第3話 夢のような二週間


「――大丈夫か」


 逃げ惑い迷い込んだ先、行き止まりになった路地で、わたくしを取り囲んだ追っ手を全員倒した男性が声をかけてきます。


「あ……ありがとうございました」


 恐怖で座り込んでいたわたくしに手を差し出してくださったその男性は、ずいぶんと高貴な方のようでした。旅装束に身を包んでいるものの、何気ない立ち振る舞いに上品さが滲むようです。


 何とかお礼を伝えたものの、わたくしは震えるあまり、彼の手を取ることができません。


 わたくしの様子を見た彼は、背後にいた人を呼びました。


「……ユリアーナ、彼女を安全な場所へ運んでやれ。怪我をしていないかも確認して、必要なら手当を」

「御意」


 ユリアーナと呼ばれ出てきたのは美しいブロンドの女性でした。女性なのに、身につけているのはドレスではありません。これも旅装束でしょうか。


 美人な彼女には、その格好が似合っているはずなのにどうも似合っていない。不思議な感覚に襲われているうちに、わたくしはユリアーナの手を借りて彼らが宿泊している宿に運ばれました。


 一階がレストランになっているその宿は、廊下の至る所に絵画が飾られ、足元にはふかふかの絨毯が敷かれています。治安のあまり良くないこの街に、こんなに上等な宿があるとは思いもしませんでした。


 しかも、彼らはこの宿のワンフロア全てを貸し切っているようです。


 ユリアーナは、驚いて目を瞬くばかりのわたくしに「大丈夫。売り飛ばしたりしないから安心して」と言いながら、お風呂を準備してくれました。


 わたくしはそこで逃げ惑う最中についた泥汚れを洗い流し、手足の傷口を綺麗にしました。傷は自分で治せますが、身の安全のためにわたくしが聖女だということは誰にも知られてはいけません。ですから傷はそのままにしました。


「これしかなくてごめんね」


 そう言ってユリアーナが差し出してくれたのは、ユリアーナが着ているものと色違いの旅装束。清潔なそれに着替えると、ユリアーナはわたくしの傷口に薬を塗り、包帯を巻いてくれます。


 その手つきがあまりにも鮮やかで、さっきまでまともに話せなかったはずのわたくしは思わず声を漏らしました。


「……慣れていらっしゃるのですね」

「ふふふ。兄の手当は私の担当なの」


 兄とはどなたのことなのでしょう。可憐な笑顔に、ショックで凍りついたわたくしの心に少しずつ血が通い始めるのを感じます。


 そこまで会話をしたところで部屋の扉が開きました。入ってきたのはわたくしを助けてくださった男性です。後に数人の人間が見えます。どうやら、彼にはユリアーナのほかにも数人の人間がついているようだとわかりました。


「ユリアーナ、様子はどうだ」

「問題ありません。大きな怪我もなく、このまま帰しても大丈夫そうです」

「そうか。よかった」


 この男性がわたくしではなくユリアーナに話しかけているのは、わたくしがさっき路地裏でこの方に話しかけられて震えたからでしょう。それだけで、優しい方なのだとわかります。


 私は立ち上がった後あらためて膝をつき胸に手を当て、最敬礼をしました。そうして顔を上げずに伝えます。


「先ほどはまともにお礼を申し上げられず、大変失礼いたしました。この度は危ないところを助けていただきありがとうございます。何とお礼を申し上げたらよいのか」


 最敬礼というのは普通はまず受けることがないものです。ですが、彼は動揺する様子もなくわたくしの前に手を差し出しました。わたくしがその手を取ると、彼は私を引き上げて立たせました。


 わたくしは、はじめてそこで彼の姿を見ました。


 目を惹くブロンドに碧い瞳。スッと通った鼻筋に驚くほど整った顔立ち。意外だったのは年齢です。さっき助けてくれたとき、彼があまりにも強かったので、すっかりわたくしは彼が大人なのだと思い込んでいました。


