第5話


 外注の印象は黒いワニだった。それも巨大な鰐。人を食う。


 背が高いというより、身体がでかいと言った方がしっくりくるような男だ。

 それに艶のあるスーツがけばげばしいピンク色の照明の中で濡れたうろこのように硬く光って見えたのだ。


 鰐は今、あたしの上で、本当に濡れて光っている。



 指定された部屋をノックしたとき、なぜか内側から開けてくれなかった。

 おそるおそるドアを開けると、男が真正面のベッドに深々と腰掛け、こちらをじっと睨んでいた。


 半開きのドア越しに数秒間見つめ合った。

 沈黙に耐えきれず、あの、とかその、とか言いかけたと思う。うわ立ったと思ったらあっという間に引きずり込まれ、鍵をかけられた。



 壁に向かって立たされ後ろから髪を持ちあげられた。首のうぶ毛を撫でられるとくすぐったくて体温が上がった。


 脈に親指を当てられ、 うなじごとぎゅっと掴まれた。その瞬間、もっと敏感なところを掴まれた錯覚におちいり、陥落した。


 持たれた髪を引っ張られあごが上がった。

 息がしずらくて、うっすら目を開けると男はのぞき込むようにしてあたしの顔を見ていた。



 膝に乗せられ揺すられると整髪料が強く香った。汗と混ざるともっと素敵に香ったから一晩中こうしていたいと思った。


 隣の個室からは煙草の匂いが流れてくる。

 煙と照明のピンクが目に染みて、思わず男にしがみついた。男がそれ答えると、あたしはすっかり気が遠くなってしまった。男もそうだといいと思いながら意識を手放した。




 しばらく臨死を味わっていると軽く頬をはたかれ目が覚めた。


 男は既に着替えていた。あたしはというとまだ裸で、腹にはティッシュが投げられていた。


 スーツには皺ひとつ付いていない。鰐に戻った男は少し離れて煙草に火を付け、着替え終わったあたしにラークを箱ごと投げてよこした。


 興味無い様子でなぜ来たのかと聞かれ、研修の外注だと答えた。低く笑われた。そりゃすまなかったな、と。


 ジャケットの内ポケットから封筒を出し、店長に渡せと差し出した。受け取ると次にヒップポケットからマネークリップを取り出した。全て抜くとあたしの胸元に突っ込んだ。


 こういうのはまずい。あたしはアンクに長く勤めたい。馴らしの意味を持つ体験入店もすっ飛ばして、研修で禁止行為なんて聞いた事がない。初日からそんな伝説残したくない。

 オナクラで店を通さず金を受け取る事は御法度だ。


 襟ぐりから札を出し更に仰天した。束と言っても差し支えない量だった。慌てて突き返すと笑って大丈夫だと言った。


 こういう大人の大丈夫は、多分本当に大丈夫だ。でもどうしても受け取れなかった。

 だってあたしはあの店長に隠し事なんて出来ない。アパートも追い出されるだろう。内勤の顔だって見れなくなるかもしれないのだ。


 個人的な金は受け取れないと訴えた。見るのも嫌だからしまってくれとまで言った。

 一方的に返す返すと繰り返していると、もううんざりだと言わんばかりに脈絡無く風俗は経験あるんだろうと質問で遮られた。


 憮然として、でもオナクラは初めてだと答えると、それなら大丈夫だと更に被された。低く流れるような声が呪文のように脳に響く。


 個室に入ったらドアの近くで客の偽名とコースとオプションを確認しろ。まだ鍵は閉めるな。金を受け取る前に必ず事務所に電話するんだ。変更や追加があれば事務所が計算し直し金額を伝える。無けりゃそのままだ。言われた額を受け取り、釣銭を渡す。客が釣銭をしまうまで預かり金はしまうな。俺の言ってる意味が分かるな。お前は客の後に金をしまう。ドアの鍵をかける。タイマーをセットする。スタートは客に押させる。簡単だ。


 分かりやすかった。この人どこで息してるんだろうと意識が霧散しかけたけど、簡潔だったから頭に入った。


 プレイの終了報告のタイミングや緊急事態の対処法についても詳しい話を聞きながら、もう一本ずつラークを吸った。

 話が終わると立ち上がり、あたしを見下ろして口元だけで笑った。


 大きな男が立つと、レンタルルームの狭さが際立った。それだけでもう部屋の半分が埋まってしまったように感じた。


 このピンクの小さな箱が、今日からあたしの職場なんだ。好きになれそうと感じて嬉しくなったので、にっと笑い返してあげた。


 男がポケットに煙草を入れると別れの気配を感じたので説明のお礼を言った。

 最後にもう一度、お金は受け取れないと言ってみた。オタクの店長に殺されると言い返され、もうだめだと思い出て行く姿を黙って見送った。


 足音が遠ざかるとキャスターに火を付けた。

 この後ってどうすればいいのかな、とりあえず事務所に電話、で、思考が停止した。


 なんだろうこの違和感。左手の金を見つめる。これは大金だ。いや違う。違くないけど何か別の問題がある。


 はっとして、嫌な汗をかいた。そもそも最初からおかしいと思ってた。あたしもう、とっくにアウトだ。しかも取り返しのつかない大失敗だ。だってやる事やっちゃってるし、実際金はここにある。


 金額なんて問題外だ。行為そのものに罪がある。


 試されたのだ。大金に注目させ論点をずらされた。的外れな主張を引き出され、煙に巻かれた。あのペテン師。この状況じゃどんな言い訳だって通用するもんか。どこからどう見ても、あたしはただのあばずれだ。


 最悪だ。どうしよう。

 もう、なんで馬鹿なんだろう。


 時計を見ると、二十三時だった。

 迂闊にも研修の分際で店を裏切ってしまい無い信用が地に落ちた。取り戻せるだろうか。

 てゆうかもうクビかなあ。気が重くなった。

 このメンタルのまま客を取らされるのかと思うと、もういっそ死んでしまおうかと思い、そっと目をつぶった。誰の顔も浮かんでこなかった。


 よし死のうと覚悟を決めると、灰が剥き出しの腿に落ちて飛び上がった。

 正気に戻り、涙が出た。立ち尽くした。



 あいつ殺そう。

 本気でそう思った。


 疲れていた。






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