第4話

「や、やばい! 明日出かける約束してるのに、何の用意もしてない。……と言うか、どんな顔して会うのが正解なのっ!?」

 土曜の朝。せっかくの休日だと言うのに、朝から頭を抱えている。クローゼットを開き、左から順番に服を漁る。

 半年ぶりに、守と会う約束をした。もちろん、この守は毎週会っている方の守ではない。私が想いを寄せる方の守だ。自分で考えていてもややこしい。

 どうしてこうなったのか。そもそもの発端は、私が掲示板に書き込みをしたことだった。

 ずっと好きだった守が、「彼氏欲しい」などと言い出した。当然、私は焦る。なにせ守は、私にとって運命の相手だから。気が合うとか、一緒にいて楽しいとか、存在する言語をいくら使っても言い表せない。彼女以外は、考えられない。そう思えるほど好きで、毎日想っている。

 絶対に、何が何でも、他の人と付き合って欲しくない。だから、当たって砕けろの精神で告白した。正直に言うと、告白を受け入れてもらえる自信はあった。私達は何でも相談し合える仲だったし、彼女は同性愛に偏見を持っていなかった。私を振れば、今までのような楽しい時間を過ごせなくなる。一生のお別れだって予想できる。だから、「私を振って会えなくなること」と「告白を受け入れること」を天秤にかけて、付き合ってくれると思っていた。いや、思い込んでいた。しかし、そんなものは幻想に過ぎなかった。しかも、一番聞きたくなかった「ごめんね」を言わせてしまったのだ。彼女に罪悪感を与えてしまったことを、今でも後悔している。

 振られてからは、毎晩のように泣いていた。もう、守に会うことはできない。自分の知らない所で、誰かを好きになっているかもしれない。そう思うだけで辛かった。とにかく、守の存在を忘れたかった。でも、どれだけ仕事や趣味に打ち込んでも、忘れることができない。むしろ、日を追うごとに、会えない辛さが増すばかりだった。だから、決めたのだ。守の代わりに、心の隙間を埋めてくれる人を探そうと。

 レズビアン専用の掲示板に、出会いを求めて投稿した。ただし、彼女になってくれる人を募集したわけではない。必要なのは、「守の代わり」になってくれる人だ。

〈つい最近、これ以上ないと思えるほどの運命の相手に振られました。毎日が辛くて、一瞬でも良いから満たされたいと思っています。忘れたいです。

 そこで、私の想い人の代わりになってくれる方を募集します。代わりとは文字通りの意味で、行為中は私の想い人を演じてもらいます。同じような失恋経験のある方だけが、メッセージを下さい。私はお相手様の好きな人を演じます。

 恋愛に発展することは、一切ありません。想い人の代わりを務めるだけの、割り切った関係だと了承した上で、お声かけ下さい。

 よろしくお願いします〉

 この投稿から二日後、毎週会っている方の守からメッセージが届いた。もう半年前になるけど、今でもよく覚えている。簡素で、簡潔で、丁寧な文章だった。だから、会ってみようと思った。いや、違う。本当は、文章なんてあまり覚えていない。女性で常識のある人なら、誰でも良かった。失恋したことを、大好きな守を忘れられれば、どうでも良かった。早くメッセージを返して、この人に会いたい。大好きな守を記憶ごと抹消して、全く別の守で塗り替えたかった。

 それから私達は週に一度、金曜の十一時から二時間だけ会う関係になった。たった二時間という短い時間で、やることは一つ。お互いの好きな人になりきって、肉体的な行為に及ぶ。レストランでの食事や喫茶店での会話、遊園地ではしゃいだり、ショッピングセンターで買い物をしたり……なんて、そんな甘い時間は存在しない。ピロートークをするわけでもなく、時間になったら即さよなら。個人情報は知らないし、聞かない。本気で好きになることはないし、告白もお付き合いもしない。あくまでも、相手の好きな人になりきって行為をするだけ。最初に決めた契約だ。

