金縛り2

 北崎きたざき恵介けいすけ、二十九歳。会社員。

 一ヶ月前から謎の金縛りに悩まされている。はじめは深夜に起こり、突然目が覚めたが全身が硬直したように動かなくなり呼吸も難しくなった。怖くなって声を出そうとしたが喉は蓋をしたように閉じられたままだった。目だけが動かせたので周囲を見回す。するとフローリングをこするような音がした。それはだんだん近づいてきたが目を向ければ何もなく、それを認識すればいつの間にか気を失ったように眠っていた。朝、目が覚めると息苦しさだけが残っていたという。

 それだけ聞けばよく聞くポピュラーな〝金縛り〟。

「一般的に言う〝金縛り〟とは睡眠障害の一つです。原因は睡眠不足、睡眠の質の低下、ストレス、あとはー……仰向けで眠るとか、環境の変化による脳の興奮などが考えられます。いつもの睡眠時間に眠れないとかそのリズムが崩れたとか、単純に体に疲労が溜まっているだけ、などです」

 ざわつくファミレスの一角で場違いな話を始める僕に対し、北崎は濃いクマを貼り付けており目玉をぎょろつかせながら頷いた。僕はタブレットの画面に広げた資料を見ながら言葉を続ける。

「その場合、先ほど仰られたような現象が起きます。要するに脳が覚醒しているのに体が動かない、声が出ない、息苦しくなる、幻聴や耳鳴りがするというものです」

「はぁ……」

 北崎は気のない返事をした。よほどの睡眠不足を感じられる。服装は水色のワイシャツに灰色のスラックス、脱いだジャケットは手に持つというスタンダードなオフィスカジュアルな風貌で誠実そうなセンター分けの黒髪と卵型の輪郭だけ見ればどこにでもいる普通の好青年だ。

「今日、会社は?」

「今日と明日は有給を使います。朝は片付けなきゃいけなかった仕事があったんで、そのまま来ましたが」

 北崎は疲れた声でそう返した。お冷を飲んでも落ち着く様子がない。視線は僕を捉えず、どこか他所を見ている。

、ところでそちらは」

 北崎がこわごわ聞く。彼が手のひらでおずおず指すのは、僕の横に座る三雲だった。

「アサ先生……」

 三雲がぼそっと呟くが気にしない。

「彼女は私の助手です」

 素早く答えると三雲は僕の足を踏んだ。悲鳴を上げずに笑顔のままでいたが、爪先の痛みまではごまかすことができずにお冷を飲む。あとで覚えてろよ。

「ま、まぁお気になさらず。続けましょう」

 ちなみに今日は僕も有給休暇を申請した。三雲に関しては金縛りに遭ってる依頼者の相談を受けると言ったら勝手についてきただけである。

 北崎は重たい口を開いては閉じる動作を繰り返した。仕方なく僕の方から話を振る。

「その金縛りは数日置きだったのが、ここ一週間ほどは毎日起きているということですが」

 あらかじめ聞いていた内容を言えば、北崎は小さな声で返事した。

 ストレスはないとは言い切れないが、会社でとびきり成績が悪いわけでもパワハラに遭っているというわけでもない。強いて言うなら後輩指導に手を焼いているほどであり、比較的プレッシャーに強いタイプだったという。一月前に季節外れの風邪を引いたが流行り病ではなくすぐに治ったのだが思い当たるストレスや睡眠リズムの乱れはそれくらいしかない。環境の変化といえば付き合っていた彼女と別れたことか。しかしそれは自分から離れると決めたことであり彼女も了承しているらしい。

 そんなことをぽつりぽつり話し、北崎はまたお冷を飲んだ。氷を口に含みガリガリと噛み砕く。

 なるほど、ここまで聞けば彼女と別れたことが本人の深層心理では重い出来事だったのではと考えられる。が、話はそう単純ではない。

「フローリングをこする音が日に日に強くなるんです。こするっていうか、ヒタヒタと歩くようなそんな音が。その時、全身が縮むような感覚がします。なんていうのか……あー……」

「プレス機でこう、がしゃんと潰されるような?」

 三雲が助け舟を出すが、北崎は首を横に振った。

「そんなことしたらもう潰れてるだろ」

 僕が呆れて言えば三雲は目の前にあったアイスコーヒーをストローですすった。北崎が枯れた笑いをこぼす。

「まぁそれに近いのかも……プレス機ほどじゃないですが、どちらかというと誰かに体をガシッと抱きしめられる、ような」

「幽霊に抱きしめられる感じ?」

 すかさず三雲が前のめりになり、北崎がソファに背中をくっつけた。僕は彼女の額を思い切り押しやり、取り繕って笑う。

「続けてください」

 北崎は不審げに三雲を睨み、そのまま僕に目を向けると俯き加減に言った。

「でもま、確かにそう感じるかもしれない、かな……見えない手で全身を固定されるような感じです。それがかなり長い時間続いて、気づけば朝だったり。もうここずっと夜が眠れないんですよ。だから日中、居眠りが多くなってしまって……」

