第10話 侵略

 真冬の空を、一羽のからすが飛んで行く。夜が明けたばかりの瑞の宮殿に、どかどかと大きな足音が響いた。たちばなだ。橘は、厨房の片隅で固まって早い朝食を食べている女官達に大声をかけた。


「桐殿! 牡丹殿! いるか?!」


「はいっ。まあ、橘様! どうなさったのです? こんな早くに」


 お粥を食べていた桐が、口元を手拭で拭いながらやって来た。後ろから、頬をパンパンにした牡丹も駆けて来る。橘は彼らを脇に呼び寄せ、小声で鋭く言った。


ほむらの軍勢が、遂にこの瑞を目指してやって来る。女王陛下に至急、目通りを!」


 桐と牡丹は息を飲み、すぐさま主の寝所に向かった。夜明けを知らせる鳥が一声、啼いた。


 宮殿の謁見の間で、花月は橘と向き合っている。後ろには、先程起こしにきてくれた桐と牡丹、各府の長官、それに宮廷の主だった官吏が全て、不安そうな顔で控えていた。


「橘。状況を」


 花月の低い問いかけに、橘は険しい顔で床に両拳をついた。


「はッ。兼ねてからのご報告通り、焔の王都にて我が国に対する挙兵の動向がございましたが、本日未明、遂に、奴らが南に向けて進軍を開始しました。我が護衛府は、防戦のため、現在、軍勢の大半を焔との国境付近に向かわせております。両軍の接触まで、あと数日かと」


 即位式の後。護衛府からは逐一、焔の情勢について報告が上がっていた。奴らに不穏な動きがあるのは、かなり早期に察知できている。花月は頷いた。


「結局、焔との開戦は回避できなかったわね」


 橘の背後にいたひさぎが「力及ばず申し訳ありません、陛下」と頭を垂れた。


 あれから長い間、折衝せっしょう府は焔との関係改善に死力を尽くしてくれた。だが、焔の態度は頑なで、遂に全ての交渉を受け付けなくなり、二国間関係は過去最悪と言う程まで冷え込んだ。結局、花月の書簡への応答もなく慈英は戻らない。花月は、楸に首を振った。


「いいえ、あなたの責任ではないわ。遅かれ早かれ、こうなっていたのに違いない。奴らは瑞を我が物にしたいのだから。それで、橘。戦力の読みは」


 橘は目をぎらつかせた。


「当然のこと、我が軍に勝機あり! 奴らの動向を察知してから、護衛府では新兵を採用し、軍全体の戦力を底上げするよう努めてまいりました。また、陛下と折衝府のご協力もあり、大量の兵器も入手致しております」


 花月は頷いた。年が明ける前、花月は、あの強国であるあかつきに、兵器の融通を依頼する書簡を送ったのである。陸路を閉ざされた状態で、書簡を密かに送れるのは暁しかなかった。しかも運のいいことに、暁はその頃、彼らと西で国境を接していた、おとの国を統合したばかりだったのである。


 瑞とアズマ湾を挟んで対岸に位置する暁の海岸線は遠浅なため、小舟でしか近づけない。書簡程度を運ぶなら小舟で十分だが、大きな兵器類はとても運搬できない。だが、その更に西の、彼らが領土を拡大したばかりの土地は、海岸線が海側に張り出しており、大型の船でも難なく接岸できる。乙の国は閉鎖的な国策だったため、父王の時代から付き合いは全くなかったのだが、暁とは多少なりとも繋がりがある。花月は、それに賭けた。暁が、度重なる戦で、財政が悪化しているだろうと踏んだのである。案の定、暁の鬼羅きら国王に書簡を送ったところ、大口の取引であったが、すんなり受け入れてくれた。楸が真顔で言った。


「あの時は、花月様に助けられました。あの鬼羅国王ですから、下手をすると、この隙に乗じて、彼らこそが焔と手を組んで攻めてくるのではないかと不安もあったのですが」


「いいえ。父に聞いていたわ。暁は、先代の百鬼ひゃっき国王の時代から、内陸へ関心を向けている、彼らは半島の小国を無慈悲に蹂躙じゅうりんするようなことは無い、と。父はよく、彼らとは穏便な付き合いを続けよ、と言っていたの。彼らは、私達の敵ではない。あとは、焔をどう退けるか。橘、あなた達の力、信じているわ!」


「はッ。この橘にお任せを。我が護衛府、卑しい焔の兵などに、この瑞の土地を一歩たりとも踏ませませぬ!」


 橘はそう言って、並み居る官吏たちが頭を下げる中、謁見室を大股で出て行った。花月は立ち上がり、その場に残った者達に声を掛ける。


「瑞は、必ず勝つ! そのために、私もこの命を賭けましょう。各府の長官は情報収集を。官吏の者は、護衛府の援護に回って。宮廷が民に動揺を見せてはなりません」


 彼らは「はっ」と応答して頭を垂れた。桐と牡丹がすかさず花月の傍に駆け寄って来て、花月は彼らと共に退室する。背後がたちまち騒がしくなる。宮殿内に人々の駆け回る音が響いた。桐と牡丹が、花月の両脇にぴったりついて歩く。牡丹が、泣きそうな顔で言った。


「この先、一体どうなっちゃうんでしょうか。戦だなんて……あたし、怖いですう」


 花月は牡丹の、今にも泣き出しそうな顔を見て、ひどく胸が痛んだ。


(怖い、か……当然だわ、私だって、心臓が止まるほど怖い。なぜ、こんなことになってしまったの? 戦は、避けられなかった? 本当に、他の道は無かった? こうなってしまったのは、力のない私のせい……? 父上だったら、こうはならなかった? 国民は皆、本心では、私を憎んでいる? こんな私が王であることを……? いいえ、やめなさい……花月。いくら考えても、答えは出ないのよ……)


 他国からの侵略という事態に自責の念に駆られ、花月は、叫び出して頭を掻きむしりそうになる。そんな自分をどうにか抑え、内心の葛藤など露ほども顔に出さず、背筋を伸ばして口端を上げた。


「心配は無用よ、牡丹。私達は、必ず勝つ! 私はこの命をかけて、瑞を、民を守ってみせる」


「か、花月様あ……」


 牡丹が、潤んだ瞳で自身より少し背の高い花月を見上げた。桐も、ぐす、と鼻をすすって花月を見つめている。彼らの瞳に信頼の光が灯っているのを見て、再び花月の心臓が刺されたように痛んだ。


(ごめんなさい……桐、牡丹。私のような者が主で。……でも。後ろを振り返りはするものか。私は、負けるわけにはいかない。国を守るのよ、なんとしてでも。そのために私に出来ることは……)


「桐。奥の間に、至急、楸を呼んでくれる? 相談したいことがあるの。牡丹は一足先に私の部屋に帰って、書簡の準備をしておいて」


「「は、はいっ。只今!」」


 二人は同時にそう言って、別々の方向に走って行った。花月は足早に奥の間へ向かう。


(同盟を……暁と、同盟を結ぶのよ。楸と橘の報告によれば、少なくとも今は、暁と焔に親密な関係はないことが分かっている。彼らが背後から、あの焔に睨みを利かせてくれれば。可能であれば、少しでも援護してくれれば。こちらの勝機が格段に上がる!)

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