金縛り5
狭い部屋の中、しばらく僕と三雲は平野詩織と静かに対峙する。
「詩織さん」
おずおずと話しだすのは三雲だった。
「あなた、この紙をどこで手に入れたんですか?」
僕にはさっぱり分からないが、三雲はその紙の正体に気づいているよう。ただ、その紙が今までに見た『天使ちゃん』に関連づくものだろうということは容易に想像できた。
平野詩織が身を投げるようにしてベッドに座る。
「小学校の……廃校の、なんか倉庫にあるのよ」
ゆっくりと気だるそうに彼女は返事した。三雲が一歩踏み込む。
「なるほど。あれは呪いたい相手に使う呪具……この紙を使えば『天使ちゃん』が呪いをかけてくれるってわけね」
「おい、ちょっと待て」
僕は思わず口を挟んだ。三雲が僕の方を見る。おどろおどろしい様子の平野詩織を横目に見、一拍置いて咳払いして口を開く。
「『天使ちゃん』は降霊術だろ。しかも子供がやるような。数人で行わなければいけないってルールもあるし、しかも普通の人間が悪霊を呼び寄せるのはほぼ不可能だって」
「これを見てもまだそんなこと言える? 彼女がこれを使って北崎さんを呪ったのよ。三紀人くんだってそう思ってるでしょ」
僕らはコソコソと話し合った。平野詩織はつまらなそうに自分の髪の毛をいじっており、こちらの様子には興味を示さない。
「だからって」
「ただの人間が生き霊を飛ばして、北崎さんをあんな目に遭わせることができる? 彼女ももしかしたら霊能者かもしれない」
三雲は早口にまくしたてた。ダメだ、この異常事態のせいか職業病か、今の三雲は新たな怪奇現象に喜んでいる。そう思えた僕は目を細めて三雲を見た。「なによ」と言いたげに眉毛を動かす三雲を押しのけ、平野詩織の前に立つ。彼女が霊能力を持っているかどうかはこの際どうでもいい。今からやるのは彼と彼女を救うための荒療治だ。
「平野さん。あなたの恨みは分かります。でも、そうやって北崎さんを恨んでいてもあなた自身の心の傷は治ることはないんです。人を貶めるようなことをしてはいけません」
しかし平野詩織の心には響かなかった。髪の毛先を裂くことに集中している。
すかさず三雲の呆れたため息が僕の背中にぶつかった。こんな綺麗事を並べたところで意味がないのは分かってるさ。そう目だけで合図し、淀んだ息を吸う。言葉を続けた。
「北崎さんは反省しないでしょうね。でも、あなたのことを話してくれたんですよ。悪かったと、そう伝えてくれと言われて……」
「そんな口先だけの謝罪はいらないんだよ!」
唐突に平野詩織は金切り声を上げた。家の中に響き渡るほどの大声に、僕だけでなく三雲まで怯んだように一歩下がる。ドアの向こうにある階段から母親の足音が駆け上がってきた。
「詩織!? 大丈夫!? どうしたの? 何かされたの?」
「うるさい! あっち行け!」
母親の心配を甲高い声で遮る平野詩織は頭皮をガリガリ掻きながら僕を睨んだ。
「どいつもこいつも鬱陶しい……私なんかどうなったっていいんだよ……いいからあいつさえ死んでくれればそれでいい。それでいいのに、お前らが邪魔するからぁ……っ」
「三紀人くん、こうなった人は正気に戻せないわ。無理よ」
三雲が僕の肩に手を置いて囁く。確かにその通りだ。対話は無理。その場合はもう病院に担ぎ込むしかない。でも、それはきっと彼女の本意ではない。本人が認めない限り病院も無意味だ。そして根本が解決しない以上、苦しみは一生続く。
平野詩織は錯乱し、僕らの声には気づかない。すすり泣く声が部屋の中を満たし、空気は一段と冷え切っていった。やがて落ち着きを取り戻したところで、僕は努めて平静に言った。
「……平野さん、僕たちはあなたに彼を許してあげてほしいとは思ってないんですよ。むしろ呪われて当然だと思います。ただ、やり方が良くないんです」
「え?」
平野詩織が反応を示す。涙に濡れる頬はくすんでいて生気がない。死人のような顔色の彼女が僕を見つめ、すがるように立ち上がった。
