第3話
「一時になったから、帰る」
安いラブホテルの一室で、守は単調に告げる。余韻もムードも一切ない。真っピンクの大型ベッドから勢いよく降り、床に散らばった服を拾い集める。
守は、彼女の本名ではない。本名の代わりに、私の好きな人の名前で呼んでいる。これは、そういう契約だから。私は私の好きな人の名で彼女を呼ぶし、彼女は彼女の好きな人の名で私を呼ぶ。他人からしたら、何とも歪で気持ちの悪い関係だろうか。
守の体に沿って凹んでいたベッドは、徐々に浮き上がってきた。いつも、彼女の方が先に起きる。ベッドの半分が盛り上がるところを見ているのは、私だ。二人で密着して転がっていても、一時になれば守はすぐ帰る。名残惜しさなんて、一切見せない。
彼女の起き上がる動きに合わせて、ベッドは盛り上がる。それを見る度に、虚しさを覚える。失恋を忘れるために、することだけをする関係。汚れた行為を続けることで、苦しさを紛らわせる。でも、どうせなら、体だけじゃなくて心も満たされたい。
「ね、ねぇ……」
普段の何倍も小さい声で、そっと呼びかける。これが契約違反になることを知っているから、怖いのだ。目の前の守は気分屋だから、この言葉一つで二度と会えなくなるかもしれない。今の私を満たしてくれるのは、こっちの守だけ。会えなくなるのは、死ぬほど困る。でも、現状維持も嫌だ。
守は、一瞬だけこちらを見た。しかし、すぐに視線を手元に戻し、ダメージジーンズに手を伸ばす。一時を過ぎれば、私の言葉に意味はなくなる。守の興味が失せるのも当然だ。
なかなか喋り出さない私に、守はイライラし始めていた。彼女の大きな舌打ちが聞こえる。
「何。用があるなら早く言って。もう帰るから」
「あ、うん」
何度か視線を彷徨わせて、覚悟を決める。沈黙を伸ばしたところで、伝えたいことは変わらない。
『体だけの関係じゃなくて、偽の恋人にもなってみない?』
たったこれだけ。私は「あざみ」として、彼女は「守」として、恋人ごっこをすれば良い。それだけを伝えれば良い。
それなのに、私の口は思い通りに動いてくれない。
「髪の毛に、ゴミがついてるよ」
守に近づき、彼女の毛先を指で払った。鬱陶しそうに眉を顰められ、さらに怖気づく。私達の関係は、あくまでも決められた二時間を、お互いの好きな人として過ごすだけ。それ以下になることはあっても、それ以上になることはない。
体の関係を持つだけでは、満足できなくなっていた。最初はそれだけでも良かった。でも、一度満たされてしまうと、その先をも望んでしまう。空いた心の隙間を、目の前の守に埋めてもらいたい。
はっとして顔を上げると、守はすでにいなかった。ベッドのサイドテーブルには、ホテル代の半分が置かれている。彼女、そういうところは律儀でしっかりしているのだ。挨拶もなしにさっさと帰るくせに、きっちり半分のお金だけは置いていく。全額の支払いを押しつけられたことは、ただの一度もない。
この変に律儀な性格が、本物の守に似ていて大嫌いだ。ホテルで満たされた後なのに、嫌な気分にさせられる。
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