地獄
休日に何かをしようという気にならない。
夢をみた気がする。
起きたら、忘れていた。
ただ、涙が出ていることがあった。自分の泣き声で目が覚めることもあった。
食欲はなく、煙草の量だけが増えていく。
私は天を仰いで、舌打ちする。
利用者が転倒していた。ポータブルトイレに座ろうとして、バランスを崩したのだろう。
バイタル測定をして、「痛いところはない?」と問う。
「マジで、呪われてるっすね」
中島は軽口を叩いて、ゲラゲラ笑っていた。
なにが面白いのか。
人の不幸がそんなに愉快なのか。
朝、上条主任に報告する。
「キミの夜勤の日に限って事故あるね。キミ、なにかやってんじゃないの?」
「どういう意味ですか?」
「深い意味はないよ」
口では言うが、目は疑っていた。
また、別の夜勤で、心臓疾患のある利用者がいた。
心臓に痛みを感じた際に、頓服薬でニトロペンが処方されていた。
「うぅ、痛い」
訴えはあるが、お腹を触っている。
バイタルを測定する。特に、異常はない。
オンコールに連絡するか迷う。どうせ、怒鳴られて様子見と言われる程度だ。
時間によって、痛いと訴える場所が変わる。
朝、早出の坂枝さんに申し送りすると、利用者にニトロを服薬させていた。
主任にも報告すると、眠気が覚めた顔になり、
「キミ、知らないの? 心臓が痛いっていう利用者は、お腹が痛いっていうことがある。怖いことするねぇ。キミ、利用者殺すとこだったよ。おい、介護を舐めるのも、大概にしろよ」
舌打ちをされた。
私は、自然と孤立していった。誰とも話さなくなった。
黙々と仕事をこなすだけだった。
早出の仕事は朝から忙しい。
朝食を介助する利用者の数は少ないが、症状が重度で吐き出す利用者がいた。そんな利用者に限って、薬の数が多い。朝食後薬だけで、十錠あった。もう、時間との勝負だから、猫まんまを作って、その中に薬を投入する。ご飯と一緒に噛んで飲み込めばいい。
だが、吐き出す。薬だけを丁寧に吐き出す。
クソクソクソ。
エプロンに落ちた薬を何度も何度も口に運ぶ。
遅くて丁寧な仕事が褒められ認められているのは、坂枝と御鍵だけだ。
あとは、仕事が遅いと叱責される。
溜息を吐く。
少量の溶けたような薬を、捨てたこともあった。
罪悪感も何もない。
疲弊していたとき、なんとなく、Gメールを整理したくなった。スマホに四千件の表示がずっとあるのが気になった。
整理していると、懐かしい人物からメールが届いていた。
コンビニ時代に仲が良かった
メールの日付は五年前だった。内容は、今度飲みに行きましょうというものだった。
さすがにいまさら返事しても、どうにもならない。ダメ元で返事をした。
『ごめん。かなり遅くなった。今度、飲みに行こう』
数日後、まさかの返信があった。
後日、居酒屋に飲みに行くことになった。
ほぼ十年ぶりに会った長井は、仕事終わりでスーツのまま来ていた。
「高校生だった娘が、こんなに成長して」
「お陰様で、会社ではお局様って呼ばれてますよ。あっ、それと、結婚しました」
OLとして部下ができているのだろう。苦労が顔に滲み出ていた。
昔話に華が咲いた。人生で一番楽しかった時期は、間違いなくコンビニ時代だった。
「そういえば、キクリンが会いたいって言ってましたよ」
見た目は、今だと俳優の高杉真宙にソックリだった。ラルク・アン・シエルのハイドを神と崇め、カラオケではハイド本人かと疑うほど声が似ていた。ガクトも十八番で、こちらも声がソックリだった。
ただ、優れた見た目と歌唱力を持っているが、本人はいたって根がネガティブだった。
だから、私と気があった。
キクリンは、コンビニに来ていた女子高生から絶大な人気があり、いつも連絡先を渡されては、ゴミ箱に捨てていた。
「どうせ、俺なんて…」
それが口癖だった。
不安定になると「あぁ、もう、死にたい」と言う。
そのたびに自虐ネタを披露して、笑わせていた。
