煉獄

実務で介護福祉士を取得するには、三年以上の勤務実績と実務者研修・喀痰吸引研修を修了すること。

やわらぎの先輩たちの時代は、テスト勉強をして筆記と実技テストで合格すれば取得できた。

枠井課長に唆され、資格を取得する気になったのはいいが、仕事終わりや休日を課題に消費するのは、しんどかった。学生は、すごいなぁと感心したものだ。

私は、夏前くらいから特別シフトを組んでもらって、坂の上の会が運営する専門学校に実務者研修を受けに行った。体育館に複数の机とパイプ椅子が並べられ、そこそこの人数がいた。

正直、憩いの家のメンバーに会いたくなかったから、足取りは重かった。ほとんど、挨拶程度の顔見知りくらいしかいなかったので安堵した。

その中に、桑田朱里くわたあかりの顔があった。目が合うと、私に駆け寄ってきた。

「元気そうで、良かったです」

「結婚、おめでとう」

まずは、謝罪が筋だと思うが、それよりも先に言いたかった。

「ありがとうございます」

「いつから? いつから、付き合ってたの?」

「あなたが異動してきたときには、付き合ってましたよ」

平然と言ってのける。女の怖さを思い知った。

「マジか。まぁ、おめでとう。あと、いろいろと迷惑かけた」

「こっちこそ」

少し、気分がスッキリした。


実務者研修では、実技と喀痰のテストが行われた。

実技テストは、まず試験前に五分間、問題用紙を見る。そこには、誰が、いつ、どこで、どのような状況になっているか。それを記憶して、本番に臨む。隣室で、専門学校の生徒が老人役になり、解答を実技する。最適な介助方法と声掛けを求められる。

喀痰吸引は、法令が変わり、介護福祉士でも軽い吸引ならしていいことになった。そのため、新しく導入されたテストだった。

野上看護師長の前で、人形を相手にテストをするのは、そこそこ緊張した。

一発でほぼ全員合格したが、落ちた者は、合格するまで何度でも受けさせると言われた。



長い実務者研修も終わり、苦しかった課題からも解放された。あとは、筆記試験を受けるだけだった。

私は、ショートステイに異動になった。

シフト表を貰おうと、『かがやき』『ひびき』玄関の扉を滑らせると、ビービービーと警告音が発せられた。あとで知ったのだが、帰宅要求の強い利用者が、出ていくこともあるので、そのために付けているそうだ。

爆弾でも爆発するのかと驚いていると、坊主頭の高身長の男性職員が、無表情に玄関に来た。

「あ、あの、異動になったんで、シ、シフト表を貰おうと」

かなり、威圧的な雰囲気に呑まれていた。

「はいはい」

男性は、奥からシフト表を持ってくると、食堂に戻って行った。

かなり怖かった。

不安しかなかった。


正式に辞令が掲示板に張り出されると、私は『ひびき』ユニットに異動になっていた。同じように、ひびきユニットに異動になった職員が一人いた。

『御鍵小夜』

なんて、読むんだろう。

みかぎ?

三十何年の人生で初めて見た。

珍しい名前は印象に残った。



どこの介護施設でも言われていることだが、ショートステイとデイサービスは、施設にとって一番の稼ぎ頭だ。回転率が上がるほど、儲けになる。

「一時期より、めっきり利用者減ったねぇ。昔は、入所と退所で、一つのユニットに二十人ぐらい、おるときもあったきね」

愚痴を溢すのは、かがやきユニットの坂枝佳奈さかえだかなだった。元リーダーで介護士としてのキャリアも長い。ほぼ同年代だが、貫録を感じさせた。

異動になってから、同じユニットの堀江達也ほりえたつやに一ヵ月間みっちり指導された。あの怖い顔を坊主頭の男性職員だ。

「キミ、仕事早いわ。起床介助も丁寧やし。なにより、布団やカーテンも綺麗に畳まれてるし。見ていて、気持ちいいわ」

かなり褒められた。

異動する前に一リーダーからも、「お前はどこでも活躍できる」と褒められたのは伊達ではない。少し、自信が持てた。

早出は基本的に、他のユニットと変わりはない。以前のユニットは基本三十分くらい早く来て起床介助をしていたが、ショートステイはある程度自立で動けたり、軽介助の利用者が多かったので、定時で起床介助を始めても、余裕で時間に間に合った。

