第53話


「もしもし。あれ、奏多君? あたしマスターに聞きたい事があって」


「マスターは今お話し出来ません。知ってる事なら僕が答えます」


「代表が見付かりました。でもファイルを受け取ってもらえない。どういう事か知りたくて」


「阿久津さん沖縄にいたんですか?」


「はい。夜中に、」


「ならその時点で電話してくれよ。マスターは今朝倒れたんだ。今病院にいる」


「病院? 何かあったの?」



 長い沈黙の、実際には数秒の沈黙の後、ため息が聞こえ、奏多君が囁くように語り始めた。



「もう何年も薬で誤魔化してる。マスターの余命宣告をきっかけに阿久津さんは姿を消したんだ。手術しなければ二年。マスターはそれを承知で手術を拒否してる。僕は本人の意思を尊重したいと思ってる」


「どういう事なの」


「高木に余命宣告がバレたんだ。お互いを見張り合ってたからすぐに嗅ぎつけ銀行からファイルが出ると踏まれた。手術を受けるにしても受けないにしても、あれをほったらかして死ぬわけにはいかない。僕は戸籍が無いし譲る相手は一人しかいない。阿久津さんだ」


「なぜ代表なの」


「十年前、僕の母は殺された。ベルスビルの一階にあった小料理屋のママだった。あの夜はマスターと阿久津さんの個人的な席だったけど、高木のタレコミで多摩センが襲撃してきて、母は阿久津さんを庇って死んだ。二階にいた僕は音に驚いて店の様子を覗こうと階段を降りた。硝子片に囲まれ倒れていた母の口元に二人が顔を寄せて、何度も頷いてるのを見た」



 震える息が聞こえる。波の音かもしれない。



「マスターに延命治療させる為にあの人は消えたんだ。ベルスに立たせ続ける為だ。死ぬまで店を守る、それが母を車軸にした二人の約束だ」


「延命治療……」


「僕も焦ってたんだ。マスターが手術を受けなければ阿久津さんは宣告から二年引っ張るつもりで消えたはずだ。でも病気なんて計算通りに進行する保証はない。マスターがベルスにいなかった夜は人さがしだけじゃない。ほとんど体調不良だよ。

 あの日もマスターの代わりに僕が夜から出勤していて早朝買い出しに行った。そこで君を見かけた。タクシーの運転手に手紙を預けたのは僕だ」



 波の音が遠くなる。



「君を利用した事は謝る。最後のお願いだ、阿久津さんを連れ戻してくれ。ファイルが浮いたままマスターが死ねば町の弱味を失ったよそ者の言う事なんていずれ誰も聞かなくなる。アンクも母の分身も潰れてしまう」



 電話を切ったのか切られたのか、耳に当てた携帯は何も喋らない。もう何も聞こえない。



 延命せずにベルスとファイルを代表に譲りたいマスター。

 マスターに治療を受けさせ、ベルスの主として店に立たせ続けたい代表。

 この機会にファイルを奪おうとする高木と多摩センターの残党。

 そして死ぬまで店を守るという、故人との約束。



 渦を巻く言葉を抱え立ち尽くしていると洋平君に肩を掴まれた。


「遅えから出てきたよ。おいなんだよその顔」


 自分に言い聞かせるように説明すると、洋平君はそっと肩を叩いてくれた。


「お前が帰りたいなら連れて帰るし、代表を連れ戻したいなら手伝ってやる」

「ヴィラを張ってれば会えると思う」

「はいよ。あーあ、ついにご対面かあ。殴られたらどうしよう」



 ゲストハウスのラウンジでレンタカーを待っているとエンジン音が聞こえ、外に出ると迎えに来たのは軽トラックだった。これしか空きがなかったらしい。


「好きな女軽トラで迎えに行くなんて」

「似合ってるよ」

「やめてくれ。海に突っ込みそうだ」


 その海には夕日が溶けている。マスターに見せたいと思った。とろりとした水を眺めながら、あたし達はヴィラに向かった。


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