第34話


 結局、財布は決まらなかった。手に取ったり戻したりを繰り返しているうちに仕事の時間が迫ってしまい、アキ君にまた明日来ると伝えた。そんなに急がなくていいと言われたけど、沖縄で使いたかった。


 それならと、町田で買った荷物を工房で預かってくれる事になった。そろそろ内勤がキャッチに出始める時間で、見つかるとややこしいから駅のロッカーに預けるつもりだった。助かったと思いお言葉に甘えた。


 お礼を伝え、洋平君を見た。何とも言えない顔をしている。待たせたのに決められなかったからだろうか。そんな人じゃないはずだけど。

 じゃあ行くねと言うと、俺も出ると言って立ち上がった。アキ君はなぜかにやにやしている。


「おお、洋平。お前は今すぐ出て行け。そして二度と来るな。しおりちゃんはいつで来ていいからね。とりあえずまた明日」 


 役者かな。温度差が面白くて笑ってしまった。洋平君はぶすっとしている。



 駅に向かって歩いていると、洋平君がふいに立ち止まった。


「仕事行くの?」

「行くよそりゃ」 


 突然どうしたんだ。


「借金とかあるの?」

「ないよ」

「誰かに脅されてる?」

「そんな事ないよ」

「じゃあなんで風俗なんかやってんの」


 言葉が出ない。


「ごめん。真面目に働いてる人に言う台詞じゃないよな。忘れて」

「うん」

「アキの店気に入った?」

「すごく。手作りっていいね。あったかい感じ。洋平君もアキ君のレザー、何か使ってるの?」 


 手出して、とキーケースを渡してくれた。工房のミシンを思い出させる深い飴色だ。細かい傷やスレを抱き込むように艶がかかっている。大事にされてきたのがわかる。


「あいつがまだ趣味でやってた時のなんだ。下手くそな試作品押し付けられて困ったよ。でもそれだけは気に入って今でも使ってる。店やるようになってからは財布やら何やら色々買ったけど、結局これが一番だな」


 素敵だね、そう言って返す。あたしが触るのは相応しくないような気がした。


 キーケースごと手を握られた。


「なあ。俺、お前の事も、大事にしたいよ」


 あたしの手が空っぽになると、洋平君はすたすたと行ってしまった。


 追えなかった。追いかけていってどんな顔で声をかければいいのか分からなかった。


 立ち尽くしていると後ろから来たバイクに横付けされた。驚いたけどアキ君だった。


「洋平の忘れ物見付けて出てきたんだ。遅かったか。職場町田なんでしょ? 送るよ」


 ヘルメットを付き出された。あたし、免許なくて、遠慮がちに言うとアキ君は目を丸くした。そして弾けるように笑うとヘルメットを頭にかぶせてあごのホックを締めてくれた。


「免許なら俺が持ってるから大丈夫です。はい乗って」


 バイクは思ったより揺れなかったし、そんなに怖いと思わなかった。アキ君が貸してくれたライダーズの襟をかき合わせ強い風を感じていた。


 町田駅につくと、ヘルメットのホックをはずし、ジャケットを脱ぐのも手伝ってくれた。そしてじゃあねと言い残しあっという間に去って行った。お礼を言う間もなかった。



 遅れることなく無事に出勤した。案の定ビルの前でキャッチしていた内勤に、なんか髪荒れてるけどと言われ慌てて手ぐしで整えた。じゃあよろしくねんと肩を叩かれた。階段を上る足が重かった。


 革の匂いがした気がした。そんな訳ない。だってここはあたしの職場だ。この薄暗いビルがあたしの現実だ。こっち側が、あたしの世界だ。忘れるな、忘れるな。


 ふいに代表の顔が浮かんだ。あたしは工房にいるとき、代表の顔を思い出さなかった事に気付いて愕然とした。足が動かなかった。



「あっしおりもこれから? おはよう」

「アユ」

「えっどうしたの。なんで泣いてるの?」


 アユが目にハンカチを当ててくれた。

 優しさにとどめを刺されると涙が溢れてとまらなかった。


「客? 店長呼ぶ?」

「違うの。彼氏と喧嘩したの。さっき振られたの」

「おーおーそうか。かわいそうに。こっちおいで。ここあぶないから。とりあえず事務所に顔出して非常階段で話そう?」

「ごめんね。ありがとう。大丈夫。外寒いからいいよ。アユが見付けてくれてよかったよ」

「しおりじゃなかったらスルーだよ。そしたら早く着替えて待機いこ? 話聞いたげる」


 ありがとうと言いたいのに嗚咽しか出ない。


「あはは。あんたもう顔ぐちゃぐちゃだよ。可愛いのに。てか髪も乱れてない? どんな喧嘩してきたのよ」


 アユが笑って前髪を直してくれた。


「泣きやめなんて言えないよ。別れた後は辛いよね。この仕事は特にさ。今日、もう帰っちゃえば? なんか隣の子が死にそうに顔色悪いって、店長に言ってあげるよ」

「好きな人を忘れそうなのが怖いの。昼の人と会った後、ここに来るのが辛いと思ったの。ねえ、アユはバンドの後、ここに来るの、辛くない?」

「まだ好きなんだね。ああ、現実と理想的な? 辛いよ。ただでさえ嫌々なのに、余計辛くなる。ライブが盛り上がった後は特にだね。温度差っていうのかな。あんま調子に乗るなって言われてるような気持ちになる。お前はこっち側の人間だぞって」

「泣く?」

「泣かない。割り切る」


 目の奥を覗き込まれた。アユは何かを覚悟したような、少し怒ったような顔をしていた。


「もう仕方ないんだって、割り切る。考え出すとテンション下がるだけだよ。やりたい事やる為には、仕方がないんだってね。後は自分で選んだ道なんだって思い出す。本気で嫌なら辞めれる事も思い出すでしょ? それでもしんどいって時は休む。罰金上等。ひとりでカラオケ行って朝までメタル歌う」


 カラオケでマイクに向かって叫ぶアユを想像したら少し元気が沸いた。


「そっか。ありがと。頑張れそう」

「はいよ。目だけ直してきな。あたし先に事務所行くよ。待機の席取っといてあげるから」



 トイレで自分の顔を見つめた。

 やるべき事をやろうと思った。あたしは直ぐに気が散ってしまう。人と繫がるって事は、世界が広がるって事なんだ。知らなかったから、油断した。


 余計な事は全部シャットアウトしよう。その結果人が離れていったとしても、仕方ないと割り切るしかないんだ。寂しいけどそのときはアユにカラオケを付き合ってもらおう。メタルが何かは、知らないけど。


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