早出最大の難所は、入浴介助だった。ショートステイは、入浴日を、帰る前日を起点に一日おきに入浴するシステムになっていた。例えば、二泊三日なら二日目に入浴する。忙しくなると、両ユニット合わせて十何人入浴介助をしなければいけないときもあった。

とてもじゃないが、間に合わない。空残業するか、日勤が変わって介助するかしかなかった。夏場は、水分を摂らないと、職員が熱中症で死にそうになる。

日勤は、入退所者の荷物チェックで午前中が潰れる。午後からも、部屋割りに従って、ベッドメイキングをしたり、利用者が左右どちらから起きるのかやポータブルを家でも使っているのか、情報提供書を見ながら部屋作りに追われる。

遅出、夜勤は、利用者の人数によって、天国にも地獄にもなる。

私は籤運が悪いので、いつもハードな夜勤ばかりだった。

羨ましかったのは、両ユニット合わせて、利用者二名。

これで、同じ夜勤手当貰ってんのと思うと、納得いかなかった。



「御鍵です。よろしくお願いします。先輩」

「やっぱり、みかぎなんだ」

「日本に、数十人しかない珍しい苗字です。知りませんけど」

「どっちだよ」

御鍵小夜みかぎさよの顔を見たとき、以前、利用者の靴下を届けに行ったときに、人の顔を「藤森」と発言した娘だった。

サザエさんに出てくるワカメちゃんみたいに、短く刈り上げられた髪は、後ろから見ると男にしか見えなかった。前髪は目元を隠すほど長いので、ピン止めでオデコを出していた。利用者の介助ができるのか不安になるくらい、華奢な娘だった。茶色がかった瞳は、星のようだった。容姿はまったく似ていないけど、どことなく池田を思い出した。

彼女は坂枝に、みっちり一ヵ月間指導された。

彼女は利用者にも笑顔で接し、よく笑い声が聞こえていた。

上条秀俊かみじょうひでとし介護主任は、短く刈り上げた白髪交じりの頭髪に、いつもジャージを羽織っていた。

主任は、とにかく女性が好きだ。坂枝や御鍵にべったりで、ショートステイ専用のライングループにも『御鍵さんを見習うように』『坂枝さんを見習うように』と、書き込みをしていた。

休憩室にも、私たち男性陣がいるときは近寄らない。御鍵たちがいるときは、一緒に昼食を摂り、冗談を言って笑っていた。

あきらかな差別だ。贔屓だ。

まぁ、こういう人間はどこにでもいる。

まだ、割り切れていた。

主任は、ショートステイに異動になった私と面談の場を設けたことがある。

「キミが今回、異動になったのは、他でもない。どこにも行き場がなかったからなんだ。人員配置でキミを動かさざる得なくなったんだけど、下川君も、キミをどこのユニットに配置しても、誰かと衝突する。相当、悩んでたから、私が引き受けたんだ」

そんな裏事情を本人に言う必要があるだろうか。

「そうなんですか」

「キミの歪んだ思想を、私が矯正してあげるから。安心しなさい」

この人は頭がおかしい。

私の中で、はっきりとコイツは敵だと認識した。



御鍵と遅出勤務になった。

夜勤への申し送りが終わって、少し雑談ムードになっていた。

「御鍵って、いつ入社したの?」

「去年ですよ」

「ってことは、國分と同期?」

「そうですね。専門学校のときは、いつも遊んでましたね」

「國分は、結局、藤田とどうなったの? 好きだったみたいだけど」

「付き合ってますよ」

「んん? なにその急展開。ちょっと、聞かせろ」

「えぇ、面倒くさ」

仕事終わりに、私は御鍵を喫煙所に無理やり誘って話を聞くことに。

自販機で買ったコーヒーで、乾杯。

満月が出ていることもあって、喫煙所内は相手の顔がわかるくらい明るかった。

「で、で、藤田って、アイドルちゃんと付き合ってただろ」

「その人と別れて、早紀と付き合ったみたいですよ」

「いつから?」

「もう、半年くらいかなぁ」

「アイツ、本当、かわいい娘とばっかり。羨ましい」

「でも、どうなんですかね。ほら、藤田さんって。あんまり、いい噂ないじゃないですか。いつも、女の陰があるっていうか。この間も、早紀からライン来てて。不安みたいですよ」

