最終話


 こうしてあたしの日常は戻ってきた。表面的には何も変わらない。

 毎日仕事をして、時々内勤と食事をしたり、店長とコーヒーを飲んだ。付け加えるなら時々アユとカラオケに行って、もっと時々洋平君とドライブに行った。


 ベルスには今もマスターが立っている。新しいアルバイトが増えて三人体制だ。



 マスターが手術を受けたのは三か月前。あたしはその日仕事を休んで一日中ベルスにいて、洗い物を手伝ったり気さくな常連客にドリンクをサーブさせてもらったりしていた。


 マスターの話はしなかった。客がいない時はキャスターのソフトとボックスの味比べをして変わるとか変わらないとか言い合いながら時間をやり過ごした。簡単なカクテルの作り方を教えてもらい、新しいアルバイトを始めたような気分になると代表に先の事を考えろと言われた事を思い出した。

 風俗はいつまでも出来る仕事じゃない。両立しながら勉強出来る事を探してみてもいいのかもしれない。あたしには何が出来るだろう?


 西日が差し込みブラインドを下ろした午後、代表から手術成功の電話を受け、奏多君は膝から崩れ落ちて泣いた。あたしはアユや洋平君がしてくれたように、大丈夫だと言って背中を叩いてあげた。どんどん大きくなる泣き声に、自分の気持ちが伝わっていると感じて安心した。


 奏多君が一番不安だったはずだ。

 マスターはたったひとりの家族なのだから。



 その夜、アパートに帰ると代表がいた。鍵が掛かっていたので出直すはめになったと怒られた。腑に落ちない。


 気にしていた高木と多摩センターについて聞くと、吉岡がけりをつけたと返された。ファイルという名の弱味が代表に渡った今、彼等は一つだって刃向かう事は出来ない。


 マスターが作ったファイルは正真正銘の爆弾だ。所有が代表に移ったという情報は水面下で界隈に周知された。これで阿久津グループはより強く守られた事になる。


 よかったねと言った。こうなって本当によかったと思ったからだ。


 代表はじっとあたしの顔を見つめる。どうしたんだろう。聞けばあたしには少しすずえさんの面影があるそうだ。好きだったのと聞くと、軽く小突かれ柔らかく押し倒された。


 髪を撫でられ、この先どうするのか聞かれた。それは今まさに考えている事だ。

 これまでの人生がひっくり返るような体験をして来たのだ。沢山の人に出会い、沢山の景色を見た。その気になれば何にでもなれるような気がして、正直戸惑っている。


 でも、少なくとも今は、あたしはアンクの風俗嬢だ。望まれる限り客を取り続ける。そしていつかここを去る時が来たら、胸を張ってこう言いたい。あたしに世界の明るさを教えてくれてありがとう、と。




【完】


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ANK 水野いつき @projectamy

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