金縛り4

「天使ぃ? 本当にそんな穏やかなものに見えたわけ? まさかお迎えが近かったとか?」

 病院の待合スペースで三雲が素っ頓狂な声を上げる。ふざけたように不謹慎な言葉だが、至って真面目な声音だったので僕はつい苦笑した。

「この場合の『天使』は『天使ちゃん』じゃないかと思うんだよ」

「あぁ……って、じゃああいつも『天使ちゃんの呪い』にかかってるってこと?」

 首肯すれば彼女はソファに身を預けるようにして仰け反った。

「あれが『天使ちゃん』なのか? まったく『天使』っぽくなかったけど」

 僕は直に視たあの女を思い出した。網膜や脳内にしつこく焼き付くように強烈な怨嗟を放つ女──何かを呟いていたが、口の動きを見るにあれは『殺す』だった。そのことを話せば三雲は腕を組んで何かを考える。

「『天使ちゃん』は呪いをかけた相手を、自分の元に引き寄せようとしているの?」

「さぁね……」

 そう言いかけて僕は前かがみになって項垂れた。ポタリと何かが床に滴る。急いで鼻に手を当てると鼻血が出ていた。

「うわ、最悪」

「え? あららら。ちょっと勘弁してよ」

 僕の声に三雲がすぐに立ち上がり、近くを通りかかる看護師を呼び止めた。僕は鼻を押さえながら看護師に処置室へ連れて行かれた。三雲もついてくる。

 簡単に処置をされ、寝台に寝かされる。そんな僕を三雲は覗き込むようにして見ていた。

「……じゃあ、かなり強い霊だったわけ?」

 察しが良すぎて何よりだよ。

「そうかも。いや、ていうかあれは……」

 医者のいない場所でコソコソと話し合う。

「あれは、多分……」

 確証はない。ただ咄嗟に祓った時に手応えを感じなかった。そのことがだんだんと僕の中で明確な輪郭を帯びて訴えてくる。怨嗟が具現化したもの──通常の霊なら祓えの力が僕に跳ね返ることはないはず。だから、あれはただの霊ではないと思う。

「あ、北崎さんの意識が戻ったみたい」

 いつの間にか処置室から出ていた三雲が戻ってきて言うので僕は即座に体を起こした。

「大丈夫なの?」

「うん。少ししたら止まるだろ。そんなことより北崎さんだよ」

 ティッシュ箱を抱えたまま、僕は不安そうな顔つきの三雲についていく。

 北崎に下された診断は不整脈からくる失神らしく命に別条はない。面会ができるほど回復したらしいので行ってみれば、彼はベッドに横たわって目をつむっていた。

「北崎さん」

 声をかけると、彼は眩しそうに目を開けた。僕の様子を見るなり目を開かせ、憔悴したかすれ声で訊く。

「え、大丈夫ですか?」

 病人に心配されるほど僕の状態はひどいのか。よく見ればシャツに血が滴っているし。まぁ寝起きで目の前に、鼻に詰め物をしたティッシュ箱を抱える人がいたら驚くか。

「あなたのせいで彼が無理をしたのよ」

 三雲が低い声音で言うと北崎は萎縮したように首をすくめた。そんな三雲を後ろに追いやり、ベッドの横にある丸椅子を引き寄せて座る。

「これはただの鼻血です。霊を祓ったら手応えがなくて。こういうことは滅多にないんですけど。まぁそれも含みつつ少しお話を」

 すると彼は怪訝そうに眉をひそめながらも、しおらしく頷いた。

「じゃあ、やっぱり霊はまだいるんですね」

「まぁ……はい。隠さずに言えば。あれはあなたに恨みを持っていました。無差別に呪っているというものじゃなく、明確にあなただけに」

 強調するように言えば彼は怯えた目を向けた。一切まばたきのないその目はあの霊と同じほど血走っている。

「何か心当たりはありませんか?」

「心当たりって、そんなの……」

「なんでもいいんです。あなたが抱えているものを教えて下さい。そして一緒に解決できるようそのお手伝いをします。それでも不安だというなら知り合いのクリニックを教えますから、そこで適切な処置をしましょう」

 口を挟む余地なく素早く告げると彼は首を傾げた。

「えーっと、精神障害みたいなものを疑ってます? 霊なんて本当はいやしないって」

「今回についてはあの霊からくる不眠症を発症してます。霊が消えてもあなたには分からないでしょうし、これから先もあれに怯えながら眠らないようにしていくわけにいかないですから。だから聞かせてください。あなたがどうしてあれに恨まれているのか。些細なことでいいので話して楽になりましょう」

 彼は僕から目をそらすと一呼吸置いて話し始めた。


 病院を出てからようやく三雲が口を開いた。正確に言えば彼女はきっと横から相槌を打っていたが会話になるほど言葉を交わしたわけではない。

「そりゃ恨まれても仕方ないわ」

 予熱のように日が暮れてもまだ残る蒸し暑さを全身で受け止めながら、暗がりを歩く僕はすでに鼻血も収まっていて解放感がある。しかし爽やかさを感じることはなくむしろ気持ちは重たい。