そう言うと、御鍵はアメリカンスピリットの箱から一本抜いて、ジッポで火を点けた。片足を木製のベンチに上げ、立てた膝に片手を置く。

「まぁ、でも、そういうのが好きなんでしょ。女って。安心できる平凡な男より、いつもドキドキさせてくれる男が」

私はメビウスに火を点けた。

「人によるんじゃないですか」

「御鍵はどうなの?」

「わたしですか。平凡が一番ですよ」

しみじみと言うと、煙たそうに目を細めて煙草を吸う。

「けっこう、モテるだろ?」

「あぁ、女子からモテてましたね」

「あぁ、わかる。かわいいって言うより、カッコいいもんな」

「昔は、髪もここくらいまで伸ばしてて」

腰のあたりで手を引く。

「ピアスもけっこう付けてたし、爪も真っ黒」

「バンギャかよ」

「実際、バンドも組んでましたからね。ベースでしたけど」

ますます、池田に似ていた。

「どんな曲やってたの?」

「ホルモンとか、シムとか、コールドレインとか。コピーばっかり」

「ゴリゴリのハードなヤツやん」

「文化祭でやったときが、ピークでしたね」

「そっか。カッコいいな。そんな見た目で、平凡な男って来るの?」

「いや、だからですよ。いろいろ、男の嫌な部分見てきたから、平凡な男がいいなって。悟りました」

彼女は、嫌な記憶を思い出したのか、苦い顔をして煙草を灰皿に押し付けた。

「いろいろ、あったんだなぁ」

私よりも短い人生の中で、濃い経験を積んだのだろう。私は、灰皿に煙草を捨てると、すぐに二本目に火を点けた。

「先輩は、どうなんですか?」

「俺は、別に」

「彼女とかいないんですか?」

「えっ、彼女って都市伝説じゃなかったっけ?」

彼女も二本目に火を点け、煙を吐き出す。

「……もしかして、付き」

「わー、わー、わー。あっ、ごめん。電波途切れてた」

「まぁ、いいんじゃないですか。いまどき、魔法使いなんて珍しくないですよ」

「はい、セクハラ。今のは、セクハラァ」

「なに言ってんですか。二名介助のとき、私のデリケートゾーン覗いてるくせに」

私は、言い返せなかった。

二名介助のとき、御鍵が屈んだ際に、見る気はなくてもシャツとの三角ゾーンが目に入る。

「はっ? 覗いてんのかい。冗談で言ったのに。マジで覗いてんのかぁい」

「ち、違うって。見る気はなくても、視界に入るっていうか。だいたい、そんな緩いシャツなんか着てる方が悪いんだろ」

御鍵は、胸元を両手で隠していた。

「まぁ、先輩には目の毒でしたね」

「お前、バカにしてんな」

「いえいえ、尊敬してますよ。先輩は、仕事も早いし。人の仕事まで手伝ってくれるし。お慕い申しております。そうですね。帝って書いて、童帝ってカッコいいじゃないですか。ほら、聖帝みたいで」

「完全にバカにしてんな」

「そんなことないですって。あっ、もしかして。あんなに仕事早いのって、魔法でも使ってんですか?」

「お前ね、尊敬の念で、俺の後頭部を殴ってんだよ」

御鍵は、話しやすかった。

女の嫌な部分がなくて、気兼ねしなくてよかった。



かがやきユニットの村田幸子の提案で、新歓が行われた。

御鍵はみんなの注目の的で、楽しそうだった。

私服で、スカートを履いていたので、ドキッとした。失礼だが、改めて、女性なんだなと再認識した。

隅の方で、生活相談員の田川麻衣たがわまいが、つまらなさそうに一人で飲んでいた。元太陽ユニットの職員だが、春月荘に異動になり、いつの間にか相談員になっていた。施設で見かけることはあったが、まともに話す機会はなかった。