「だからあいつは死なないの?」
「え、まぁ、はい」
嘘が下手な僕はつい言いよどむ。それまで作り上げた雰囲気がぶち壊されるような気配を察知し、さらに三雲が口を挟もうとするので急いで言う。
「ほら、『天使ちゃん』のおまじないは一人でやってはいけないんです。最低でも三人は必要です。ね? だから効果がないんだと思います」
「そうなの?」
大きく見開かれた目はまばたきを一切しない。僕はゆっくり頷いた。その後ろから三雲が顔を出して言う。
「しかも『天使ちゃん』は相手が幸せな時に現れます。だからただ呪うだけでは効果がないんです。むしろ平野さんの体力だけがどんどん消耗するというか……あいつより先に死んだら意味ないでしょ? 憎たらしいあいつが死にゆく様を見て、それからでいいじゃない、死ぬのは」
言い方はなかなか酷いが、それでもこの援護射撃はかなり強く平野詩織に届いたらしい。
僕らは彼女の判断に一縷の望みを賭けるしかない。平野詩織は固まった思考をほぐすように瞳をぐるぐると動かし、やがて細い息を吐いた。
「……そうね」
彼女は再びベッドに腰を下ろした。電池切れを起こしたかのように猫背になってうずくまったまま動かない。その様子をどうすることもできず見守っていると、おもむろに平野詩織は胸の内を語り始めた。
「私をこんな風にしたあいつは許せない……許さない……毎日毎日あいつからバカにされて、悲しくても聞いてくれなくて、悪いことばかり考えてしまうのよ」
「大変つらかったかと思います」
「うん。今でも夢に見るくらい、ずっとトラウマ。もう生きてる意味ないし、だからせめてあいつを殺してから死にたくて」
僕の相槌に彼女は涙を飲みながら苦しそうに言う。
「でもあいつが幸せな瞬間に死ぬのは見ものね。その方がいい」
くぐもった声が恐ろしげなことを呟く。その間、三雲は散らばっていた紙を回収していた。
「さ、あとは私たちに任せて。ゆっくり休んでくださいね」
回収し終えたのか三雲が僕の腕を引っ張る。その様子にも平野詩織はまったく動じることなく、ただ「そうね」と同意してそのまま横たわって眠りについた。
僕らはゆっくりとその場を後にした。
「よしよし、これでまぁしばらくは大丈夫でしょ」
平野家を出て三雲は機嫌よく笑う。彼女の腕には大量の白い紙が抱えられている。
「あれで騙されてくれればいいけどな……」
「大丈夫よ! 我ながら説得力あったと思うし。三紀人くんの強情さには呆れるけど、あれで彼女も救われるはず」
鼻で笑って言う彼女をチラッと見る。強情ってなんだよ。そう思っていると彼女は僕の思考を読んだかのようにクスッと笑った。
「どうしても助けたかったんでしょ。彼女も北崎さんも。でもあの場でお決まりの綺麗事は言えないし意味がないし、むしろ逆上されちゃうからねぇ……嘘がつけないあなたにしてはよくできたんじゃない?」
「……それはどうも」
不満を込めて返す。なんでもお見通しか。ちっとも面白くないが反論できるほどの言葉は思いつかなかった。
「思わぬお宝も手に入ったことだしね……ふっふっふ」
三雲の不気味な笑いを無視し、僕は平野家から十分に離れたところで信号待ちがてらスマートフォンを出して北崎の連絡先を探った。電話をかける。
「あ、もしもし。北崎さん、先ほど平野さんに会ってきました。えぇ、はい。なんとか……まだ様子を見る必要はありますが。はい。また何かありましたらすぐに連絡してください」
すでに北崎は退院しており、今は彼の友人の家に泊めてもらえるよう手配している。ともかく様子を見てみないことにはまだ判断がつかない。このまま何もなければいいが。
あとは──
***
そのままの足で三雲の職場、トレジャーメディアへ戻る。今日は幾人かの編集スタッフとすれ違い、みんな慌ただしく廊下や階段を行き来していた。今日はまっすぐ編集室に連れて行かれ、三雲がドアを開けると一人、細身の男性スタッフがいる。
