第29話
客がありがとうと立ち上がり、シャツの襟で汗を拭いた時だった。
下腹部辺りにチラと絵が見えた。
胸が鳴る。
鳥肌が立った。
あたしはこの絵を知っている。
前に、どこかで……。
「ねえそれ、」
震える声で指を差す。
「ああ、刺青。怖かった? ごめんね」
客はそそくさと服を直す。
「違うの。見覚えのある絵で驚いたの。ねえ、それもっとよく見せてくれない」
全然いいよと、客は裾を捲り上げた。
猫にも犬にも見える動物が大きな牙を剥き出し怖い顔であたしを睨んでいた。今にも飛びかかってきそうだ。
「シーサーだよ。沖縄の守り神。家の屋根とかにペアで置いてあるの見た事ない?」
知っている。でも、こんな顔だったっけ。色んなタイプが存在する事も知っている。でも、シーサーはデフォルメされていようが無かろうが一目でそれとわかるデザインだ。これは言われなければ分からない。黙り込んで考えると客は見透かしたように続けた。
「変わってるでしょ。沖縄にあるタトゥースタジオのオリジナルのデザインなんだよ。いかつくない? 旅行中にたまたま見つけて一目惚れでさ。次の日には帰らなきゃいけなかったから、オーナーさんに頼みの込んで一日で仕上げてもらったんだ。土下座ってしてみるもんだよ。あはは」
沖縄……。
「修学旅行どこだった? 俺高校生の時初めて行ったんだけどさ、修学旅行って団体行動じゃん? 興味あった物全然見れなくてさ。それでバイトしまくって大学の春休みに一人旅したんだ。良かったよ。レンタカーして色々回ったんだ」
「レンタカー!」
思わず大声が出た。客がびっくりする。
車だ。IKEAだ。あたしは代表のジープの中で、同じ絵のステッカーを見た。小さかったから気付かなかった。あれはライオンじゃない。このシーサーだ。
痛む胸を押さえ客を見る。
「びっくりさせてごめん。実は人を捜してるの。同じ絵のステッカーを持ってたの。沖縄にいるのかもしれない」
客は完全に引いていた。構わず続けた。
「そのスタジオを教えて。手がかりが見付かるかもしれない」
「すごい変な所にあるんだ。沖縄って海のイメージしかないでしょ? 実は山もあるんだよ。そっちのほう」
「どうやって行ったの?」
「適当にドライブしてたらたまたま見付けたんだ。車が無いと行けないし、観光客なんて滅多に来ないって驚かれたよ。地元民と口コミで成り立ってるって言ってた。ホームページも出してないんだよ」
「案内して。お願い」
荷物をまとめようとする客の腕を掴んだ。
「いやいや急すぎるだろ。無理だよ。バイトあるし、金はないし。ってか俺達初対面だよね?」
「お金はある。たくさんある。一円も出さなくていい。それからバイトは、バイトは休んで。そのかわりあたしがあなたを雇う。いくら欲しい?」
「待って待って落ち着きなよ。怖いよ。俺帰るわ」
口から飛び出そうとする懇願をぐっと堪える。バレないようにひとつ深呼吸した。
「あなたを脅すわ」
客が目を見開く。
「断るなら、あなたを脅す。暴行されたって騒いで、ここに男を呼ぶ。うちの店長は全身刺青のスキンヘッドだし内勤はシャブ中だよ。この防犯ブザーを鳴らせば、両方すぐに飛んでくる。お願い。行くって言って。ねえ考えてみて、あなたにとっても悪くない話でしょ? タダで沖縄に行ける。案内さえしてくれたら後は自由に観光してていい。おまけに言い値のバイト代も出る。どう、引き受けてくれる?」
最後はすがるような言い方になってしまった。客はガシガシと頭をかいた。くぐもった声が聞こえる。客はしばらく腕を組んで考えると、分かったよ、そう呟いた。声が小さすぎて聞き逃すかと思った。
「ありがとう。それでいつ出発出来る? 早い方がいいんだけど」
声が上ずった。客の気が変わらないうちに約束を取りつけたい。
今月は残すところ後一週間だ。フリーターである客は残りのシフトは出勤し、来月頭から休ませてもらう相談をしてくると言う。基本フル出勤で休みたい時は別途相談らしく、多分大丈夫と言った。それで構わない。
話がまとまったと思い立ち上がったとき、客が条件があると言い出した。
学生証を見せろと言う。そりゃそうだ。初対面の風俗嬢にはるばる沖縄まで連れ回されようとしているのだから。でも残念ながらあたしは本当に大学生じゃない。先にまとまったお金を渡すことで話をつけようとしたら、せめて本名を教えろと言う。そんなんで気が済むなら全然構わない。
安藤しおり。
本の栞。
一般的な安藤。
自己紹介すると俺はヤノヨウヘイと名乗った。矢野洋平と書くらしい。あなたは別に本名を名乗らなくてもいいのにと思いながら連絡先を交換した。
タイマーが鳴った。
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