「久しぶり」

「どこかで、会いましたっけ?」

私は耳を疑った。

「えっ、パーフェクトヒューマン一緒にやったじゃん。俺が藤森の役で」

「はて、そんなこと、ありましたっけ?」

「打ち上げで一緒に飲みに行ったじゃん」

「…そんなことも、あったような」

ダメだ。完全にリセットされてる。

「まぁ、いいや」

新歓のはずだが、私は蚊帳の外だった。

誰も私に興味がない。

辛く、長い、飲み会だった。


帰り道に、みんな二次会だと騒いでいたが、私は適当に理由をつけて断った。

ただでさえ、つまらないのに。これをもう一回味わうのは勘弁してほしかった。

「先輩っ」

後ろから御鍵が走ってきた。

「あれ、お前、行かないの?」

「もう、疲れちゃって。先輩ばかりだから、気遣うじゃないですか」

「俺にも、気を遣え」

「いいんですよ。先輩には」

「どういう理屈だよ」

「先輩は、どうやって帰るんですか?」

「歩いて帰る」

ここから自宅まで、徒歩二時間くらいの距離だった。酔い覚ましもあって、夜風に当たりたい気分だった。

「送っていきますよ」

「お前は二次会行けって。みんな、お前がいないと、寂しがるぞ。中島なんて、鼻の下床についてたぞ」

「はいはい、僻まないの」

私は、彼女の厚意に甘えて、軽自動車に乗ることになった。

「ちょっと、窓透かして。風を浴びたい」

「はいはい」

助手席で、シートベルトを付けると、窓ガラスに頭を付けた。

彼女は車を発進させた。

「車だから、飲んでなかったの?」

「そういうわけじゃないですけど。先輩たちの前で、失態を晒すのは良くないと思って」

「いつも、どんな飲み方してんだよ」

「普通ですよ。そこまで強くないんで」

車は西へ走っていた。

「お前はいいよなぁ。みんなから、注目されてたじゃん。期待の新人ってヤツ」

「また、始まった」

そう言われるくらい、私は彼女に日頃から愚痴っていた。

「だって、そうだろ。誰も俺に話しかけてこない。そんなに興味ないかね。新歓なのに、俺は空気かよ」

「まぁ、ベテランだから。前からいるような感覚だったんじゃないですか」

「違うよ。ブサイクなおじさんは、誰からも興味持たれないってだけだよ。だいたい、主任さ、あの人は、何? お前とヤリたいの? いつもデレデレしちゃってさ」

「それは、知りませんよ」

「いっつも、坂枝さんとお前ばっかり褒めるよな。見習うようにって。はっきり言って、俺らも同じことやってるのに。何を見習えって言うの」

「先輩は、褒められたいんですか?」

「…そうだよ。褒められたいよ。認められたいよ。どんだけがんばっても、空回りして裏目にばっかり出るけど。おじさんでも、褒められたい。本当は、年齢だけなら、人を褒める側なんだけど」

承認欲求はいつでも満たされていない。

「先輩は、介護って仕事を、利用者と職員。どっち側に立って、やってるんですか?」

「そんなの。職員側に決まってんじゃん。利用者目線でやってたら、いつまで経っても終わらない。職員に怒られ、愚痴られ、裏で悪口言われ、そんな状況で仕事したくないよ」

「そこは、バランスじゃないですか」

「お前みたいにセンスで仕事してないからな。こっちは、勉強して地道にコツコツやるしかないんだよ」

御鍵は、勉強や経験で得た知識はもちろんだが、元々の素養があった。

「あたしだって、勉強して努力しましたよ」

「努力したって、差は埋まらない。凡人は、凡人のままだ。お前には及ばない」

「先輩は、仕事も早いじゃないですか」

「そこだけじゃん。介護で仕事が早いって何? 一番大事な利用者って部分には、何もないじゃん。ただ、作業的にこなしてるだけ。利用者に文句言われても、罵声浴びせられても、口塞いで聞かなかったことにするだけ。そんなの、介護じゃねぇよ」