 けれど、目の前にいる彼は大人というにはまだ少し早いでしょう。わたくしより二、三歳ほど年上――十七、十八歳といったところでしょうか。


 美しすぎるものは冷たく見えがちだとはよく言いますが、この方は美しいのに瞳の奥に温かさが滲んで見えるようです。


 同じぐらい美しくて優しい人をつい最近見た、と思わずユリアーナに視線を送ると、彼女はにこりと笑いました。


「この人、私の兄なの。正真正銘、血が繋がった兄。そっくりでしょう?」

「は……はい……」


 やっとのことで頷いたわたくしに、ユリアーナのお兄様は少し屈んで目線を合わせ自己紹介をしてくださいました。手は握ったままです。こんなに親しみをこめて声をかけられたのは久しぶりで、わたくしはぱちぱちと瞬くばかりでした。


「俺はテオ。この街の治安の悪さは驚いたな。家はどこだ? 送っていく」

「……わたくしはディーと申します。……迎えが来ますので送っていただかなくて結構です」

 

 この街から王都までは一週間から十日ほどかかります。来る時は、隠していたお金を使い御者と護衛を雇ってここまでやってきました。


 けれど、今日姉の嫁ぎ先を逃げ出したとき、馬車も御者も護衛もどこにもいませんでした。おそらく、辺境伯家の人間にわたくしが渡した以上の報酬を示されていなくなってしまったのでしょう。


 内心、これからどうしたものかと途方に暮れていましたが、これ以上この方々に心配をおかけするわけにはいきません。苦し紛れなわたくしの強がりを、テオは見抜いたようでした。


「本当に迎えが来る? 家の場所、この紙に書いて」

「……」


 わたくしには戻る家はありません。書けるのは王宮の場所だけです。ですが、それを書くわけにはいきません。仕方がなく、わたくしは王都の馴染みある店の番地を書きました。


 それを見たテオは眉間に皺を寄せ、厳しい表情を浮かべました。


「ディーは王都から来たのか? それで迎えがすぐに来ると?」

「はい。まぁ……その、二週間ぐらいは……かかるかもしれませんが……」


 実際には『迎えにくる』ではありません。わたくしがいなくなったことに気がついた聖女の世話係たちがこの街へ探しにやって来るまでの時間です。


 セジヴィック公爵家が汚名を着せられ没落して以来、わたくしが世話係たちに身の回りの世話をされることはほとんどなくなりました。


 毎日二回、朝と晩にパンとスープの食事が部屋の外に置かれるだけです。聖女として祈りを捧げるための部屋へついてくる人間もいません。何より、わたくしが王宮から離れたとしても、聖女であるわたくしが国内にいる限りセーネ王国は聖女の庇護下にあります。


 そんな毎日ですから、世話係の彼女たちがわたくしがいないことに気がつくまでには三日ほどはかかるでしょう。そこから行き先を調べてお姉さまの嫁ぎ先にたどり着く。はい、きっと二週間に違いありません。


 それまでどうしましょう。この宿屋は安全そうなので滞在できたらいいのですが、わたくしの所持金では三日ほどしか泊まれないでしょう。乗合馬車で王都に向かうこともなくはないのですが……。護衛もなくわたくしがひとりでたどり着ける場所ではないでしょう。


 お嬢様育ちのわたくしは、家や後ろ盾を失ってしまえばただの世間知らず。常識も何もなくて嫌になります。


 ため息をついたわたくしに、テオは驚くべきことを言いました。


「それなら、俺たちもあと二週間はここにいよう」

「……え?」


 いったい何をおっしゃっているのでしょうか。テオの言葉の意味を飲み込めないわたくしに、テオは話し始めました。


「俺たちは隣国から来たんだが、この国の聖女のことを少し調べたいと思っていたんだ」

「! 聖女のこと、ですか……?」


「ああ。ここ十年ほど、この国は飢饉や流行病の類が全く起こっていないし魔物が市街地に入り込んだ例も聞かない。そうとう優秀な聖女がこの国を維持しているのだと思い、先日王宮に行った際に面会を申し込んだのだが、拒絶されてしまった。異国の人間に会う時間は持ち合わせていないらしい」