「あら、それは大変ね」

 三雲が茶々を入れる。テーブルの下で彼女の腿を軽く叩くと大人しくなった。一方、北崎は肩を落としてため息をつく。そして意を決したように顔を上げた。

「でも、会社で居眠りしたときも同じことが起きたんです」

 それは一般的に言う金縛りとはわけが違うものだろう。

「会社で居眠りはまずいでしょ」

「問題はそこじゃないんだよ。頼むから君は黙ってくれ」

 三雲の呟きを拾うと北崎も神妙に頷いた。三雲が腕を組んで鼻息を飛ばす。

「……アサ先生に相談した前日です。まぁそういうことがあったからいろいろ調べて先生のサイトに辿り着いて……上司や同僚からもそうしろと言われたんで」

 北崎は前置きをしながらどう話そうか迷っているようだった。なくなったお冷のグラスを心許なさそうに見て一息つく。

「なんとか午前中の仕事を終わらせて、ほとんど仕事ができてた試しはなかったけど、昼休みに入ってすぐデスクで寝てたんです。でもすぐにあの金縛りが……!」

 テーブルを掴むようにして手をつく北崎に僕らは揃って息を飲んだ。

「部署はざわついていたはずでした。でもその時間だけ誰もいないようで。まったく何も聞こえないのに何かが近づく音だけはするんですよ。そして首をぐっと絞めるような、後ろから、そんな感触がして、同僚に肩を叩かれなければ死んでたかもしれない……」

 同僚曰く、その時の北崎はひどく苦しむようにうなされていたらしく、心配になって起こしたというのだ。つまり彼は眠っていた。覚醒していたわけではなく眠っている間に金縛りに遭ったという夢を見ていた、と考えられる。ダメだ、頭がこんがらがってきた。三雲も同じなのか余計なことを言わなくなっている。

「これはやっぱり霊の仕業ですか? お祓いとかしてもらえるんでしょうか? 早くどうにかしてくれないとおかしくなりそう。いやもうおかしいんですけど」

 対して北崎は前のめりになってすがるように聞いてくる。

「北崎さんはどうしてこれが霊の仕業だと考えるんです?」

 なだめるように言うも北崎は血走った目を向けるだけでなんの効果もなかった。

「だって、どう考えたっておかしいでしょう! いいから早く祓ってくださいよ! 金ですか? 金ならいくらでも出しますよ!」

「まぁまぁまぁ、ちょっと落ち着きましょう」

 周囲の客たちがこちらの騒ぎに気づき始め、レジとパントリーに溜まっていた店員が水差しを持ってやってくる。若い男性店員が全員分のグラスに水を注ぐ間、僕らは全員無言だった。去っていく店員に会釈してもこの気まずさを払拭する力はない。

「北崎さん」

 声をかけると彼は肩をビクつかせて僕を見た。目が合う瞬間、僕はまばたきをした。視える。彼の肩や腕、顔、腰にまとわりつく無数の手が視える。もう一度まばたきをすると視界は正常になった。

「……えぇっと、では、お祓いの料金につきまして説明をしますね」

 気まずいので取り繕うように言うと横で三雲が僕を睨むような気配がしたが、北崎だけを真っ直ぐに見ておく。対し北崎はようやく安心したように顔をほころばせた。


 来たときよりも明らかに気分が良さそうな北崎の背中を見送りながら、僕と三雲もファミレスを出た。

「……ねぇ、三紀人くん。あなたにフリー霊能者は向かないわ」

「僕もそれは分かってる」

 三雲の言いたいことはなんとなく分かる。彼女の痛い視線から逃げようと目をそらす。信号待ちの車に反射する僕の格好は普段の仕事着と変わらない白ワイシャツとスラックス、メガネ。