「どうしたいんですか?」

「わかんねぇよ。もう、利用者と話したくもない。利用者に殺意感じたことあるか?」

「あるわけないでしょ」

「俺はあるよ。こいつ、マジでブッ殺してやろうかって、何度も思ったよ。前のユニットにいたとき、新しい利用者が入ってきて。初日、椅子からズリ落ちそうになるわ。靴をテーブルに置くわ。何度も注意しても、聞きゃしない。何度も椅子から腰をズラして落ちそうになるんだ。それを何度も何度も直して。そんで、腕に噛みつかれるし。他の作業なんて、何もできない。隣の職員に助けを求めることもできない。そんなこと言ったら、はぁ、こっちも忙しいんだけどで終わりだよ。あとから来る夜勤の職員も、時間内に終わってなかったら、イラつくタイプの人間だから。こっちは発狂しそうだった。利用者、転倒したら終わりだし。

マジで、コイツ、殺してやろうかって思ったよ。絶対、わざとやってるだろ」

「あたしは、見てもないから、何も言えませんけど。先輩は、介護をやっちゃいけない人だと思います」

「そんなの、俺もわかってる。自己矛盾が苦しいんだって。利用者は、弱い。力なら、負けるわけがない。だけど、これが相手が一般人ならどうだ? 肉体的にも頭脳的にも勝てない相手だったら。相手が弱いからこそ、自分でも止められない。俺、いつか、本当にやるんじゃないかって。怖くなるときがある」

「利用者は弱くないですよ」

「弱いよ」

「もう、やめましょう。こんな話」

それから、お互いに話さなかった。

「そこの公園で、止めて」

地元に差し掛かると、自宅近くの海辺の公園で止まってもらった。

あぁ、ここに来るのは、園田主任と話したとき以来だ。

私は、外に出ると、煙草を一本吸おうとした。風が強くて、ライターに火が点かなかった。そこに、スッとジッポが差し出された。

「ありがと」

彼女も煙草に火を点けた。

自販機で、彼女の分もコーヒーを買う。

二人、並んでベンチに座る。

「さっきは、悪かった。悪酔いしてた」

「先輩は、どうして介護を始めたんですか?」

「どうしてって。昔、バイト先の先輩に言われたんだ。キミは優しいから、介護士に向いてるって」

その見込みは間違っていた。自分でも、こんな人間だとは思わなかった。

「俺さ、元々、映画監督になりたかったんだ。結局、なんにもならずに、夢のために動くこともなかった。いつも口ばっかり。そんで、今度は、作家になりたいって思って。どうしても、何か話を作りたいんだろうな。前に、ゾンビを介護するって話を思いついて、実際に書いてたんだけど。結局、筆を折った。俺にとって、夢なんて、ただの現実逃避の言い訳なんだよ。結局、何者にもなれないまま。誰にも知られず。興味も持たれない。俺の休みの日なんて、なんもしてない。ただ、ぼぅっとするか、ユーチューブを垂れ流すくらいでさ。何にもやる気が起きない。ネットで調べたら、週末鬱ってヤツらしい。もう、三年くらい、この症状が出てる」

「気分転換できたら、いいですね。溜まっていくだけでしょ」

「趣味がない。今は。昔は映画見たり、本読んだりしてたけど。それが、全部、面白くなくなった」

「ヒトカラとか、どうですか? 大声出すと、スッキリしますよ」

「歌、下手だからなぁ」

「そういう問題じゃなくて。下手でもいいじゃないですか」

「お前は、なんでそんなに優しいんだよ。俺のこと、好きなの?」

「先輩、正気ですか?」

「正気を疑われるほどのことを言いましたかね?」

「はい。だいぶ、お疲れのようですね」

「スカリーじゃないんだから」

「…あたしは、先輩のこと、認めてますよ。偉そうですけど。だって、先輩くらいですよ。利用者の爪切りしたり、リハビリをしたり。みんな、サボってますけど。それに、リスク管理がすごいです」