 そんな話を聞いたことがなかったわたくしはため息を吐きました。おそらく、国王陛下や貴族たちは、卑しい国賊セジヴィック公爵家出身の聖女が持ち上げられることを嫌ったのでしょう。


 察しの悪いわたくしはテオに問いかけます。


「そのことと、追加で二週間もこの街に滞在することが何の関係が……?」

「この街は王都から離れていて治安も悪い。隣国との国境にも接しているから、結界の様子も確認しやすくて調べるのに好都合なんだ」

「なるほど……」


 腑に落ちたような落ちないような。不思議な気持ちで首を傾げると、ユリアーナがくすくすと微笑んで教えてくれました。


「お兄様はディーのことが心配なのですね。わかりやすい人ですわ」

「……うるさい」


 ユリアーナにそう告げたテオの声色は、言葉とは正反対に優しいものでした。わたくしは、戦場から戻らないお兄様のことを思い出したのでした。




 それから二週間。わたくしは、テオたちと一緒に過ごしました。


 驚いたのは、彼らが皆博識で教養にあふれていたということです。公爵家の出身で、セーネ王国では最上級の教育を受けてきたと思っていたわたくしに、テオはそれ以上のたくさんの知識をくださいました。


 歴史などの教養だけではなく、経済から政治にまつわる知略、聖女が扱える錬金術に至るまで。この国では女性が学ぶことは一般的ではありませんから、わたくしにとってはどれも素晴らしい知識でした。


 はじめ、わたくしはテオのことを兄のような気持ちで見ていました。けれど、なんだか違う気もします。


 尊敬できる人だけれど、それだけではないような。彼を思うと、心の支えになるような。言葉では言い表せない、そんな不思議な気持ちです。



 ある日の午後、裏の丘に皆で遠乗りに出かけました。わたくしはテオの馬の後ろに乗せてもらうことになりました。


 テオが「しっかり掴まっていて」というので、わたくしは彼の肩を両手で持ちました。すると、テオはさらりとわたくしの手を掴みました。


「――危ないから、こっち」


 そうして、わたくしの腕を自分の背中からお腹にぎゅっと巻きつけたのです。しっかりとしがみつくような姿勢になると、テオの身体が想像以上にしっかりと鍛えられていることを感じました。


 呼吸が速くなって言葉を返せません。テオの耳が少しだけ赤く見えたのは、夕日のせいでしょう。そのまま丘に着くまでの間、わたくしたちの間に会話はありませんでした。


 けれど、テオが馬に慣れていないわたくしを気遣って進んでくださっていることがよく伝わり、わたくしは次第に幸せな気持ちになったのでした。



 到着した丘の上には懐かしい花が咲いていました。実家のセジヴィック公爵家の庭に植えてあった花です。あまりにもはしゃぐわたくしに、テオとユリアーヌは首を傾げています。


「ディーは花が好きなのか?」

「はい。……というより、かつてわたくしが生まれた家にこんな花が咲いていたのです。もうその家はなくなってしまいましたが」

「……それは寂しいな」

「はい」


 そう答えると、わたくしとテオの会話を聞いていたユリアーヌがぎゅっと抱きついてきます。


「ディー、ずっと一緒にいようよ。わたし、ディーとならずっと仲良く暮らせる気がする」

「こら、ユリアーヌ? ディーが困ってるだろ。もうすぐ迎えが来るんだから」


 王都に戻れば、わたくしにも当たり前に居場所があると思ってくれているこの方々は、愛されている人なのでしょう。そして、この人に愛される人はどんなに幸せなのでしょうか。


