第31話
来月仕事を休みたいと伝えたときは緊張した。父親が死にそうで、しばらく実家に帰りたいと言った。あたしには父親の記憶がないから罪悪感は無かった。
店長はパソコンから目を放さず、そうか、と言った。話は終わりだった。着替えを済ませ、仕事道具を受け取ると待機室に向かった。
上手くやれただろうか、怪しまれなかっただろうか。押し寄せる不安を押し退ける様に力をいれてドアを開くと、香水を貸した女の子が見えた。パーテーションの間を縫うようにして隣にそっと座った。女の子は目を閉じて人形のように眠っている。
話しかけようにも話題が無い。それに眠りを邪魔したら可哀想だ。
あたしはバッグから静かにメモ帳とペンを取り出した。
着替え、日焼け止め、携帯の充電器。ペンが止まる。沖縄の荷物がなかなか思い付かない。あたしはこれまで旅と名の付く物に縁が無かった。学校はほとんど行かなかったから、遠足だって経験が無い。
向こうで会えたら、代表はあたしを見て何と言うだろうか。わざわざ何も言わずに消えたくらいだから、大歓迎とはいかないだろう。それでも最後は怖い顔で飯食ったか、と聞いてくれそうな気がした。
洋平君は最初怖がるかもしれない。あたしが間に入って取り持ってあげなくちゃ。人と人が自分を通して繫がったら、それはとても素敵な事だと思えた。
ため息が出て、ペンを置いた。音を立てたつもりはなかったけど、隣で寝てた女の子が猫のようにぐーっと伸びをして目を開けた。
「あれ? おはよう。来てたんだね」
「おはよ」
「寝不足でさあ。あたしバンドでボーカルやってるんだ。今日はライブがあって、そのまま来たんだ」
言われてみればアイメイクの主張が強い。
「大げさなもんじゃないけどね。もうすぐハロウィンでしょ? 当日は平日だから、今日イベントがあったの」
「すごいね」
「すごくないよ。彼氏はあきれて出てっちゃうし、親はいい加減ちゃんと就職しろってそればっかだし。すっぱり諦めればいいんだけどさ、無駄に長く続けちゃったもんだから、やめ時が分からないって言うか」
「やめ時?」
「次のライブで成功するかも、次のライブでお声かかるかもって、そればっか」
その気持ちは分からなくなかった。
「早くこんな生活抜け出したいよ。あなたは昼間は何かしてるの?」
「ううん、ここだけ」
「そっか。でもその方がメンタルは整うかもね。昼夜逆転より、なんせ寝不足がまずいよ。テレビ見てても笑えないもん。こいつらなんで幸せそうなんだって思って、むかつく」
「ふふ」
「笑い事じゃないよ。そうだ、これあげる。ちょっと早いけど、年末ライブのチケット。線路沿いのスタジオ知ってる? 小田急の方。そこだから、起きれたら見にきてよ。あたしのバンドはアヴァロン。絶妙にダサいでしょ。みんな高校の同級生なんだ」
紙のチケットを二枚受け取る。
「こういうの行ったことない」
「別に怖くないから心配しないで。ぶっちゃけほとんど顔見知りの集まりだし。あたしアユミ。ここじゃユミだけど。アユって呼んで。紛らわしくてごめん」
「しおり」
「しおりね。はいはい。また後で話そう。ごめんけど、もうちょっと寝させて」
そう言ってアユミは狭いスペースに縮こまって器用に眠った。
アユ。バンドのボーカル。インプットするように頭の中で繰り返す。
もらったチケットが汚れないように、二つ折りにしてメモ帳に挟んだ。
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