というわけで依頼料の方を。うちは前払いなんで。あ、成功したら追加料金いただきますー」

「本当ですか! ありがとうございます! いやぁ、これでようやく僕の悩みが解消されます! 金ならいくらでも出すんで!」

 井原が嬉しそうに言って、季四菜の手を握った。

 あーあ、平気で嘘をつくんだな。僕は季四菜を軽蔑の目で見たが、彼女はどこ吹く風でむしろ手に入るであろう謝礼のことしか頭になさそうだった。一方の井原も騙されていることに気づきつつも金で解決しようという魂胆が見えていた。たまにいるんだ、こういう人。本当は自分が異常ではないと思いつつも心の奥底の不安が拭えないから金で解決して精神の安定を図ろうとする。僕は呆れて何も言えなかった。

「どうです? やっぱり我の方が強い霊能者ですじゃろ? こやつは我より弱い。よう視えとらんようです。まぁでも、除霊するには数揃えた方がええし、おらんよりはマシじゃ。な、そうじゃろ、

 調子づいて僕を格下扱いするが、場を荒立てたくないのでしぶしぶ頷くしかない。季四菜はふんぞり返って井原の手を握り返した。僕が黙っているから助け舟を出したつもりなのだろうが腹立たしい。

「でもその女性のことはどうするんですか? 脅されてるんでしょ?」

 盛り上がる二人の間に割って入る三雲が訝しんで言う。井原は、あっと思い出したかのように笑みを消した。

「あー、でもそっちはもうすぐ片付きそうで。とにかく僕はウンザリなんですよ。ほら、今はまだ結婚詐欺で済んでるけど、そのうち取り返しのつかないことまで起きそうじゃないですか」

「取り返しって、もうつかないのでは」

 つい僕が口を挟むと彼は一瞬表情を消したが、すぐに笑い飛ばした。

「言い方がダメでしたね。いやー、ほら僕は複数の女性と関係持ってるわけで、そのー、あるじゃないですか。今のところ子供出来たって話は聞きませんしね。ははっ」

 そこまできたら取り返しどころの騒ぎじゃないと思うが黙っておいた。

「まったく僕の中にいる悪霊、さっさとどっかに行ってくれーって、もうホント勘弁してほしいですよー。あははっ。それじゃ、みなさんお願いしますね」

 そう戯けるように言うと彼は季四菜に金を支払うべく、彼女と一緒に事務所へ向かおうと立ち上がった。

「井原さん」

 唐突に三雲が鋭く口を開く。

「え? はい」

「あなた、マッチングアプリの写真は見えますか」

 三雲の問いに井原は目をしばたたかせた。そしてスマートフォンを出して画面を操作する。

「あぁ、これか。覚えのないアプリです。開いて……あー、うん、見えますけど? っていうか見えるってなんです? 普通でしょ、そんなん」

 井原は歯をこぼし、季四菜を伴ってファミレスを出た。高身長でこの猛暑の夏でも爽やかにカジュアルスーツを着こなす白い歯の塩顔イケメンと年増な巫女というコンビがファミレスから颯爽と出ていくさまは、あの膨張した霊よりも異様だと思う。異様と言えば三雲もそうだ。

「……絶対『天使ちゃん』と関係があると思うのになぁ」

「やっぱりか」

 彼女の呟きを即座に拾う。三雲はお冷を一気に喉へ流し込んだ。

「だってありえそうじゃない。あなたが黙り込んだってことは、あの人には何も憑いてないんでしょ?」

 なんでもお見通しか。

「あ、眉間にシワが寄った。やっぱりそうなのね。うーん……ってことはさぁ、城戸さんや私、三紀人くんと同じ状態じゃない」

「じゃあ彼も呪われてるってこと? 五年も前から?」

 聞くと彼女は「あー、五年ね」と気まずげに声を上ずらせ、逡巡するように首を傾げた。

「そっか、五年か……『天使ちゃんの呪い』は残念ながら私の調べではネットに登場したのが最近。徐々に広がってるけれど爆発的な社会現象には至らない。ほら『花子さん』とか『口裂け女』みたいにね。『こっくりさん』ほどの知名度もない。知らない間に呪われているという可能性はかなり高いわけだけど、あの人はとくに色んな人から呪われてそうだなって思うわけよ。本人の本意とは関係なしに」

 それについては僕も同意する。

「お冷、お注ぎいたしましょうか」

 唐突に、ポットを持つ黒髪のうさぎ顔女性アルバイトが視界の中に割り込む。三雲はグラスをスッと差し出した。アルバイトが水と角の取れた氷をグラスの半分ほど注ぎ、三雲の前に置く。直後、三雲はお礼を言ってアルバイトの顔を覗き込んだ。

「あの、あなたどこかで会ったことあります?」

「え?」

 三雲の言葉にアルバイトが顔を強張らせる。当然だ。

「え、いや、あのー……お客様?」

「なんかあなたの声、聞いたことがあるのよねぇ……あ、あれだ。うちの小幡からインタビュー受けた子でしょ」

 三雲の明るげな声にアルバイトは強張らせた頬を動かした。まるでギギっと錆びついた音を出すような動かし方だったが「小幡さん、あぁ!」と思い出したらとびきりの笑顔を見せる。三雲はふいに井原がいた場所を指した。

「そういえばさっきもいたけど、お元気そうで何よりですよね」

 そう言うと、彼女は「はぁ」と要領を得ない返事をし、ペコリとお辞儀してその場から去った。僕は即座に三雲を見た。

「なんの話?」

「小幡くんがインタビューした女子高生。とある人物のインタビューをね」

「いやに含むなぁ。とある人物って誰さ」

 いつもならベラベラと話す三雲がどうも不調だ。彼女は頬杖をついてお冷を飲む。その口に含まれた冷たい水をこくんと喉に送った後、彼女は目の前に置かれたままになっていた井原の名刺を指で摘んだ。僕に見せながら神妙な声音で言う。

「あのね、さっきの井原さん……私、実は知ってる、はずなの」

「え?」

 つい食い気味に聞き返すと三雲は首を傾げた。

「はずなのよ。でも私が知ってる彼じゃない。なんか、顔が……顔が違う。前回会った彼はあんな顔じゃなかった。もっと目が細くて顎に大きなほくろがあった。のに、おかしいな。私の目、まだ正常だよね?」

 そう言って彼女は僕の襟首を掴んで僕の顔を強制的に傾けた。自分の顔に引き寄せてじっと見つめる。

「……正常だわ」

 やがて彼女はホッと安堵した。

「そりゃ良かった」

 僕は彼女の手を襟首から解き、離れた。なんだか彼女の安堵に触れてしまうと飲み込まれそうな気がした。具体的に何に飲み込まれそうだと思ったのかははっきりしないが。ひとまず僕は動揺を悟られないよう顔を歪めて彼女に訊いた。

「で、君は井原さんとどこで会ったの」

「あら、言ってなかったっけ? 彼、城戸さんの友人でAさんの彼氏よ」

 あっけらかんと言う彼女に対し、僕の顔が自動的に引きつった。さきほどの動揺を呼び戻し、今しがたの衝撃を上書きする。

「ま、顔が違うから確証は持てないけどね」

 彼女はニヒルに笑い、お冷を飲み干した。

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