「なんたって、事故報告書の提出率、全施設内で俺がトップですからね。そりゃ、リスクに敏感になりますよ。爪切りに失敗して利用者を出血させたことがあって。上条に呼びだされて、今まで坂の上の会に入ってから、俺の爪切りの事故報告書を全部机の上に並べられて。ネチネチ言われたことあったし。なんでか、俺の夜勤中に、誰か転倒するし。俺、呪われてんのかな。まぁ、それだけ、技術もないってこと」

「でも、誰かがやらないといけないし。あたしも見習ってんですからね。あぁ、こういうのは危ないなとか」

「ありがと。少し、元気出た」

その日、初めて笑みが出た。

年下に愚痴って、慰めてもらって、情けないとは思う。

「関係ないんですけど、先輩って、頭と腕に傷あります?」

御鍵は私の頭を見ていた。

「ハゲっていいたいのか?」

「そうじゃなくて。なんか、線みたいになってるから」

確かに、頭部に十文字型の傷があった。そこは一生、髪が生えない。

「頭は、なんか生まれたときに、頭の形が変形してたらしい。母親の息む力が強いか弱いか忘れたけど。それで、おむすびみたいに三角で。その頃の写真あるけど。このままじゃ、成長しても骨が邪魔して、三歳児並みの知能で生きることになるって医者に言われたらしくて。骨格を矯正するために、開頭手術をしたんだとさ。今思うと、寒気がするけど。左腕の傷は、高校の時に映画サークルの撮影中に、誤って窓ガラスに突っ込んじゃって。パックリやっちゃってさ。中身、丸見えだった」