 北崎から聞いた話は、僕から言わせたらありがちな話ではあるが酷いものであり、ただ彼もよくぞ話をしてくれたなと思う内容ではあった。

「こういうのはやってる本人はなかなか認めないものなんだけどね。罪悪感があるだけマシなのかな……もう手遅れだろうけど」

 北崎は一ヶ月前に別れた彼女を捨てた。その彼女は料理が下手だった。掃除も洗濯もダメで、それなのにゴミ捨てだけは自分に要求してくる。料理がまずいと言えば泣き出す。出会った頃は明るく朗らかで優しい女性だったのに、いつしか彼と会う時には笑顔が消えた。笑ってないとかわいくないと思っていた。そう言ったのかもしれない。彼女は笑顔どころか泣くことが増えた。しかも彼女は泣けば過呼吸を引き起こす。これも最初のうちは心配になって救急車を呼ぼうとしたが彼女が止めるので呼ぶことはできなかった。それがなんだか演技なのではないかとだんだん疑うようになってきた。周囲に相談したら彼女は気を引きたいためにわざと泣いたり過呼吸を起こしたりしているのだと言われた。だんだん付き合っていくのが面倒になった。多分それが良くなかったのだろう、と北崎は言った。

「きっと彼の認識すること以外にもいろいろあるのよ。ああしろこうしろ、お前はバカだアホだ、俺がいなきゃ何もできないーなんて言ってるのよ」

 三雲がウンザリとした口調で言う。僕も同感だ。

「この手の話は普通、被害者から聞くんだけど……職場でもよく相談されるし、男女関係なく結構いるんだよね、そういう言葉や暴力の呪いを生み出す人たちって」

「確かに加害者側が認識していることはあまり聞かないか。でも認識してて、モラハラやっちゃうのって一番悪質じゃない?」

「だから彼も当時は無意識だったと思うよ。でも思い当たることとして考えついたんだろう。これがあの霊と無関係だったら、もっと彼の過去を探る必要があるんだけど、一〇〇パーあの霊と関係あるだろうね」

 だとしてもその呪いの根源を見つけなくてはならないのだが。途方も無い作業だな。そう考えていると三雲も同じことを考えたのか肩を落とした。

「嘘でしょ、三紀人くん。あんなやつのためにまだ働くの? もういいでしょ、因果応報よ! むしろそのまま苦しんでろって話!」

「残念ながら依頼者は加害者だからね……」

 僕は苦笑しながら先を歩いた。納得のいかない三雲が「もう!」と大声で怒鳴るとちょうどよく通りかかった軽自動車の走行音にかき消された。

「しかも肝心の『天使ちゃん』はまったく関係ないし」

 その言葉だけははっきり届き、僕は頭を掻く。

 そう。北崎は自分が口走った『天使』についてはまったく覚えていなかった。


 ***


 翌日、僕は三雲とともに住宅街を歩いていた。表札を確認してインターホンを押すと、母親らしき年配の女性が不審そうに出てきた。白髪交じりの手入れができていない髪の毛と疲れた丸い背中を見るに、この家で起きている問題の根深さを窺い知れる。

「はい」

「あ、どうもすみません。私、娘さんの元同僚の三雲という者でして……先日、娘さんの私物が見つかりお届けに参りました。娘さんはご在宅で?」

 三雲が女優さながらの名演技を披露した。三雲のなんとも言えない痛ましさと愛想を融合させた声音と姿勢のおかげで、母親は怪訝そうな目元をわずかに緩めた。家の中へ入ることが許される。「突然ごめんなさい。どうしても話したいことがあるんです」

 部屋の戸をノックしながら言うも、その部屋の主は無言だった。僕は部屋にかかったプレートを見つめながらさらに声をかけた。

平野ひらの詩織しおりさん、背中に傷がついてませんか?」

 そう聞けば、部屋の奥にいる人物──平野詩織が息を飲むような音が聞こえた。ドアの近くにいるらしいことが分かる。

 突如、ドアの向こうから大きな衝撃音がした。ドンドン叩くその音に驚いて僕と三雲は一歩退く。やがてドアは細く開けられた。

「じゃあ、あなたのせいであいつを殺せなかったのね」

 隙間から覗く目が血走っている。それは紛れもなく昨日、北崎の家で視たものと同じ。北崎の元彼女、平野詩織。彼女は死んでいない。生きている。つまり北崎に取り憑いていたものは生き霊だ。

 生き霊を祓うことはできない。その場合は生き霊を飛ばした方にもダメージがかかる。僕の祓えの力は生きた人に向けることは許されない。互いに代償を伴い、現に僕は鼻血が出たし彼女の背中にも傷があるはず。今の彼女の発言でそれが証明された。

 戸がゆっくりと開く。まず目についたのは真っ暗に締め切られたカーテン、真ん中に置かれた布団の回りにある無数の紙。机と椅子に掛けられた服は夏服で、定期的に着替えて外へ出ている形跡がある。戸を開けた先に佇む平野詩織は猫背で僕らを見つめていた。下ろした髪の毛は寝癖を直したように手ぐしで撫でつけられている。ただ落ち窪んだ目が彼女の穏やかさや活力を奪っており、あの生き霊と同じ顔色だと思った。

「待って、嘘でしょ、あなた」

 三雲が何かを見つけたのか部屋の中へズカズカと押し入る。僕の止めも気にせず彼女は部屋に散らばる紙を拾い上げた。平野詩織がニタリと笑う。

「邪魔しないでよね」

 その恨みに満ちた笑みに怖気が走った。突如、突風がドアを押して閉め、僕らは陰鬱な部屋に閉じ込められた。

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