両想い

鈴ノ木 鈴ノ子

りょうおもい


 逢魔が時、それは妖怪や妖が現れるに相応しい時間だ。

 校舎の廊下には夕日の光が差し込んでリノリウムの床を紅色に染め上げている。

 空にはイワシ雲が濃密な密度で満ちていて、それも紅色となって世界がまるでその色に染まってしまったかのような印象を受けるほど。


「あ、先輩、部活終わりましたか?」


「ああ、今終わったよ。これから片付けをして帰る準備をするよ」


「丁度よかった、こちらも終わったところです。片付け済んだので手伝いましょうか?」


「大丈夫、すぐすむから、下駄箱で待っていてくれる?」


「は~い、じゃぁ、先に行ってますね」


「うん」


 後輩の香奈枝が素敵な笑みを浮かべて微笑んでくれる。いや、今は付き合っているから彼女となるのだろう。

 美術部で先ほどまでキャンバスへ絵を描いていた、その使い終わった絵筆類を廊下の手洗い場で濯ぎながら着いた絵の具を落としていく。

 数多くの色を使ったはずなのに、すべては夕焼けの紅色に染められて、ステンレス製のシンクに一本の線となって流れた。


「血が流れてるみたいだね」


 後ろから声ががかる。でも、それに振り向くこともなく、黙々と筆を濯ぎながら返事をする。


「綾香部長、もう、終わったんですか?」


「当の昔に終わってるよ」


 シンクの縁に腰を下ろした綾香部長が紅の光を宿した目で、流れていく線をじっと眺めては、ほぅっと一息を吐いた。


「なんと綺麗な赤だろう、鮮血のように鮮やかでとっても素敵だ」


 綾香部長はそう言って微笑んだ。

 そして縁に置いた手首のあたりから、ポタリ、ポタリと何かが滴っては紅に染まる床へと落ちていくのが見えた。


「綾香部長、また、滴ってますよ?」


「おっと、これはいけない、ごめん、まだ慣れていないんだ」


「困った人ですね」


 絵筆を大急ぎで洗ってしまうと、両手を石鹼で綺麗に洗い流して、ポケットに入っているハンカチで拭いてから綾香部長の元へと駆け寄った。

 黒いセーラー服の袖に包まれた腕と真っ白な手がこちへと伸びてきたので、恭しく手を取り手首の当たりに巻かれている弛んだ包帯に視線を移した。


「ほら、やっぱり弛んでるじゃないですか」


「本当だ、止め直してくれるかい?」


「ええ」


 弛んだ包帯を少しだけ解くとやがて傷口が見えてくる、黒くてグチャグチャした傷口ではない、スッと何かで切り落としたような傷口、そして包帯がすべて取れてしまうとその手首は腕と離れてしまった。


「やっぱり、何度やっても下手だね」


「慣れないんですから、勘弁してください」


 小馬鹿にしたような綾香部長の笑顔が紅の光に染まっていた。ガラス玉の眼の中に宿る紅の光は一層艶やかで夕日を溶かし込んだように綺麗だった。

 思わず見惚れるようにその眼に釘付けとなる。


「私の眼、綺麗だろ、もっとしっかり見てくれよ」


「ええ、とっても綺麗です…」


 その吸い込まれそうなほどに熱烈な色合いに、僕の意識がぐにゃりと溶けるような錯覚を覚えた。それは眩暈のように揺れて、それでいてその中心にある2つの瞳に吸い込まれていくかのような感触だ。


「ほら、こちらもだよ」


 スカーフを離れていない手で取り払った綾香部長がそれを床へと落とす。白色のスカーフが紅色に染まっていて、血液に染まった包帯のように見えてしまうほどの色合いだ。


「君も男だから、こっちも見たいんじゃないかな?」


 フロント布を少し乱暴に取り外した綾香部長は妖艶な笑みで前かがみとなりニタリと笑った。

 弓張月のような口に塗られた口紅は赤薔薇の花弁のように艶やかだ、そして隠すものを失ったセーラー服の胸元が重力によって垂れ下がると、その奥に色白く透き通るような可愛らしい乳房があった。


「どうだい?好きにして構わないよ」


 流し目で誘うようにしてスカートから伸びる片足をゆっくりと縁へと上げていく、血の気のないながら色白の肌に思わず視線を取られてしまうのは、健全な男子なら誰しもがありえることだろう。

 不意に窓ガラスをノックする音が聞こえる、音の方向へ振り向くと所々を紅色に顔を染めた香奈枝がこちらを心配そうに見つめていて、窓の鍵が外れていることを目ざとく見つけると、その窓という外界との仕切りを開け放った。