「うぅ、言わないでくださいよ」

彼女はブルっと身体を震わせた。

「お前、俺のこと、よく見てるな。やっぱり、好きなのか?」

「先輩、イカれちまったんですか?」

ここでいいと言ったが、御鍵は自宅まで送ると譲らなかった。

「そこ、右」

「また、右」

軽自動車はどんどん細い道に入っていく。

「ここって、人住んでるんですか?」

「住んでますけど」

「狸とか出そうですけど」

「猪も犬も猫も出ますけど」

山に囲まれた細い道を進むこと五分。

公営団地に到着した。

「わざわざ、ありがと」

「そうやって、いちいちお礼を言うのも、先輩のいいトコですよ」

「家、上がっていく」

「結構です」

「喰い気味に断るな」



御鍵のアドバイスに従ってみることにした。

休日に重い腰をあげ、全国展開をしている有名なBというカラオケ店に行ってみた。

フロントに、きれいな女性が立っていた。名札には『岩倉』とあった。細かく説明してくれて、感じが良かった。

ドリンクバーを付けて、アイスコーヒー片手にマキシマムザホルモン、キングヌー、シムを大声で絶叫していた。

帰り際、フロントに行くと、襟足の長いオールバックにぽっちゃりとした大柄な男性が立っていた。

「あざっしたぁ」

名札には『小松田』とあった。

態度の悪さに、「おめぇの顔と名前は覚えたからな」と心の中で、毒づいた。

その隣でノートパソコンを弄っていた男性従業員が顔をあげた。

切れ長の目にかかるような前髪に、涼しげな表情を浮かべていた。佐藤健を少しぽちゃっとさせたような印象を受けた。

「ありがとうございました」

丁寧なお辞儀で、気分が良かった。

結局、気持ちは晴れなかった。

なんだか、モヤモヤは残ったままだ。



年が明け、ユニットの食堂でニュースが流れた。

巨大な客船が停泊している映像。専門家が「怖い」と表現した。

日本政府は、客が降りるのを許可した。

そして、コロナウィルスが大流行した。


他の業種が大打撃を受ける中、ショートステイは通常運転だった。

上条主任は、利用者の数が減って、「売り上げがぁ」と嘆いていた。それでも、多いときは満床だった。

それから少しして、私は介護福祉士を取得した。


ショートステイに異動になって、改めて思いを強くしたことがある。

人間の変化についてだ。

利用者は、どうしてこんな所に連れてこられたのか理解できていない。理解していたとしても、忘れる。

夕方になれば、帰ろうとする。職員が気を逸らしたり、嘘の言い訳で帰れないことを遠回しに伝える。それでも、帰ろうとする。これを帰宅要求という。

そして、帰れないと知ると、泣き崩れるかキレるか。

どう足掻いても帰れないと自分の中で呑み込むと、身の上話が始まる。戦時中を生き抜かれたご利用者様は、満州の話もされた。まるで、大河ドラマだ。

ショートステイの利用者は、期限が来たら帰れるから、まだいい。

完全に入所した利用者は、数ヵ月、半年、一年と時間が経つにつれて、無気力になっていく。どうやっても帰れない。自分のしたいこともできない。家族にも会えない。友人にも会えない。そんな現実を受け入れてから、ADLが落ちるのは早い。

現実を受け入れて、どんな状況でも面白おかしく生きようとされる、ある意味楽観的な利用者はまだいい。自分なりに楽しみ方を見つけるからだ。

入浴、排泄、常に職員の目に晒される。

無気力になり、食欲も落ち、やがて病院に入院する。まるで廃人になって、施設に帰ってくる。そんな利用者を何人も見てきた。無理にでも活かそうとする。これが、日本の介護の現実だ。

キレる利用者には、薬が処方され、落ち着かせようとする。まるで、猛獣に麻酔銃を打ち込むようだ。

落ち込む利用者には、向精神薬が処方される。

環境と職員の理解さえあれば、薬がなくても状態が良くなる。

確かに、そうかもしれない。

ただ、利用者の心を満足させるのは、不可能だ。


ショートステイは自宅と同じ状況を再現する。

喫煙する方は、中庭で煙草を吸うし、晩酌する人には、夕ご飯のときにお酒を提供する。

しかし、自宅ではない。職員が「ほどほどにしましょう」「娘さんが量を減らすように言ってましたよ」と声掛けをして、量を軽減する方向に持っていこうとする。それがストレスになる。

こんな介護で、いいのだろうか。

家族が、長生きしてほしいからと、本人から楽しみを奪うのは、いいことなのだろうか。

誰かの優しさや願いが、利用者を苦しめていることもある。

利用者本人の思いは、いつだって、ないがしろにされる。


家族の願いがマイナスに出ることもある。

若年性アルツハイマーを発症された五十代の男性がいた。寡黙だが、言葉は理解できて、ときどき笑顔も見られた。

突然、状態が変化した。暴力を振るうようになった。家族のレスパイトケアのために、施設で緊急で受け入れをすることになった。

しかし、車からなかなか降りてこなかった。

手が出そうになるのを必死でいなしながら、主任が連れてきた。

職員は、なんで帰らねぇんだよ。そんな顔をしていた。

この方が、一人のご利用者様をターゲットにされ、部屋まで着いて行ったことがあった。

私は他の方の介助中で気付いていなかったが、利用者の恐怖の叫びに慌てて駆け付けた。部屋の壁に追い詰められた女性利用者が泣きそうな顔で、私を見ていた。

「はいはい、あっちに行きましょう」

私が、男性利用者を廊下まで誘導すると、突然、振り返って、私の首を掴み、壁際まで走って、叩きつけられた。一瞬、呼吸が止まった。首を絞めつける手に、徐々に力が入っていく。

