第52話


 キッチンの床を掃除していると寝室から携帯の着信音が聞こえた。何も考えず手に取り、電話に出た。


「おは。大丈夫か? 全然連絡よこさねえで」

「おはよう。大丈夫」

「どうした。代表見付からないのか?」

「いたんだけど怒らせちゃった」

「最悪のタイミングだ。なんで朝から惚気聞かされなきゃいけないんだよ。じゃあまだしばらくそっちにいるのか?」


 洋平君の優しさが、あたしの口を勝手に喋らせる。声が震えた。


「もう帰りたい」

「いいぜ」

「来なきゃよかった」

「いいや。俺は来てよかったよ。よく分かんねえけどとにかく代表はお前を泣かせた。お前はそれで帰りたがってる。最高だ。やっぱり俺は神に愛されてる」


 お前どこいんのと聞かれ、大城さんのゲストハウスを教えて電話を終えた。

 あたしはここにはいられない。陶器の破片を寄せ集めると指を切った。何も感じなかった。



 タクシーでゲストハウスに戻るとハタキと掃除機を持った大城さんがいたけど挨拶を返すのが精一杯だった。今ならすれ違う人に笑いかけられただけでも泣けてしまう。


 あの二人組はいなくなっていた。安心したけど今なら傷付けられてもいいとも思った。代表の言葉は反しの付いた棘となり胸の柔らかい部分に食い込んで抜けない。それならば痛みを上書きして忘れさせて欲しかった。でも、こんなにもあたしを打ちのめす事が出来る人、他にいるだろうか。誰かあたしを傷付けてと祈りながらベッドに倒れ込み、身体を丸めてひたすら痛みに耐えた。




 大城さんの遠慮がちな声が聞こえる。頭が痛い。


「寝てたのにごめんね、なんか知り合いって人が来てるんだけど。しおりちゃんのフルネームと携帯番号知ってるから、捜してる人かもと思って確認しにきた。母が対応してるから知らないなら追い返すけど、何か約束してる?」


 携帯を見ると洋平君からの着信履歴がぎっしりだ。眠るつもりはなく、大部屋なのでマナーモードに設定していたから気付かなかった。


「ごめんなさい。友達です。すぐ行きます」

「友達か。じゃあラウンジで待っててもらうからね」


 ちょっと待ってとメールした。顔を洗い着替えると、髪は大ざっぱに丸めて結わえた。傷心馬鹿女の完成。薄く笑うと目の腫れが増したような気がして冷たい水でもう一度顔を洗った。


「ごめん寝てた」

「お前ふざけんなよ。あんな様子で電話した後急に連絡つかなくなったらびびるだろうが」

「ごめんね。歩こう」


 外にでると太陽は真上にあった。


「何してた?」

「ゲストハウスで仲良くなったタイ人と観光して回ってた。俺が車出して、レイサンは飯奢るかタイ料理作ってくれるんだ」

「楽しそうでいいね」

「やめろよその言い方。なあ、俺は代表の事聞いた方がいいのか?」

「うーん」

「なんだよ。面倒くせえな。言ってみろよ。そもそも仕事の何かを渡したくてここまで来たんだろ? 代表見付けたなら試合終了だろ。何をそんなに困ってんだよ」

「受け取ってもらえなかったの」

「何でだよ」

「分からない」

「何でそれでお前が泣くんだよ」

「拒絶されたからかなあ」

「俺の気持ちが少しは分かったか」

「ばか」


 冷静さを少し取り戻したと感じた。洋平君に聞かれ、今自分で答えた。悲しみの理由は個人的に拒絶されたからだ。諦めて帰る理由にならない。胸の痛みは消えないけれど。


「聞いて欲しい事があるの」

「はい」

「ジョートーに行こう。知り合いのカフェ」

「どこでもいいっすよ」


 一緒にバーベキューした女性スタッフは何か勘違いしたのか嬉しそうな顔をして一番奥のテーブル席を案内してくれた。


 あたしはコーヒーを飲みながら、代表失踪から今日に至るまでの事を話す。権利証とファイル、ベルス、高木と多摩センター、阿久津グループと、知っている事を全て話した。

 

 その上でファイルを受け取ってもらえなかったと言うと、洋平君は顔を上げずにやばいんじゃないのと言った。


「何がやばいってベルスとかいうバーだろ。ヤクザに追われてるってのに、代表はあくまでマスターから隠れてるんだろ。んでお前はそのマスターの言うとおりに接近してファイル渡そうとした。たったそれだけでブチ切れの上強制送還だ。どう考えてもマスターが怪しい。お前、何かやばい仕事の片棒担がされてんじゃねえの」

「やっぱりマスターの正体を聞くべきだよね」

「帰るべきだろ。なあ、お前怖くねえの」

「何か事情があるみたいなの。ベルスを教えてくれたのは代表だし、敵対してるって感じじゃないもの。でも、それならどうしてファイルを受け取ってくれないんだろう」

「知らねえよ本人に聞けよ」

「あっ」

「何だよ」

「マスターに電話してみる」


 洋平君はため息をつくとコーヒーのおかわりを頼んだ。あたしは携帯を持って外に出ると木陰で電話をかけた。


 電話番号を間違えたのかと思った。

 マスターの携帯から聞こえてきたのは奏多君の声だった。


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