クリスマスには、ケーキを買って、見たこともないカップルを罵りながらケーキを食べたこともあった。これを毎年の恒例行事にしようと誓ったのだが、あっさり裏切られた。
初めての彼女ができた。結局、三ヵ月くらいで別れたけど。それから、彼は猿になった。手当たり次第に、女性に自分の欲望をぶつけた。
私がコンビニを辞めたあと、ホストになったとだけ聞いた。
「まぁ、このメールを送ったときなんで、最近はまったく連絡とってないですけど」
彼女はスマホでキクリンのツイッターを見ていた。
「あっ、いました。これですよ」
そこには、キクリンが写っていた。金髪になってスーツを着ているが、やっぱり変わりない。源氏名はガク。どうせ、ガクトにちなんだのだろう。
「いっちょ前になって。俺とケーキ食ってた頃が懐かしいわ」
「このホストクラブって、ここから近いけど、行ってみます?」
私は無性にキクリンに会いたかった。長井にあったのもあって、昔のノリで軽口を叩きたかった。
居酒屋を出て、繁華街の一角にあるビルに入る。エレベーターで十階を押す。
扉が開くと、すぐに店舗のドアがあった。
酔っているのもあって、二人して、ドアから中を覗きこんだ。すると、中から、従業員が扉を開けた。
「誰かお探しですか?」
「あの、ガクいます?」
長井が尋ねる。
「は?」
「ガクです。ガク」
「ガクって、あのガクですか?」
私は理解力のない従業員にイラついた。
「そう、ガクって、一人しかいないでしょ? 今日、出勤?」
「ガクは、死にました」
「ん? 今、なんて言った?」
「死にました」
「嘘でしょ? いつ?」
「半年くらい前かな。マンションから落ちて」
「あぁ、そう」
私がそう言うと、従業員は扉を閉めた。
「キクリン、あのとき、私のこと、かわいいって言ってくれてたんですよ」
突然、長井が告白した。
「私も、好きだったんですけど。もし、彼に告白されてたら、抱かれてました」
「とりあえず、落ち着こう」
「キクリン、半年前の日付から更新してない」
スマホを泣きそうな顔で私に見せてきた。
気持ちのやり場に困ったまま、解散になった。
本当に、死んだのかな。
人違いであってほしかった。
後日、長井から連絡がきた。
彼女は解散したあと、もう一回店を訪ねていた。
従業員に菊田涼真で間違いないか尋ねると、肯定されたそうだ。
詳しく事情を聴きだすと、警察の見解は事故死だという。
ホストクラブの寮であるマンションの五階から、転落死した。部屋には、精神薬があり服用量を間違って、酩酊状態になり転落したものと考えられた。
ただ、従業員が語るには、キクリンは転落する前に、店の代表と電話をしていたという。イベントに備えて、いろいろと準備していたそうだ。
これがミステリー小説なら、その事故死に異議ありとなるのだろうが、現実はもっと淡白であっけない。
あんなに死にたいと願っていた彼は、あっけなく死んでしまった。
彼の親は、母親だけで、実家の大阪に引っ越したらしい。
実家の住所がわからないので、線香をあげに行くこともできない。
キクリンの二十六年は終わった。
いくつもの、疑問が渦巻いた。
俺が連絡先を消していなければ。
そもそも、コンビニを辞めていなければ。
もっと早くメールに気付いていれば。
どうして、どうして、どうして。
答えは出ない。
夜勤中、怒鳴ることが多くなった。
「さっさと死ね!」
朝まで寝ない利用者に吐き捨てた。
「生きてる価値ない」
寂しいと泣いている利用者に吐き捨てた。
「なんで、お前みたいな年寄りが生きて、あんな若い人間が死ぬんだよ。おかしいだろっ」
まったく関係ない利用者に怒りをぶつけていた。
枠井課長が退職した。
四月から新しい施設長になっていたが、とうとう付いていけなくなったという。
あれだけ人のことを、止めておいて、自分はあっさりと退職する。
クソがっ!
