第9話


 奇跡的に朝十時に目が覚めた。身体が痛くて、少し寒かった。


 フィルターの紙の味で空腹を誤魔化しながら、買い物の計画を立てた。


 ええと、なにが必要なんだっけ。


 不意に視界の端が、前の入居者の持ち物で時が止まっているカレンダーを捉えた。


 手が勝手に動く。壁から引き剥がすと、ピンが飛び靴脱ぎに落ちた。あたしはそれを、ただ見ていた。つまりまだ眠かった。目が霞んだので瞬きをしたつもりだった。



 ――お前鍵閉めろよ。


 遠くで声がして目が覚めた。

 鰐、もとい代表だった。


 今何時か聞くともう昼過ぎだと言われた。携帯を見ると十三時だった。しまった。二度寝で寝過ぎた。支度するために起き上がるとなぜかさっきより身体が重かった。



「なんもねえな」


 代表はラークに火を付け部屋を見渡す。

 これから買い物に行くのだと言うと、車出してやると言われ、思わず代表の顔を見てしまった。


「すっぴんだとガキみてえだな」


 慌てて顔を逸らした。


 ワンピースに着替え髪はうしろでざっくり結んだ。リップだけ塗り、大きなサングラスをかけると空っぽのボストンバッグと茶封筒を持った。


「お前財布とか持たねえの」


 さっきからうるせえなと言い返してやろうかと思ったけど、車出してくれるしと思って我慢してなくしちゃうんですと答えた。


 外には既に車が駐まっていた。

 クラウンでもなくフルスモークでもなく、ジープのチェロキーだ。


 代表はあごをしゃくると先に乗り込んだので急いで助手席にまわり勢いをつけて飛び乗った。


 あたしはこういう車に乗るのは初めてで、エンジンが掛かるとわくわくした。苦しそうな音だと言ったら、こんなもんだと言われた。


 ジープは大きな動物のように動き出した。

 音響回りをいじってみたけど、音楽はかからない。古い車だからカセットテープしかかけられないそうだ。何でもいいから聴いてみたいと言うと、自分で探して買ってこいと言われた。運転中は無音主義なのか。


 そのくせダッシュボードには小さなライオンのステッカーを貼っている。代表のセンスが全く分からない。


 見れば見る程おもしろい車だ。ハザードのスイッチはハンドルの奥にあるし、ウインカーとワイパーのバーは左右逆に付いているらしい。他の車も運転するだろうと思い、それ混乱しないの、と聞いた。しなくはないと言って薄く笑った。


 サイドミラーが自動で動かないから、狭い道ですれ違う時お前そっち引っ込めろと言われ、窓開け手を伸ばし、ミラーを畳んだ。

 戻すときに鏡面の角度を指で押して変えてしまい、早く直せと文句を言われた。


 だってこんなとこ動くなんて知らなかったと大笑いした。


「もっと上、もっと下、行き過ぎだ。お前使えねえな」


 何度も何度も調整した。全然だめで、あたしはもう、笑いが止まらない。


 窓を閉め髪を整え、どこへ向かっているのか尋ねると横浜だと言われた。駅前の何とかって百貨店に知り合いがいて、顔が利くのだと言い出した。一体何を買わせるつもりなんだろう。

 横浜方面ならIKEAに行きたいと言った。港北の青い倉庫だと言うと伝わった。



「行ってこい」


 到着しサイドレバーを引くと黒色の鉄プレートを投げられた。クレジットカードらしい。使う気はないけど早く行きたかったのでとりあえず受け取った。


 必要な物だけ買うつもりだった。部屋に愛着が湧くと出る時切なくなるし、大抵ほとんど持ち出せない。家に帰れなくなる日は、結構唐突にやってきたりする。


 車で笑ったせいか、あたしは少しハイになっていたんだと思う。料理なんてしないのにフライパンを買ってみたり、マグカップなんて四個セットを買ってしまった。久しぶりに雑貨も買った。昔から小さくて可愛い小物が大好きだったけど最近は見付けても置くとこないし、と諦めてばかりいた。


 買い物をしている実感があって楽しかった。そんな事してたからボストンバッグで済むはずが、どう見ても入りきらない量になってしまったのでレジで大きなショップバッグも買った。

 割れ物はボストンバッグに入れて、他はショップバッグに入れたけど、それでもいくつか入りきらなかった。残りは直接積んでもらう事にして、カートごと車に戻ると代表はシートを倒して眠っていた。


 悪路もがんがん走りそうなこの車は、がたいの良い代表に似合っているかもしれない。起こすと悪い気がして立ちすくんでいると、後ろから来た車に軽くクラクションを鳴らされてしまった。


 慌てて端に寄ると、代表が目を開けた。トランクを開けてもらうとバックシートが倒されていて広いスペースになっていた。


「何でも出来るぜ」


 あたしの耳にそっと顔を寄せ、ぱっと離れた。一人で笑っていた。


 代表がカートを見やったので、買いすぎたと言うと、全然だと返された。

 積み込みを終えシートに深く座り、心地良い疲労感を味わっていると、飯はと聞かれた。そういえば最後に食事したのはいつだっけ。何か食べたかったけど、あたしは人前で食事をするのがあまり得意じゃない。いらないと言うと、ゆったりとした動作で発車した。



 アパートに着くと運び入れは内勤が手伝ってくれた。事務所の窓から見えたそうだ。

 帰らないのかなと思ったけど、事務所には店長もいる気がして聞かなかった。


 代表は往復するあたしたちを観察しながら車にもたれのんびりとラークを吸っていた。荷台が空になるとすぐに帰ってしまった。


 内勤は腕まくりしていた。お礼を言うと全然、と言ってぐっとのびをした。


「そんな事より腹減らない?」


 気軽なタイプの人とは食事しやすいので正直におなかすいたと答えた。内勤はなか卯いこうぜ、と嬉しそうに歩き出した。


 途中、駅前の広場にある喫煙所に寄った。内勤はマルボロを咥えると、大戸屋でもいいなあと呟いた。給料余ったし、お礼にご馳走すると言うと、代表に奢ってやってと返された。


 それで思い出した事がある。起きたら代表が部屋にいて驚いたのだと言った。内勤は困ったように笑うと、あのアパートの大家、代表なんだよと教えてくれた。

 アンクだけじゃなく、色んな店の色んな人を住まわせているらしい。内勤もひとつ部屋を借りているそうだ。


 系列店含め代表が関わる店は沢山あるが、アンク以外の事はよく知らないと言われた。

 そんなわけであのアパートは怖い人達も出入りしてるから共用部分でもたもたしちゃだめだよおと、小さくおどけていた。


 闇の深いアパートだ。

 だけどちっとも、怖くなかった。


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