第7話

 あの幸せな時間から、数週間が経った。今の私は、信じられない光景を目にしている。正確には、信じたくない光景だ。その場から動くことができず、呆然と立ち尽くす。

「……あ、三週間ぶり……くらい、かな? ……かざりも仕事帰りでしょ。私達もそうなの。こっちはただの同僚で―」

 もう、守の声は耳に届いていない。必死で笑顔を作って何気ない感じを装っているけど、表情が硬い。冬なのに、冷や汗が流れている。お互いの内側にある手にだけ、手袋がはめられていない。そもそも、手を繋いでいるところを見てしまった。幸せそうに向かい合っていた顔が、私を視界にいれたことで崩れる。一瞬のことが、とてつもなくスローモーションに感じられた。

「ただの同僚」とか、世界で一番分かりやすい嘘。何年一緒にいると思っているの? 高校から数えて八年の付き合いだよ。守のそんな幸せそうな顔を、私は見たことがない。何よりも明確な答えじゃない。

「あ、初めまして。俺は―」

「嘘なんてつかないでよ」

 知りたくもない男の言葉は、聞きたくない。私に喋りかけないで欲しい。キッと男を睨み、言葉を遮る。名前を記憶に残したくないし、今すぐこの場から消えて欲しい。私と守の空間に、入らせたくない。

 私の気迫に押されたのか、男は口を噤む。時々、守と私の顔を交互に見て、どうしようか迷っていた。どうせ、「女同士の執念深くて粘着質な喧嘩」くらいにしか考えていない。

 守の表情が、不完全な笑顔のまま動かなくなった。振られた私が、未だに守を好きなこと。だから、彼氏の存在を知らせないで、親友として一緒にいてくれようとしたこと。私、ちゃんと知っているよ。

 同性で、親友だと思っていた相手から恋愛感情を向けられても、仲良くしたいと言ってくれた。一生懸命に理由を探して、会おうとしてくれた。その優しさが大好きで、いつまでも触れていたくて……壊したいほど憎い。

「気を遣ってくれなくても大丈夫だよ。守にも『私と同じように』好きな人がいるんだよね。分かるよ。私にも、『まだ』好きな人がいるから」

「かざり……」

 言葉を失くした守から出たのは、私の名前だった。好きな人から名前を呼ばれて、これほど嬉しくないことはなかった。会えない半年間は、あれほど声が聞きたいと思っていたのに。やっぱり、我儘になったのかな。

「も~、そんな暗い顔しないでよ。その人のこと、好きなんでしょ。想いが大事だって、誰よりも分かってる。だって、『今までもこれからも変わらずに好きな人』って、私にもいるから」

 手袋をはめているから、握った拳から革同士の擦れる音が鳴る。黒板を引っ掻くような、耳障りな音。大好きな人の幸せな時間を簡単に壊せる自分が、怖くなる。自分の「好き」を無理にでも押しつけて、相手の気持ちは考えない。最低最悪で、胸糞悪い。でも、気分はスッキリしていた。自己嫌悪で押しつぶされるのではなく、爽快感で満たされる。やっと、心が満たされたのかしら? それとも、そう感じているだけ?

 言われたい放題で黙っている彼女を、助けないといけない。そんな馬鹿げた庇護欲を発揮したのか、男が守の前に出た。「守る」なんて、自分より弱いと思っている人間に対して使う言葉なのにね。

「おい。さっきから聞いてれば、その言い方は失礼なんじゃないのか。二人の間に何があったのか知らないけど、人の気持ちを考えろよっ!」

「人の気持ちを考えろ、ですって? それは、守の方だよ」

 再び男を睨む。悪魔にでもなった気分だった。守よりも前に出たはずの男は、彼女の隣まで下がる。結局はその程度なのだ。

 人の気持ちを考えていないのはどっちだ。自分に好意を寄せている人間を振ったくせに、その後も優しさを向けている。私が喜ぶ言動を取るくせに、恋人にはなれないと突き放す。この行動のどこに、人の気持ちを考えている要素があるって言うの? 会いたかったと言われれば、期待する。一度は振られたけど、会わない間に気持ちが変わって、好意が芽生えたかもしれないと錯覚する。酷いのはどっちだ。好きになれないならなれないで、一ミリの優しさも見せないで欲しい。

 強く唇を噛んでいた守は、その力を緩めた。

「かざりに、正直に言うね。親友としては大好きだけど、それが恋愛感情に変わることはない。隣の彼とは、数カ月前に付き合い始めたの。本気で想い合ってる。同棲も視野に入れてるわ。ごめんね、気持ちに応えられなくて。でも、でもね、かざりとはこれからも大親友でいたい! この気持ちに嘘はないわ!」

 守は、隣の男の手をぎゅっと握る。手袋をはめていない手からは、耳障りな音がしなかった。男は鼻を伸ばし、照れくさそうに笑う。隣で守は、幸せそうに微笑む。私は、二人の空間から疎外され、追い出される。

 守の優しさは、どうしてこんなにも残酷なんだろう。

「……ふっ、ふふ。おめでとう」

 だから、祝福の言葉を送った。「祝う」と「呪う」は紙一重だ。

 怒っていた人間に突然祝福され、二人は顔を見合わせる。戸惑いが隠せていない。しかし、男の表情はすぐに柔らかくなった。照れくささからか、頭を掻く。守は、自分の正直な発言と誠実な対応が伝わったのだと勘違いし、涙を浮かべる。

 そう。あなたとぽっと出の男との関係を私に祝われたことが、そんなにも嬉しかったのね。その私は、ずっと前から守のことが好きなのに。

「ねぇ、守。あなたに聞いて欲しいことがあるの」

 祝うために、最上級の呪いを送った。

 言葉の意味に気づいた時、誰よりも優しい守の顔は絶望に歪んだ。

 きっと、満月になったのがいけなかったのよ。修復できそうだった私達の関係を奪ってまで、欠けた部分を補ったから。月が欠けたままなら、私と守は形だけでも親友でいられた。

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