「あぁ、
室内でも黒いキャップを深くかぶり、ラフな白Tシャツとジーンズという出で立ちの小幡は、僕らから背を向ける形で画面に向かい合っていた。三雲の登場で作業を一旦中断させてこちらに振り返る。
「三雲さん、おつかれっす」
まだ二十代前半くらいの若い男で、声音や言葉遣いが社会慣れしていないが、僕の顔を見てわずかに姿勢を正した。目をしばたたかせているので三雲が素早く紹介する。
「私の元旦那」
「あぁ……どもっす」
小幡は愛想よく笑う努力をした。しかし三雲の適当な紹介のせいで気まずい空気になっていく。小幡はあまり見えていなかった目元をさらに隠すようにしてキャップのつばを傾けた。僕は咳払いして三雲の脇に出て、比較的快活に名乗る。
「はじめまして、浅香です。確かにこの三雲の元夫ですが、今日はちょっと用事があって伺いました」
「はぁ」
小幡は気のない返事をして居心地悪そうに爪をいじった。
「……で、元夫婦が揃ってなんすか」
「ちょっとあなたにお願いがあるのよ」
三雲が場違いなほど明るい声で言う。この気まずさに気づいていない。小幡はため息みたいな相槌を打ち、わずかに顔を上げる。三雲と僕は彼の横にある椅子に座って、ここまでのことをかいつまんで話した。小幡は終始、面倒そうな様子で首を傾けたり爪をいじったりしながら相槌を打ったが、僕が霊能者であることを話せば、前のめりになって食いついた。
「え、マジっすか。へぇぇ。三雲さんの元旦那は霊能者……すげぇ、なんで離婚したんだよ」
そんなことを笑いながら呟いていたが、三雲の顔色を見てすぐに口をつぐんでいた。一方の僕は無意識に口角を上げて恥ずかしさに耐えていた。よく知りもしない相手に自分のことを明かすのは気が引ける。
それから僕が受けた依頼、北崎の件までを話せば、すでに小幡はこの空間に慣れたかのように腕を組んで頷いていた。
「なるほど……で、俺は何をすれば?」
「話が早くて助かる。あなたには平野さんのことを調べてほしい。彼女が生き霊を飛ばすほどの霊感の持ち主なのかどうか」
「了解っす」
話がトントンと手早く片付いていく。そのスピード感に僕だけがついていけてない。
「本当にいいんですか? ていうか君、今の説明でよく分かりましたね」
「まぁ、調べ物とか割と得意なんで。そういう役割的な」
僕の驚きにも動じない小幡は平然と言うと、スマートフォンを取り出した。
「で、その平野さんの家は?」
「あら、もうやってくれるの? 作業中じゃなかったの?」
三雲が怪しむように言うと小幡はスマートフォンの画面を操作しながら肩をすくめた。
「別に大したことしてなかったんで。三雲さんいなくて暇だったし。だからほら」
彼はニヤリと笑って言葉を濁した。合点したのか三雲は「あぁ」と低い声で呆れた。
「この子、過去に取材したものとか編集したものを合成して、なんでも心霊現象っぽく映像を作り直しちゃうの。で、毎回バッドエンドにするのが好きみたい」
それを聞いて僕も「あぁ」となんとも言えない声を出して、彼の奇妙な癖を飲み込もうとした。
それから小幡は平野詩織の自宅を把握したのかそのまますぐに編集室を出ていった。
「早ければ今日の夜には連絡くるかも」
三雲はどうやら彼のことをかなり信頼しているようだ。
「そういえば、小幡って名前……どこかで見たと思ったらあれか。君が見せてきたあの動画の編集者」
思い出しながら言うと三雲が両目をしばたたかせて驚いた。
「えっ? よく分かったね?」
「だってクレジットに名前が書いてあったから」
「そういや、スタッフロールまでちゃんと見るタイプだったわ、あなた」
三雲は懐かしそうに微笑した。そして脇に置いていた呪いの紙を取り出す。
「それじゃ、ちょっと整理してみましょうか」
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