 それは、わたくしが失った幸せの姿でした。


 鼻の奥にツンとしたものを感じて、わたくしはうつむきます。すると、テオが徐に話し始めます。


「――この国の聖女はよくない噂ばかりだ。しかし、国の状況を思うとどう考えてもおかしいんだ。本当に聖女の力がほとんどなく浪費家で国庫を食い潰すだけの極悪非道な悪女ならば、この国がこんなに豊かなはずがない。どうして誰も気づかないのか。……気がついていても言えないのか」

「…………」


 懐かしい甘い花の香りが混ざる風に吹かれて、わたくしは何も言えませんでした。


 ですが、聖女としてのわたくしの顔も名前も家名も知らないのに、国の状態だけを見て『豊かだ』と褒めていただけたのははじめてでした。


 わたくしは、五歳で聖女になった日から祈りをかいた日はありません。


 お父様が命を絶った日も、お母様が亡くなった日も、お兄様が死地へ赴くことになった日も、お姉さまがひどい男に嫁ぐことになった日も。そして、こうして辺境の街で息をひそめる今日ですらも。


 どんなに周囲に蔑まれ罵られても、この国のどこかで小さな幸せを糧に生きている人々に罪はありません。そのことを想い、聖女としての祈りをやめた日はありませんでした。


 わたくしにとって当たり前のことを褒めてくださった。


 そして、この国が豊かだと――幸せに暮らしている人がいる、わたくしは役立たずではないと認めてくださったことに、わたくしは思わず涙をこぼしました。


「ディー、どうして泣いているんだ?」

「いいえ……泣いておりません。見間違いです」

「そんなはずないだろう」

 

 ふと、頬に触れるものを感じて顔を上げると、テオがわたくしの髪を耳にかけ、頬の涙の跡を親指でなぞったところでした。


 さっきの馬の上よりも距離が近く感じられて、わたくしは息が止まってしまいそうです。


「ディー」


 甘く名前を呼ばれて心臓が跳ねました。テオの碧い瞳に映ったわたくしは、かつて幸せだった頃の顔をしています。けれど、そうして告げられたのは聞きたくなかった言葉でした。


「俺は明日、国に帰る」


 わたくしの心の中に大きな絶望が広がりました。


「本当はディーを国に連れて帰りたい」

「わたくしは……」

「だが、ディーはどこか特別な家の令嬢なのだろう? なぜか二週間もこんなところに放置されているようだが」


 これまでの会話から、テオはわたくしには複雑な事情があり、妾の子かなにかなのだろうと思っているらしいことは察していました。


 本当はついていきたい。けれど、テオが褒めてくださった聖女としてのわたくしにそれは許されることではありません。


 わたくしは、ただ微笑んで頷くことしかできませんでした。あの日の丘の景色を、匂いを、テオの瞳の色を。わたくしは、決して忘れることがないでしょう。




 次の日。いよいよ出発というところで、彼はわたくしに「いつでも頼ってほしい」と言いながらメモを渡してきました。


「……俺は、帰ったらもっと詳細にこの国のことを調べようと思う。我が国は、信頼に足らない国とは同盟を組むわけにいかない」


 そこに書いてあったのは隣国の皇宮の場所と、テオバルド・オリバレス――皇太子殿下のお名前でした。


 ――我が国。わたくしは、はじめてそこであの人の正体を知ったのです。




 テオたち――お忍びで街を視察していた皇太子テオバルドと皇女ユリアーヌを見送った数時間後、わたくしの前にも王宮から迎えが現れました。


 馬車に乗っていたのは、世話係のメイド二人です。彼女たちはそれぞれわたくしの頬を叩いて口々に言いました。


「役立たずな上に面倒までかけるなんて」「本当に迷惑だわ」


 赤く腫れた頬を冷やそうとハンカチを水で濡らしたら、それも取り上げられました。


「これ見よがしに嫌らしいわ」

「そんな傷ぐらいすぐに治せるくせに」

「……そのハンカチは母の形見です。どうかお返しください」


 これは、いつも通りの日常でした。


 ――聖女ではない、わたくしの二週間は終わったのです。

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