手を放そうとするが、力が強くて抵抗できない。ましてや、殴ることもできない。このままじゃ、死ぬ。

私は、ついに利用者を殴るしかないと思った。壁を蹴って、体重を前に乗せる。

「ダメ!」

御鍵の叫びが聞こえた。

利用者が気を逸らした隙に、手を振りほどいた。

「殺す気かてめぇ」

怒りで視野狭窄に陥った。

「ダメですよ、先輩」

咎める御鍵が、男性利用者の前に立った。

あとで、主任に呼びだされ、ことの顛末を説明した。

「利用者を興奮させるような介助をしたキミが悪い。お勉強になったね」

そう言われた。

わざと皮肉な言い方をしているのかと思ったが、上条主任は天然でそういう人だった。それがわかっていても、ムカつく。


また、別の男性利用者。

家でも大声で叫ぶようになっていた。家族は、近隣から苦情を言われても、病院に連れて行かなかった。私にもわかる。怖いし、認めたくないからだ。

施設でも、自殺未遂をするようになった。突然、職員の制止も振り切って、道路に歩いていく。そのまま、突き進もうとするので、職員が羽交い絞めにする。

「殺せぇ」

大声で叫び、私の腕に噛みついてくる。

誰も関わりたくなかった。

御鍵や坂枝は、主任の計らいで、あまり関わらないシフトになっていた。

反対に、私は常に関わるシフトだった。

頼む。頼むから、病院に連れて行ってくれ。

もう、無理だ。

夜中も、「殺せ」「死ねぇ」と大声で叫ぶ。

突然、起きて、帰ろうとする。夜勤中は、私一人だ。誰にも助けを求めることはできない。

この利用者に付きっきりになって、他の転倒リスクの高い利用者が後手に回るのは避けたい。結局、この利用者も他の利用者も、私が夜勤の日に限り、転倒した。

そんな日が数ヵ月続いたが、家族がやっと病院受診に連れて行く決心をした。

診断の結果、水頭症だと判明した。

「入院されたから、当分、施設には来ないだろうね。いやぁ、売り上げが」

主任を殺してやろうと何度も思った。


介護施設も家族も、病院受診には腰が重くなる。

施設では、誰が連れて行くかで各部署で揉める。揉めた結果、様子見で流れる。そして、取り返しのつかない重大な事態に発展する。


ショートステイで、様子がおかしい利用者がいた。

もちろん、受診は流れた。というより、初期段階で受診に行くことは、まずない。

夕食後、その方はテレビを鑑賞される方なので、他の利用者の就寝介助をしていた。

あるとき、食堂に戻ると、利用者が寝ていた。

ただ、おかしい。

普段、鼾なんてかかない人だ。

それに鼾の音がおかしい。

地の底から響くような、グコーとあり得ない音が出ていた。

……脳だ。

私は利用者に呼びかけた。肩を何度も叩いて、大声で呼びかけた。これで起きないとおかしいレベルで声掛けをした。利用者の上体が前に倒れると、嘔吐した。

それでも起きず、鼾も続いている。バイタル測定を行う。

そして、主任と看護師に連絡。救急車を手配していいか確認する。

この時間が、もどかしい。こんな面倒な手続きがどうしてあるんだ。

隣のユニットいた御鍵に手伝ってもらいながら、家族に連絡して病院を指定してもらう。救急隊を呼んで、スムーズに入ってこれるようにテーブルや椅子を脇にどかした。

上条主任が救急車に同乗して、病院に行った。


疲れが押し寄せ、中庭で煙草を吸う。

「なんで、俺ばっかり、こんな目に」

「たまたまですよ。それに、先輩が気付いたから、お手柄ですよ」

「俺、厄年まだだけど。呪われてんのかな。お祓いに行こうかな」

「考えすぎですよ」

「俺が夜勤の日に限って、誰かコケるし」

「たまたまですよ」

「お前には、わかんねぇよ。みんなから愛されてるし、利用者に愛想よくしてるだけで、見習うようになんて言われるし。……まったく、反吐が出る。ふざけんなよ。こっちは、キツい勤務ばかりだってのにさ」

どこに行ってもこれだ。

「あたしに言われても」

「だよな。もう、俺のことはほっといてくれ。もう、頭がどうかしてんだよ。誰かを常に憎んでないと、ダメだ。あれだけ俺を矯正するって言ってた主任だって、今じゃお手上げだもんな。俺は、介護をやってて、狂ったんだよ」

「わかりました。もう、いいです」

御鍵と話したのは、それが最後だった。


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