第35話
出発前日の正午。工房Aの前で胃が痛い。
軽くノックをして入ると昨日とは違いアキ君は土間にいた。ミシンの前に座り、作業している。
がたがたと音がする。気持ちの落ち着く音だ。しばらく耳を澄ませていると音がやんだ。アキ君がミシン台をいじり、立ち上がると振り向く。
「わっびっくりしたっ」
「ごめんなさい。一応ノックしたんだけど」
「作業してると聞こえないんだ。今度からバーンてドア開けて入ってきていいよ。洋平みたいに。そしたら気付くから」
ちょっと待っててと言い、部屋に上がっていった。
ミシンに興味があった。頑丈そうにも繊細そうにも見えた。恐らく両方だ。近付いただけでバラバラと壊れてしまいそうで遠目に見るにとどめた。何を作っているんだろう。何枚かの革のパーツが繋ぎ合わされている。組み立てるとどうなるのか、全くイメージが全然つかない。
「眼鏡ケースだよ」
アキ君が戻ってきた。マグカップの温かいコーヒーを手渡してくれた。
「オーダー品なんだ。眼鏡もサングラスも入る大きめのケースが欲しいって。普通サイズの型紙はあるから、それを引き伸ばして作ってるんだ」
「すごいね。難しい?」
「ミシン? 縫うのはそうでもないかな。切る方が難しい。俺的にはね。ちょっとこっち来て」
土間には暖簾がかかった小部屋があった。倉庫として使っているようでファスナーやカラビナなどの部品が仕分けされて几帳面に収納されている。
アキ君が奥から丸まった模造紙のような物を持ってきた。ばさりと広げると、それは1枚の大きな革だった。
「すごいでしょ。この状態で納品されてくるんだ。こっちが頭側で、こっちがおしり側。こいつは背中に目立つ傷があるね。この部分、量販店じゃ不良扱いで使われないけど、俺はむしろここが好き。生き物って感じするでしょ? 無骨で力強い感じ。大切にしようって思えるしね」
うるさくてごめん、と恥ずかしそうに笑った。
「こいつを専用の刃物で手で切るんだよ。これが難しい。真っ直ぐ切るのが一番難しいんだ。俺的にね。何度かんしゃく起こした事か」
笑いながら倉庫を出た。このメガネケースも元々はあんなに大きな革だったんだ。そう考えると不思議な感じがした。
「しおりちゃん煙草吸う?」
返事をすると、嬉しそうに上がってと言われた。土間は四畳半ほどの畳の部屋と繋がっていて、そこを抜けると台所がある。コンロの換気扇を回し、椅子を引いてくれた。アキ君はシンクにもたれかかり、エプロンからキャメルを取り出した。灰皿これなんだとコーラの瓶を渡された。
「そうだ。昨日は送ってくれてありがとう。間に合ったよ」
「いえいえ。あの後さ、洋平戻ってきたんだよ。しおりちゃん、あいつになんか言われた? 用があって引き返してきたんだって。でも、俺が先にしおりちゃんさらっちゃった。工房戻ったらあいつミシン台の前に座ってやんの。びびったよ。戸締まりって大事だね」
「そうだったんだ」
戻ってきて何を言うつもりだったのかな。アキ君の目を見た。探られてる気がした。
「口説かれてる?」
「そういうわけじゃないの」
出会いが出会いだ。どこまで話していいのか分からない。
「俺達幼馴染みなんだ。お互いの家族より長い時間一緒にいるんだ」
「羨ましいな」
「羨ましい? まあとにかく、何となく分かるんだ。しおりちゃん困ってるんじゃないかと思って。」
「困ってなんかないよ。むしろあたしが洋平君を困らせてるの」
「沖縄?」
それはさすがに知ってるか。
「脅したの。道案内してもらうの」
「聞いたよ。でも、あいつは本気で嫌なら断るよ。何言われてもね」
「断れないの。断れないように脅したの」
自分で言ってて悲しくなってきた。洋平君は友達じゃない。脅して雇った案内人だ。でもそれでいい。それで代表が見付かるなら。
「断れるんだよ。あいつは嫌な事を嫌と言えるんだ。実際それで何度もトラブった。もうとっくに落ち着いたけどね。でも根っこは変わってないはずだ。人にも自分にも正直な奴なんだよ。だから、ねえ、そんな顔しないで。つまり洋平は大丈夫だよ。昨日は面倒だ何だって言ってたけど、めちゃめちゃ楽しみにしてるから。顔見たら俺、分かるんだよ」
実はアキ君のフォローは何のフォローにもなっていない。あたしのクズっぷりが際立っただけだ。
「人を捜してるの。見付かったら洋平君はすぐに解放する。もう会わない」
「その頃にはあいつがしおりちゃんを手放せなくなってるよ」
「ずっと一緒にはいられないの」
「どうしてそう思うの?」
「他に好きな人がいるの」
「あいつはしつこいよ。利用するなら覚悟した方がいいよ。それに」
アキ君の目がきらりと光った。
「俺がこんな事言うのも変だけど、洋平は良い奴だよ。一途だしね。あんまりいじめないでやってね」
そう。本音が聞けた。
「大丈夫。ごめんね。洋平君借ります」
アキ君は微笑んだ。あたしの手からマグカップを取ると、工房戻ろうか、と言った。
友達思いのアキ君が作った革小物達。どれも愛情込めて作られたんだろう。狙っていた財布を手に取った。財布から触らないでくれと声なき抵抗を感じた。残酷な気持ちになり手で包み込んだ。
あたしに似合ってる気がしなかった。似合う人間になれる気がしなかった。別に構わない。あたしは人を利用する。日常を守るために。なぜならあたしはアンクの風俗嬢だ。
「アキ君、これにする」
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