第32話


 出発三日前の仕事終わり、内勤と食事して帰る事になっていた。


 先に事務所を出たのでアパートのエントランスで待っていると電話がかかってきた。女の子間でちょっとしたトラブルがあったらしく、フォローするから今日はごめんと言われた。


 頑張ってねと伝え部屋に向かって歩き出したけど、おなかが鳴って気が変わった。ベルスに行こう。

 出発前に顔を出すつもりではいた。通常ならマスターがいる時間だ。進展はないけど代表の話がしたい。いるのが奏多君だったら旅行の経験がありそうだから、参考に色々聞いてみよう。

 くるっと振り向くとちょうどタクシーが通りかかった。飛び出して手を上げた。



 ベルスにはマスターがいた。迎え入れてくれたマスターの顔は疲れが隠しきれていない。それでも目だけはいつにも増して温かく笑っていた。


「こんばんは。出発前に来ようと思って」


 内勤のトラブルは置いておく。


「嬉しいです。奏多さんが今日来なかったら電話してみると言っていました。元気そうで安心しました。私から伝えておきますよ」


「ありがとうございます。沖縄、緊張します。代表見付かるかな」


「どうでしょうか。あまり期待しない方がいいとは思いますが、正直私は感じるものがありますよ。手がかりを見付けて下さっただけでも、大変有り難い」


「代表が見付かったら、ベルスの権利証、というかファイルを受け取ってもらうよう伝えればいいんですよね。それでもし、まだ代表が町田に戻れないなら、あたしが二往復する」


「そうです。それだけ言えば伝わるはずです。あれから不審な影は?」


「なんともありません。ぱったりです。逆に怖いくらい」


「あなたには色んな事が立て続けに起こりました。本来無関係なのに申し訳ございません。可能であれば沖縄の海をながめてくるといい。向こうはまだ、十分温かいですよ」


「はい。海は少し楽しみです」


「同行者がいると言っていましたね。その方とは連絡を取り合っていますか?」


「矢野洋平君です。この前食事に行きました。明日は旅行の買い物に付き合ってもらうつもりです」


「よかった。おひとりでしたら出張扱いで奏多さんにお願いするつもりでした。私は足がこれですから。目的地を探すのに時間がかかるでしょうが、さすがにひとりでは行かせられません」


「ひとりはちょっと無理かも」


 笑い合う。マスターの顔色が良くなってきた気がする。


「店長は?」


「家庭の事情で休むと言いました。何かつっこまれると思って言葉を用意してたんですけど、そうか、ってそれだけでした」


「信じてないでしょうね。聞かれたら誤魔化しておきます。そのかわり向こうに着いたら時々電話をして下さい。進展が無くても構いません。メールではなく電話です。私が電話に出なければ、奏多さんにかけて無事を知らせてください。どちらかは店にいますから」


「マスター、あたしのパパみたい」


「あなたは私の娘ですよ。焼きそばを用意します。少々お待ちを」



 椅子に深く腰掛け息を吐いた。冷たい水を飲む。


 一年前、自分が飛行機に乗って人を捜しに行くなんて思ってもみなかった。

 もしも無事に成し遂げられたなら、あたしは少し、変われるような気がした。

 出会った人に友達になろうと声をかけ、楽しげな輪に仲間に入れてと飛び込めるようになるかもしれない。殴られたら、走って逃げられるようになるかもしれない。その先に代表がいればいいと思った。


 あたしの目の前に焼きそばがある。あたしの為に人が作ってくれた焼きそばだ。これが食べれるだけでも、あたしは十分恵まれている。初めてそんな事思った。



 昔誰かが言っていた。風俗は受け皿だと。こぼれ落ちた者達の、湿った皿。

 でもこの皿の上じゃないと感じられないものがある。たとえばベルスの焼きそばの、陽だまりみたいなソースの香りとか。


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