 偽の守との関係は、気づけば半年続いていた。残業や予定がある日は会っていないけど、半年間、週一ともなれば、結構な回数になる。

 さすがに、半年も経てば恋心を忘れられると思っていた。せめて、気持ちの切り替えくらいはできるだろうと。しかし、そう簡単に「好き」は消えてくれなかった。一日、また一日と経つごとに、会えない守への想いは大きくなる。もう半年前だと言うのに、未だに毎晩泣いている。会えないことが辛い。もう喋ることも笑顔を見ることもできない。声を聞くことも、名前を呼ばれることもない。男と付き合っているかもしれないと思うと、苦しい。この痛み全てを消し去りたい。でも、もしかしたら、明日にはそんな感情全てがなくなるかもしれない。

 大きな深呼吸をして、ティーバッグの紅茶を淹れる。甘い味は、好きではない。砂糖もミルクも入れず、そのままの味と香りを楽しみたい。

「仕事はないし、ちょっとだけ凝って作ろう。『休日だ~』って思うと、ついつい変な手間をかけたくなっちゃう」

 コップの紅茶を見て、気合いを入れる。レモン一個を冷蔵庫から取り出し、薄い輪切りにする。それを紅茶に落とせばほら、喫茶店の贅沢なレモンティーになる。このひと手間とちょっとした贅沢は、日々の癒しだ。

 少しのことで喜んでいる自分が、あまりにも単純すぎる。小さな笑いをこぼし、全力で紅茶に息を吹きかけた。猫舌だから、熱いのは苦手だ。

 湯気がなくなるのを見届けて、マドラーで数回かき混ぜる。コップの三分の一ほどを流し込み、喉の渇きを潤す。アールグレイのスッキリした味とレモンの酸味が合わさって、幸せな気持ちになれる。

「うんうん。これよね、これ。コーヒーも好きで飲むけど、やっぱり紅茶なのよ」

 コップを覗き込み、誰に聞かせるでもない感想を述べる。一人暮らしをしていると、変な独り言が増えるから困る。それから、守のことを考える回数も―。

「って、やめやめっ!! 別のこと! 考えるなら別のことにしましょう」

 大きく頭を振り、無理矢理にでも思考を止める。こうやって、意図して強制的にでも止めないと、泣いてしまう。

「そうだ。今のは別の守ってことにしよう。偽物の守のことを考えていたのよ。……それにしても、どうしてあんな不審な投稿に声をかけたのかしら? 毎週変な格好をしているし、変わった子なのかも? いや、子って年齢じゃないわよね。多分。本当の年齢は知らないけど」 

 数拍置いて、無意識の内に言葉が漏れていた。

「でも、あんな不審な投稿に期待して、縋って、メッセージを送るくらい、好きな人への気持ちに囚われている」

 これだけは、確信して言える。だって、ネット上での会話だけでは相手のことなんて分からない。もしかしたら、男性が女性のフリをして投稿しているかもしれない。そうでなくても、あんな変な内容なのだ。警戒されたっておかしくない。現に、私の投稿にメッセージをくれたのは、偽の守ただ一人だった。

 一時になれば、素の彼女に戻る。仏頂面で、口が悪い。不機嫌そうなオーラに、威圧的な態度。それなのに、消えてしまいそうなくらい儚い。瞳が、悲しそうに揺れている。何となく、放って置けない。

 彼女だって、私と同じなんだ。一方的に好きになって、勝手に運命だと決めつけて。……そして、その相手に振られた。立ち直れないほど傷ついて、一瞬でも自分を満たしてくれる誰かを求めている。他人から見たら歪で、気持ちの悪い行為でも、縋ってしまう。週に一回、たった二時間。十一時から一時の間だけ、私達は満たされる。金曜の夜という開放感が、罪悪感を打ち消してくれる。あなたは「守」に、私は「あざみ」になって。

 結局、休みの日にまで思考がぐるぐる回っている。大きなため息を吐いて、残りの紅茶を飲み干した。

「こんなことでうだうだしてる場合じゃないのに。……気分転換に買い物でも行こう。明日のデートは成功させたい。服装で躓けない」

 改めて、インターホン横のカレンダーで予定を確認する。赤いペンでこれでもかと強調した日付は、十二月三日の日曜日。この日の予定はたった一つだけ。

『守とディナーデート』

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