「装束でも着てきたら良かった?」

「違う。見た目の問題じゃなくって……まぁそれも必要かな。いっそ実家から袴持ってきたら良かったのに」

「神職じゃないから身分を偽ることはできないよ。あれも一応決まりがあるんだ。神主のレベルで色が決められてて」

「そうね。あなたがそんなことできるタイプじゃないことは今日の様子を見てはっきり分かりました」

 なんだかやけに棘のある言い方をする。彼女はため息をついて僕を見上げると、ビシッと人差し指を向けてきた。

「あのね、客にあんな態度取られたからって『はい、じゃあ今からお祓いします』ってホイホイ言うんじゃないよ! 安っぽいのよ! しかも何よあの金額! あの程度のお金で請け負う神経が分からない! 自分の価値をもっと高めてよ! あんなじゃ、この先やってけないよ!」

「えぇ……」

 言い返す言葉がなかなか見つからず、彼女のつり上がった目から逃げた。こうなったら落ち着くまでまともに相手にしない方がいい。だが、何も言わなかったら言わなかったでさらにヒートアップするから適度に返事するのが吉だ。あぁ面倒くさい。

「はー……三紀人くんって昔からみんなの知らないところで勝手に除霊しまくってさ、本当にもうバカすぎるほどお人好しよ。なんなの? 偽善者なの? それとも慈善家なの? 正義のヒーローにでもなったつもり? 自己犠牲精神ってやつ? バカなの?」

「逆に聞くけど、こんなことを商売にするほうがどうかしてると思うよ」

 たじろぎながら言うと信号が青に変わった。文句を言う三雲を引き連れるように道路を渡る。僕はため息混じりにボソッと言った。

「なんで霊能者って大げさに自分の能力を誇示したがるんだろう……」

「金になるからに決まってるでしょ! あとは名声! 世の中、金と権力よ!」

 すかさず三雲が大声で言う。路地裏にいるカラスが驚いて飛び立った。

 金か……それは確かに、そうなのか。というか世の中の霊能者はそんな輩ばかりか。あくまで個人の感想だが。

「僕は本業もあるし、そもそもこの副業は乗り気じゃなかったんだよ。でもさ、ほら君らがそう言うから。安請け合いするなって言うから仕方なくお金を取るようにしただけで」

「なんでそんなに欲がないのかなぁ? 私だったらあなたをもっとすごい霊能者として売るのに!」

 僕は肩をすくめて早足に三雲から距離を取った。それでも彼女は小走りになってついてくる。

「分かった。今後、あなたが活動する時は私にも相談しなさい」

「はぁ?」

 聞き捨てならない言葉に驚き、思わず振り返る。彼女は一歩下がった場所で勝ち誇ったような笑みを見せた。

「だって、そんなじゃまともな商売にならない」

「いいんだよ商売にならなくて。むしろひっそりとやっていきたいだけだし、食い扶持に困ってるわけじゃないし、みんながやれって言うからやってるだけなんだから」

 ピシャリと言い放つと三雲は頬を膨らませて僕の脛を蹴った。


 それから僕たちは三雲がほとんど寝泊まりしているというスタジオに移った。株式会社トレジャーメディアは下町の細い道や児童公園の近くにひっそりとある四階建ての建物だった。自転車やバイクが雑然と停められている駐車スペースも小さくコンパクトで、その奥にステンレス製の階段とドアがある。

「はい、どうぞ。いらっしゃいませ」

 三雲はまるで自宅に案内するような手軽さでドアを開けて中へ促した。内部も建物の外装から容易に想像できるほど小さくまとまっていて、無人の受付カウンターを抜けたらガラス製の事務所に入る。入れっぱなしの冷房が即座に僕の体を冷やす。

 中は簡易キッチンやソファ、大きなモニター、バランスボールなどが置かれていてロビーっぽくない。むしろ広めのダイニングとリビングに思える。小さなカフェテリアみたいなカウンターと椅子は柔らかくおしゃれな木製で、どうやらそこでスタッフがコーヒーを楽しみながら仕事ができるらしいコンセントプラグが至る部分に取り付けられていた。

「そこ、適当に座って待ってて」

 ステンレスのオープンキッチンに立つ三雲が手早くコーヒーの準備をする。僕は素直にソファに座って待った。やがて、冷蔵庫からパックのブラックコーヒーが注がれたグラスを二つ持ってくる三雲が僕の前に座ってコーヒーを渡す。ご丁寧にストローをつけてくれており、シュガースティックも添えてきた。目を向ければ三雲が照れくさそうに鼻息を飛ばす。僕は気まずい思いを抱きながらシュガースティックを取ってコーヒーに流し入れた。ストローでかき混ぜて飲む。

「それじゃ、城戸さんの失踪について聞こうか」

 ようやく本題に入れば三雲の眉毛が機嫌よく緩んだ。

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