どいつもこいつもクズばかりだ。
『心当たりのある者は、私のところにくるように』
申し送りノートに主任が書き込んだ文があった。
内容は、先日、洗濯機が壊れそうになった。衣類に混じって、紙おむつとパットが混入していて、中のポリマーが破れて洗濯槽の中に飛び散っていたらしい。
日付と時間から考えて、夜勤明けの日で私が犯人だと思った。
長い介護の経験上、ティッシュやパットを誤って一緒に洗濯機で回すのは、そこそこあった。元リーダーの坂枝ですら「ごめーん」と言いながら、やらかしていたこともあった。
主任のところに行くような、大袈裟な話ではないのに。
私は主任に自首しに行った。
「あぁ、キミだったのか。あの日、かなり忙しかってね。洗濯機のことに気付いたの、坂枝さんでね。かなりキレてたよ。あんなにキレてるの初めて見るくらい」
そんなにキレられるとは思わなかった。
「それで、坂枝さん、三十分。洗濯機の清掃に時間を取られたんだ。あのさ、キミと違って、坂枝さんの三十分は貴重なんだよ。ショートステイの宝なんだよ。それをキミが奪った。介護はチームケアで助け合いだ。でも、これは助け合いじゃない。ただの不手際の押し付け。これじゃ、チームとして遺恨が残るだろ。だから、坂枝さんに謝りなさい」
自分じゃどうにもならない荷物を、さっさと捨てようと必死だった。
私は、歯を喰いしばって謝罪した。
「あっそ。今度から気を付ければ」
そう言われただけだった。
お前ら、全員、死んでしまえ。
呪った。
私は、夜眠れなかった。
寝不足のまま仕事に行っていた。
朝起きると、毎日吐いていた。
そして、ある日、顔に違和感があった。右側に痺れたような感覚があった。
出勤して、看護師に聞いてみた。
「ほれっれ、やひゃいんれうか?(これって、ヤバいんですか?)」
いつの間にか、呂律も回っていなかった。看護師は、青褪めた表情で、
「あんた、何してんの? 早く今すぐ病院に行きなさい。脳になにかあったら、どうするの」
私は主任に報告し、病院に行った。
県下最大の近澤病院に行くように指示された。
私が病院に着くと、ちょうどヘリコプターが屋上に消えるところだった。
彼女は、今も働いているのだろうか。
急に懐かしくなった。
待合室で待っていると、廊下を数人の白衣を着た先生が通った。
その中に見知った顔があった。
以前、伊瀬知さんのバルーンが抜けたとき、私が付き添って泌尿器科を受診したことがあった。そのとき、処置してくれた先生だった。
見た目は、ホストみたいに金髪をツンツン立てて、ズボンは腰履きで尻ポケットにチェーンで繋がれた財布があった。
これで医者なのか?
驚いたが、処置の間、年配の看護師を顎で使っていた。
懐かしいな。
私は、診察室に呼ばれると、研修医と名札の付いた先生が座っていた。
事情を説明する。脳の写真も撮影したが、ストレスによる顔面麻痺と診断された。
二週間くらいして、自然に治った。その間も仕事を続けていたが、申し送りのときは面倒だった。
水分を摂るときは、左に流し込まないと飲めなかった。飯は、もともと食っていなかったので、不自由はなかった。
コロナ渦にあって新規利用者が来ることは、珍しかった。
家族はおろか親戚もいなかった。
完全なる孤独。
将来的に、施設入所を目指して、少しずつ慣れていくようにとの意向でショートステイを利用された。少し、認知症の症状も出ていた。
違和感があったのは、情報提供書に過去の来歴がほとんど記載されていなかった。
元警察官だったらしい。その後、いっきに最近まで飛び、工場勤務後定年退職。以降、独居住まいをされる。
その程度のことしか、書かれていなかった。
食事を提供すると「ありがとうございます」と深々と頭を下げられた。
両手を合わせて「頂きます」と口にしてから食事を召し上がる。
レクリエーションには、積極的には参加されず、ほとんど自室に籠っていた。
職員とも話す機会はない。
夜勤中、私は怒鳴っていた。
暴言を吐いていた。ベッドを蹴ったりした。
秋水さんが廊下に立っていた。
「あぁ、なにしてんだよ」
「すいません。トイレに行ってまして。部屋がわからなくなりまして」
私は、彼の服を掴んで部屋に案内した。
「ここだよ。覚えとけ。もう、どいつもこいつも迷惑かけやがって。さっさと死ねよ」
「……だったら、お願いします。私を殺して下さい。なんの役にも立たない、愚かな人間です。私が死んで、悲しむ人間はいません。どうか、どうかお願いします」
深々とお辞儀をされていた。
「もう、寝てください」
「そうですか。ご迷惑をおかけして、すいません」
私は、扉を閉めた。
限界だ。
いや、もう、限界は越えていた。
あんなに、なりたくなかった人間に、いつの間にかなっていた。
自分の弱さに腹が立っていた。
それを、利用者にぶつけていた。
そんなことは、誰よりもわかっていた。
ここまでだ。池田。俺、がんばってみたよ。
私は、春月荘を退職した。
介護も、続ける気はない。
私の介護士としての生活は終わった。
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