「先輩、なにしてるんです。早く帰りましょうよ」


「あ…ああ…、そうだね、待たせてごめん」


「もう、怒りますよ?」


 頬を膨らませて可愛らしい仕草をする香奈枝に頬が緩むと綾香部長のため息を吐く音が聞こえた。


「また邪魔が入った。興覚めだ。気を付けて帰って、明日も部活に来いよ」


 綾香部長の姿がドロリと溶けて床へと流れ落ちる。それは粘着質の物質が角度の付いたところから流れ下る様に、未練を体現するかの如く床へと垂れて、そして沁み込むように消えていった。


「先輩、早くしてくださいね」


「う、うん」


 いつも通りに床へと消えていった綾香部長の姿を見送り、手を持ったままのことに気がついた。


「明日も来ますよ。綾香部長」


 悪手でもするかのようにその手を握ると嬉しそうに握り返してきた手も、床へと落ちて溶けて消えていく。


「さて、戸締りをするよ」


「はい、鍵もお願いします」


「はいはい」


 窓を閉めて鍵をかけ、絵筆類を美術室の道具入れに片付けた。美術室の中も紅色に染まっていたが、徐々に陰ってきた夕日の光の裾を闇が噛んでいて、紅の色が色の濃さを増して漆黒へと変化をしているのが目に付く。


「もう、下校時間よ?」


 教卓の上の天井からぶら下がった美術部顧問の由利先生がそう言って微笑んでくれる。


「ええ、そろそろ帰ります。また、明日来ます」


 頷いたのだろう、先生の身体が数回ほど揺れる、そしてその手がイーゼルに乗ったキャンバスを指さした。


「うん、完成間近だものね、作品展に出す準備を進めてね」


「はい、進めておきます、では、さようなら」


「はい、さようなら」


 美術室を出ると外は真っ暗であった。

 月もない夜のようで闇夜がガラスすべてを塗りつぶしている。廊下の先にある火災報知器の真っ赤なランプが唯一の明かりとなって、黒い世界に煌々と輝いていた。明かりをつけることもなく、そのまま洞窟を進むかのように闇夜の中を歩いてゆく。

 闇夜に包まれた校舎は素敵で、数多くの音が聞こえてくる。

 廊下を歩く靴音、聞き取りづらい話声、スピーカーから流れる砂嵐、そして朧げなピアノの旋律、どれもこれもが心地よくて素晴らしいモノばかりだ。

 下駄箱に着くと白い靄のような集団が靴箱を空けたり閉めたりして靴を履き替える真似をしては両側を抜けていく、その流れに逆らうように自分の靴箱にたどり着くと、お気に入り濁り色の赤いスニーカーへと履き替えて校舎の外へと出た。

 とたんに腕をしっかりと掴まれて、続いて柔らかい感触がしっかりと押し付けられる。振り向けば少し膨れっ面をして、胸をしっかりと腕に押し付けている香奈枝がいた。


「お待たせ、ごめんね」


「もう、遅いです。でも、私もメイクを整える時間ができてよかったですけど」


 紅色から雪のように白い肌に薄っすらと化粧が施され、ふっくらとした唇には薄くリップが塗られて思わずドキリとしてしまった。


「さ、帰りましょ、先輩」


「うん、行こうか」


 真っ暗な校舎の間を歩いていきながらふと美術室前の廊下に視線が向く。

 

 綾香部長が無表情でこちらを見て立っていた。

 

 由利先生が無表情でこちらを見て立っていた。

 

 いつも通りの景色、だが、見慣れないもう1人の姿があることに気がついた。


「あれ、1人多いな」


 視線を凝らす。その姿は今日の昼休みに告白してくれた香奈枝と同じ1年生の明子の姿であった。


「明子?」


「先輩、彼女のが居るのにほかの女の名前を呼ぶのはどうかと思いますよ」


 香奈枝の漆黒の両目が私をジッと睨みつけてきた。確かにその通りだとも思う。


「ごめんね、香奈枝、ちょっとね」


「もう、明子にはさっき先輩と話す前に私が彼女だからって伝えましたから、明日からはまったく気にしないで大丈夫です」


「そうなんだ、ごめんね、無理させたね」


「いいえ、痩せてたから楽でしたよ?」


 香奈枝は花のように素敵な笑みを浮かべてそう言った。とても、嬉しそうで私もつい頬が緩んでしまう。


「また、先輩の家に寄ってもいいですか?ご飯作りにいきたんですよね」


「かまわないよ」


 最近、1人暮らしとなってしまった。

 だから調理や洗濯もしなければならないのだけれど、香奈枝は進んでそれを買って出てくれる。手慣れた手つきですべてを片付けていくその辣腕には驚かされたばかりだ。


「私ね、こうやっている時間がとっても幸せなんです」


 香奈枝も少し前から独り身へとしたのだから、そろそろ一緒に暮らしてもいい頃合いなのかもしれない。


「じゃぁ、香奈枝、一緒に暮らさない?」


 頬を染めて小さく頷いた香奈枝がとても可愛らしかった。

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