第22話
黒田はやはり店長の名前だった。
地獄があたしの上ではあはあ言ってるとき、着信音が響いた。名前が未登録で番号だけ表示されたせいか、ヒッピーは携帯を開くと電話を切り靴脱ぎの方へ投げてしまった。当然事務所からの仕事の連絡だった。
電話に出ないならまだしも早々に切られるという異常事態に店長は事務所からすっ飛んできた。男が走れば二分とかからない距離だ。
店長は部屋に入るやいなやヒッピーを引き剥がし殴った。ヒッピーは黒田、と言い残してぐったりした。もうこいつ死んだんじゃないの、というような殴り方だった。別にそれは構わないけど店長が捕まるのは嫌だった。服を着て止めに入る。
「もう平気、ありがと」
店長はパソコンをしてる時と同じ目をしていた。
「殺すか」
「平気。てかこれ、あの指名客」
店長は流石に驚いてヒッピーの顔を見た。
ヒッピーはもうぐちゃぐちゃだ。前髪を掴み上げた。
「お前、阿久津捜してんだってな」
「ひいっ」
「誰に頼まれたか教えてくれよ」
「大塚だっ。美人局されたんだ、写真を撮られて脅された、それだけだ、何も知らない!」
店長は携帯を取り出し警察に電話した。
慣れた様子で通報するとヒッピーは口を半開きにしてガクガク震えた。
「勘違いすんな。お前の為だ。一番安全な場所だからな。大塚は怖いぞ。裏切り者は例外なく殺すらしいからな。身を隠すついでに反省しろ」
吐き捨てるとついでのようにもう一発蹴り上げた。
ヒッピーは到着した警察に連れて行かれた。前科もあり、執行猶予は付かなかった。
大塚の正体は依然不明だ。店長は知らねえどうせ偽名だろと言って気にも止めてなかった。そりゃそうか。
この事件をきっかけにあたしは部屋に鍵を掛ける習慣を身に付ける。
最初は事務所で暮らせと言われた。他の女の子の目があるからと断ると、店長と内勤が交代でうちで仕事すると言い出した。無理があるだろう。ついには現在空き家になってる代表の家に引っ越せと言われた。店長が合鍵を預かっているそうだ。一番いやだ。
すったもんだの末、鍵をちゃんと掛ける、ドアは相手を確認するまで開けないの二点で話が付いた。話し合いの最中あまりの内容のくだらなさに店長は山ほどピースを灰にした。
具体的な対策もあった。まずアパートでの待機は禁止になってしまった。今後は事務所の上の待機室を使うことになる。残念だ。
そしてもうひとつ、内勤が隣の部屋に越してきた。人が入ってたはずだと言うと、なんたって阿久津アパートだからねんと意味の分からない説明をされた。片道徒歩三分の通勤を面倒くさがって事務所で過ごす事が多かったらしいが、これからはなるべく帰るからねと言ってくれた。申し訳ないけど、それ以上に心強かった。
引っ越し初日はさっそく内勤の部屋にお邪魔してコンビニ弁当を食べた。自室と同じ間取りで変な感じがした。
あたしはあれから思っていた事を口にする。
「ねえ、名前教えてよ」
「知らなかったの? 一年以上一緒に働いてるのに? 傷付くなあ。糸井だよ。糸井竜二。リュウちゃんでいいけど」
「可愛い」
「俺昔からリュウちゃんだよ。店長なんかはリュウって呼ぶけど、大体お前呼びだな。他の女の子と話してるとこなんて居合わせる事ないだろうし、考えてみると名前知るタイミング無かったかもね」
「店長と代表は?」
「店長は黒田学。学校のまなぶ。今度マナちゃんて呼んでみな、喜ぶから。あはは。代表は知らない。興味ない。阿久津さん。てかなんで急に名前?」
「知らない人の口から知り合いの名前出されるのってなんかザワザワしない?」
「分かる」
それっきり黙ってお弁当を食べた。
内勤の部屋には灰皿が無いのでコーラの缶で代用した。何度かリュウちゃんと呼べそうなタイミングがあったけど、気恥ずかしくて呼べなかった。でも一年も名前を知らずに仲良くやっていけてたんだから、呼び方なんて大した問題じゃないはずだ。多分。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます