共感

二〇一六年二月。一人の男が逮捕された。ニュースでも連日取り上げられ、『介護の闇』なんておどろおどろしいテロップ付きで紹介されていた。


川崎老人ホーム連続殺人事件。

二〇一四年十一月から十二月にかけて川崎市の有料老人ホームで、入居者三名が転落死。初動捜査で変死とするが、殺人事件が疑われた。

二〇一五年五月。神奈川県警捜査一課が本格的に捜査開始する。三件の転落事件は、男が夜勤の日に発生していたが、事故や自殺の可能性が残るとの観点から、捜査一課との情報共有や連携要請をしていなかった。検視官三人も、捜査の必要性を幹部に進言していなかったことが、問題視された。

五月二十一日。男が入居者の財布を盗んだとして、窃盗容疑で逮捕される。

九月。窃盗罪で懲役二年六か月、執行猶予四年の有罪判決。

十二月。別の元職員三名が入居者に暴行を加えたとして暴行容疑で書類送検される。

川崎市が施設からの介護報酬の請求を三ヵ月間停止する行政処分を行う。

二〇一六年二月。男が犯行を認め、犯人しか知り得ない情報を話したため、逮捕に至った。(ウィキペディア調べ)


私がニュースを見たとき、田辺リーダーを思い出した。

日本の警察は優秀だ。

リーダーの言う完全犯罪は不可能だ。

いくら隠しても、白日の下に晒される。


犯人は、「むしゃくしゃしてやった」と供述した。


わかるなぁ。あいつら、言うこと聞かないし。しんどいよな。

ニュースのアナウンサーやコメンテーターは、もっともらしく「けしからん」なんて言うけど。お前ら、介護やってみろよ。それでも、同じこと言えんのかよ。


世の中には、犯罪を犯していないだけの予備軍が、今日もどこかで介護をしている。

認知症による暴言暴力に、神経を擦り減らしている。同僚や上司による空気に押し潰される。

明日は我が身。

自分に言い聞かせた。



三月下旬に憩いの家の面接を受け採用になっていたが、勤務開始は四月からと電話で言われた。

四月。私は過去の経験から、いきなり配属部署で初日を迎えるものとばかり思っていた。予想に反し、坂の上の会が運営するユニット型特養の会議室で行われた。

会議室に入ると、同期と思われる数人がすでに座っていた。「おはようございます」と元気よく挨拶してくるのは、ほとんど新卒者ばかりだった。五十代くらいの女性が居心地悪そうに、真ん中らへんに座っていた。

私は最後尾の窓際に一人座る。

会議室の全面にはホワイトボードがあり、その前に教卓のような机があった。五×五で等間隔に机と椅子が置かれていた。最前列の真ん中に、先ほどからキャッキャッと笑い声が聞こえる三人組が座っていた。後ろ姿しか見えないが、女性二人の世間話に男性がツッコミを入れて笑いを誘っていた。

廊下側に女性と男性が縦並びで、窓際の中ほどに男性一人。

場違いな雰囲気に看護師と同じ表情をして、窓を眺める。春のやわらかな陽射しに包まれ、小さな埃がキラキラと宙を舞っていた。春の空気を吸い込むと、さわやかな気分になった。

窓の外は、砂場になっていて、保育園のような外観の建物があった。のちに聞くところによれば、職員の託児所になっているとのこと。今は、誰もいなかった。


時間になり、スーツ姿の男性がサンダルをペタペタと鳴らし、自信に満ち溢れた足取りで入室して教卓に陣取る。

「おはようございます」

最前列の三人組がいち早く挨拶する。それに倣い、ぽつぽつと挨拶の声があがる。

「はい、おはよう」

男性はスーツの上からでもわかるほど、精悍な肉体をしていた。なでおろした前髪を鬱陶しそうにかき上げ、左腕の時計で時間を確認する。

「はい、では皆さん。おはようございます」

「おはようございます」

皆、頭を下げる。

「はじめまして。私は、当施設『春月荘』しゅんげつそうで介護課長をさせて頂いてます。枠井和真わくいかずまといいます。どうぞ、よろしく」

ホワイトボードに名前を書いて挨拶をすると、三人組の男女をきっかけに拍手が起こる。拍手の波が引くと、名前を消して、教卓に手をついて前傾になった。

「えぇ、皆さんは、それぞれ所属部署が違いますが、坂の上の会の職員として同期になります。異動や仕事などで顔を合わせる機会もありますので、ここで自己紹介をしてもらいます。はい、じゃあ、佐久間から」

三人組の女性を指名すると、「えぇ」と声をあげる。

嫌々ながら立ち上がり振り返る。透き通るような白い肌が印象的で、目鼻立ちもしっかりしていて、美人だった。

「はじめまして。佐久間結衣さくまゆいです。坂の上の会が運営する福祉専門学校を卒業したばかりで、春月荘に入社しました。同期として、一緒にがんばっていきましょう」

恥ずかしがっていたわりに、堂々としたものだった。

拍手が起こると着席し、隣の女性が立ち上がる。

「はじめまして。三上恵子みかみけいこです。佐久間さんと同じく、専門学校を卒業して、憩いの家に入社しました。皆さんより、かなりおばさんですが、よろしくお願いします」

三上さんは、私より少し年上だとあとで知った。

今度は、隣の男性が立ち上がった。

「おはようございます。武部陽人たけべはるとです。こちらの二人と同じく、専門学校を卒業したばかりです。自分は、デイサービスの方に入社しました。もし、顔を合わせる機会がありましたら、気軽に話しかけてください」

体育会系の溌剌とした爽やかな男性だった。

今度は、端に座っていた女性が立ち上がる。

「はじめまして。笹川ゆらです。高校を卒業したばかりで、介護のことはわからないことだらけですが、よろしくお願いします」

化粧っけのないニキビ面が、幼さを物語っていた。

その後ろに座っていたぽっちゃりとした男の子が立ち上がる。

「えぇ、すぅ、は、はじめまして」

「おいおい、大丈夫? 緊張しなくていいからね」

「ふぁ、ふぁい」

枠井課長の声掛けに、甲高い声が出てしまう。和やかな笑い声に包まれた。男の子は、深呼吸をする。

「えぇ、佐藤雄太さとうゆうたです。高卒で、就職は初めてですが、兄弟のためにも、親に楽をさせるためにも、精一杯がんばります」

銀縁の眼鏡を外して、ハンカチで顔の汗を拭う。

そして、窓際の男の子。

「はじめまして。榎本蒼馬えのもとそうまです。高校を卒業したばかりですが、よろしくお願いします」

佐藤とは反対に、緊張感のかけらもなく、淡々と挨拶を済ませた。

看護師の女性が挨拶を済ませると、いよいよ私の番だった。

「はじめまして。憩いの家に就職しました。よろしくお願いします」

それだけ言うと、早々に着席した。誰も彼も、興味なさそうに無表情だった。


枠井課長から坂の上の会の歴史を学んだ。

ほとんど上の空で、眠気と戦いながら聞いていた。

休憩を挟んだのち、介護主任が入ってきた。

「いやぁ、結衣ちゃん。久しぶりぃ。なんで、うちに来てくれなかったの」

佐久間は介護主任と気さくに話していた。内容から察するに、かなり期待されている新人らしい。

そんな話を白けて聞いていた。

介護主任からは、介護の歴史について学んだ。

私は、ここまで丁寧な会社の対応に驚いていた。

ここは、まともな会社だ。

安堵する。


二日目は、より実践的な講義で、管理栄養士がトロミの説明をする。

私は、このとき、初めてトロミの付いた飲み物を飲んだ。話に聞いていたように、不味い。トロミ自体に味はなく、飲み物の味が薄まっていた。

「ねぇ、おいしくないろう。だから、ご利用者様には、できるだけおいしく召し上がって頂きたいから、最適な量で提供したいよね」

その言葉に、少し反省した。


次に、介護士としての心構え。

「介護をする、してやってるなんて言う人がいますが、それは間違っています。介護は、お世話をさせて頂いているのです。ここを、間違えないように」


認知症についての基礎知識の講義。

尿取りパットについての説明。

陰部洗浄の大切さ。

私たちは、物心ついてから尿取りパットを装着したことがない。ズボンの上から紙パンツとパットを装着する。ごわごわしていて、違和感しかなかった。

「坂の上の会では、基本的に一部のご利用者様を除いて、オムツは使いません。紙パンツを使用しています。そして、間違ってほしくないのが、尿取りパットはあくまでも、トイレに間に合わない、もしくは排尿のタイミングを掴む上での、一時的な意味合いで使っています。理想とするのは、尿取りパットを使用せず、トイレで排泄をすること。その認識を間違わないでください。まぁ、パットのコストを削減する意味もありますけど」

この話は目からウロコだった。

なんの疑問もなくパットを使用していたが、確かに、利用者の排泄のタイミングを完全に把握していれば、先に声掛けをしてトイレ誘導をすれば、トイレで排泄できる。

排尿失敗。よく、パットに排尿することを、失敗と言う。確かに、トイレでできなかった以上、失敗になる。

「トイレで排泄をすることは、ご利用者様の自尊心を保つことにもなります。皆さんは、トイレ以外のところで排泄をしたことはないと思います。私は、あります。昔、飲み会で浴びるように酒を飲んで、べろべろになって帰ったことがありました。次の日、朝起きたら、自分のおしっこの中で寝ていました。あれは、さすがにショックでした。皆さんは、そんなことがないように」

主任の話を、誰も本当に理解できた様子はなかった。

私は、いろんな利用者の顔が浮かんでは消えた。


三日目は、リスク管理についての講義。

介護事故が発生した際の、対応方法。

介護事故とヒヤリハットの違い。

介護事故は、転倒、転落、その他事故が発生したことを意味する。身体的な外傷を伴う。

ヒヤリハットは、介護事故に繋がりそうな行動。または、未然に防ぐことができたが、介護事故になりそうな行為の発見を報告する。

ハインリッヒの法則。

一つの重大な事故の背景には、多くの軽微な事故や、それ以外の数千の不安全な行動や状態がある。

転倒事故が起きてしまった場合、そこに至るまでの些細な原因がたくさんある。ご利用者様の身体的状態、精神的状態。使用器具や住環境の状態。職員の状態。

それを見逃さずに、適切に把握していれば、事故を未然に防ぐことができる。

だから、ヒヤリハットは臆せず、むしろ提出することを推奨されていた。


最後に、最悪の場合、死亡事故にも繋がると脅された。

警察、弁護士、裁判。

不穏な言葉が並び、「施設としては、関わりません。すべて、個人の責任になります。これは、過去の判例からも明らかです。人の命を預かっているという意識を持って、そうならないように、気をつけましょう」

その言葉に、身が引き締まった。

「先月、残念な事件が発覚しましたね。同じ介護士として、恥ずかしい限りです。皆さんも、介護を続けていく上で、精神的にきつくなる瞬間はあると思います。そんなときは、職場の上司や先輩、誰でもいいので相談できる人に話してください。介護はチームケアです。一人で抱え込まないでください」

そう締めくくられた。



四日目。

憩いの家は、多床型特養で、一号館、二号館に別れている。

一号館は、身体的、精神的に軽微な状態の方が多い。

二号館は、重度のご利用者様が多く、一階部分が地下になっていて陽もあまり当たらないので、『魔窟』と呼ばれていた。

私と佐藤雄太は、一号館の一階にある『光風』こうふうに配属になった。二階には、『さくら』『つむじ』の二つのグループがあった。

ご利用者様の数は、約三十名あまり。一号館では、一番人数が多かった。

光風のリーダーは、産休のため不在だった。ベテランの門屋良子かどやよしこがリーダー代わりになっていた。いつも不機嫌そうに寮母室で、日誌作成のため、パソコンを打ち込んでいる姿が思い出される。

坂の上の会は、書類作成にパソコンを導入し、介護用品も各種取り揃えられていた。

人見知りなのか最初はぶっきらぼうだったが、少しずつ心を開いてくれた。門屋さんは、ケアマネージャーの資格を持っていたが、事務仕事は嫌いとのこと。身体を動かす方が性に合っている。いつまでも、現場で働いていたいという気持ちがあるそうだ。


門屋さんを筆頭に、中堅どころが脇を固めていた。

年齢は私とほぼ同年代で、いい人達だった。

今までの職場が夢だったのかと思うほど、新人教育にも力を入れていた。懇切丁寧に教えてくれた。

門屋さんから、同期の看護師が初日で辞めたと聞かされた。理由は、わからない。ただ、相性が合わないとか、そんなことを言っていたそうだ。



どこにでも、新人イビリをするご利用者様はいる。

権藤房江ごんどうふさえは、自己主張が激しく、利用者のリーダー的存在だった。自分に逆らう利用者には、容赦なく悪口を本人の前で言う。

左片麻痺だが、ご自分で車椅子で移動することはできる。

介助をさせて頂くときも、細かい指示がある。少しでも介護士が先走って勝手なことをしたり、自分の考えとは違う介助をすると、途端に罵詈雑言、手や足で殴ったり蹴ったりしてくる。

マイペースで、誰よりも遅く起きて、誰よりも遅く寝る。共用スペースで他人がテレビを見ていても、お構いなしにチャンネルを勝手に見たい番組に変更する。

そのため、いさかいも多々あった。そのたびに、仲裁に入らなければいけなかった。

主に、息子様の嫁が着替えや差し入れのお菓子を持ってくることがあった。

「他人に迷惑かけたら、指導なんて甘いことはせず、徹底的に躾をしてやって下さい。叩いても構いません。あと、死にそうになったら連絡してくれれば、それでいいんで」

そう語ったお嫁さんは、積年の恨みがあるのか、きつい口調で一切の反論は許さないという強い語調だった。

権藤様は、差し入れのお菓子をすぐに他のご利用者様に配る。だから、自分が食べる前に、すぐになくなる。

認知症もあり、「お菓子がなくなっちゅう」と騒がれることもあった。また、夜、寝ながらお菓子を食べることがあった。

門屋さんが説得して、お菓子は預かることにしたが、権藤様は本当にお菓子があるのかと毎回確認にくるようになった。また、しばらくお菓子を保管している棚の前でどれを食べようかと長時間悩まれる。少しでも急かすと「まぁ、待ちや」と不機嫌になられる。付き合う職員の時間も奪われた。


喫煙所は、様々な部署の人と会える唯一の交流の場だった。国道から下り坂になっている施設の裏口、職員用玄関の前に喫煙所があった。

憩いの家には、二人の介護主任がいた。

最初に講義をしてくれたのは、二号館を担当している鈴木真美すずきまみ主任。喫煙所で煙草を吸う姿は、仕事に疲れ切った中間管理職といった趣だった。

もう一人、一号館を担当しているのが園田千絵そのだちえ主任。定年間近だが、若々しくいつも溌剌としていた。

「園田主任は若い男が好き」

噂通り、男性職員に対して、距離感が近い。ボディタッチも多い。

昔、男性職員に密告され、上司から叱責されたことがあるらしい。今でいう、セクハラに該当する。

ご自身に欲求不満が溜まっているためか、社内恋愛にはかなり厳しい。若い男女の職員が喋っているだけで、「仕事しなさい」と怒鳴る。

若い女性に厳しい。そして、女に言い寄る男にも厳しい。

光風でも、藤田明宏ふじたあきひろが目を付けられていた。ひと昔前のホストみたいなツンツンした金髪に、ぽっちゃりとした身体。いつも、香水を匂わせていた。家が金持ちだと言うだけあり、とても藤田の若さでは買うことはできないだろう高級車で出勤してきていた。

隣の専門学校から、食事介助のバイトで来ていた、國分早紀こくぶんさきは藤田と年齢が近いせいか仲が良かった。いつも冗談を言って、國分は笑っていた。

二人の姿を見かけるたびに、園田主任は目を吊り上げていた。


ある日、喫煙所で園田主任と二人きりになることがあった。

「どう、もう慣れたかね?」

「あぁ、はぁ、まぁ。ぼちぼちですね。こんなに、まともな会社。初めてです」

癖のある人間はいるが、今までのとこに比べると、まるで天国だった。

「ここは、歴史も古いからね。期待してるからね」

手を肩に乗せて、ポンポンと叩いた。

「今度、飲みに行きたいねぇ」

若くない私でも、このありさまなのだ。

正直、気持ち悪かった。

「まぁ、機会があれば」

早々に逃げた。


喫煙所で二号館の人とも話すことがあった。

「三上さんは、本当に仕事ができる。うちの部署って、過去のご利用者様の資料とか書類が、ごちゃごちゃで棚の中に保管してたんやけど。もう、汚いって言うて、わざわざ、空残業してまで、年代順に並べ替えてたからね。ファイルまで用意して。さすが、一等級やわ」

そういうのは、二号館二階『月』の職員宅間啓太たくまけいただった。

「そうなんですね。…えっ、一等級?」

坂の上の会は、等級によって給与が変わる。

まず、三等級は、無資格者。私は、ここにいる。

二等級は、介護福祉士所持者。専門学校の卒業生は、二等級からスタートする。

一等級は、リーダーと同等の能力を有する者。次期リーダー候補者。

毎年、年に一回、昇級試験がある。年数よりも等級が優先される。

「あっ、スマン。あんまり、給料のこと、言わんほうが良かったな」

「あの人、二等級じゃないんですか? どういうことですか? 経験者でもないんでしょう?」

問い詰めると、言いにくそうに宅間は言う。

「あの人、というか、あの人と一緒にいた子たちも、全員一等級からスタートって話や」

会議室に並んで座っていた三人を思い出す。確かに、介護主任が、佐久間に「うちに来い」と言っていた。

「どうしてですか? 社内規定無視してますよね」

「社内規定を無視するくらいの人材って判断なんやろ。なんて言っても、隣の専門学校ができてから今までで、一番優秀やって話で、鳴り物入りで入ってきたからな。こんなに優秀な人材見たことないって、主任も言うてたし。役員連中も介護士として完璧って評価したんやって。だから、特別なんよ」

「なんじゃ、そりゃ」

思わず、大声が出た。

そんな特別扱いが許されていいのか。

彼女たちは、ここで何十年と働いているリーダークラスといきなり同じ給料とボーナスを得ることになる。

「俺たちの人生を、安く買い叩きやがって」

何も知らない外部の人間に伏せられていた真実に、身体が震えた。

お前の今までの経験なんて、考慮に値しない。すべて無駄。

そう言われた気分だった。



人手不足もあって、私は、二ヵ月ほどで夜勤をするようになった。

前職の経験から、三十人程度ならと心構えもあった。

ただ、起床介助だけは戦争だった。

ご利用者様の起床開始は、朝五時半からスタートする。三十名を朝食が始まる七時半までに食堂で待機してもらわないといけない。

一人当たり、四分。

かなり仕事ができる介護士でもない限り、無理だ。

その日によって、ご利用者様のコンディションも違うし、突然「起きたくない」とゴネる方もいた。さらに、バイタルも測定しないといけない。

だから、公然の秘密として、ご利用者様には申し訳ないが、四時半か遅くとも五時過ぎには起床介助をスタートさせていた。

そうしないと、とてもじゃないが、間に合わない。

あと、時間内に仕事を終わらせるということは、職員からもプレッシャーをかけられる。

時間内に終わらせないと、自分たちにその皺寄せがくるからだ。

「こんなこともできないのか」

「なんで、終わらせられないんだ」

言い方は違うが、言葉でも行動でも、そんな空気を出される。

斎藤一美さいとうかずみは名前の通り、線の細い身体にきれいな顔立ちをしていた。イケメンと言っても差し支えない。は行とさ行の発音に難があった。上歯がすべてなかったからだ。

「一人の利用者の我がままを聞いてたら、他のすべての利用者に迷惑がかかる」

「職員がもたついて、時間かかったら、他の利用者が迷惑する」

と、発音に難があるが、強い口調で怒られていた。

圧力をかけられ、ご利用者様はそんなことは知らないから、好きに主張する。

板挟みになる私は、

「結局、どこも一緒か」

そう思った。

確かに、今までの職場の中では一番マシだが、職員の考え方は似たりよったりだった。

斎藤さんは、自分がイラつくと当たり散らしてくることがあった。

一度、ショートステイを利用されていたご利用者様の荷物をチェックしていたときに、コールが鳴った。そのとき、そこにいた職員はすべてご利用者様の対応をしていたので誰もコールを取れなかった。

「誰でもいいから、早く行けよ!!」

廊下に出て怒鳴り散らす様に、「だったら、お前が行けよ」と内心思った。

そんな性格だから、少しでも自分に面倒ごとが降りかかりそうになると、すぐにキレる。夜勤に慣れていない私に、「早く、起こして来いよ。時間ないぞ」と、捲し立てた。

「こっちは利用者以前に、あんたに迷惑してるよ」

言いたい気持ちを堪えた。

真逆の先輩もいた。谷本浩二たにもとこうじは、社会人サッカークラブに参加していて筋肉質な身体をしていた。モテるらしく、女と別れてはまた別の女ができていた。でも、嫌な感じはしない。とにかく優しいのだ。職員には新人の私にでさえ、敬語で話してくる。ご利用者様には笑顔で接し、わがままと思われるような発言も真摯に傾聴していた。

谷本さんは、マイペースで、動きは遅いのにいつも時間内ギリギリに終わる。

「時間が間に合えばいいんですよ。慌てなくていいから」

優しい言葉をかけてくれた。

少しでも早く終わらせて時間の余裕を持ちたい斎藤さんは、一方的に谷本さんを敵視していた。

いろんな先輩に翻弄されながらも、歯を喰いしばって耐えた。



夜勤中、ショートステイを利用していた内藤ツルさんが、ベッドから転落した。床に敷かれたセンサーマットが反応して訪室すると、掛け布団にくるまって床に座り込んでいた。

初めての介護事故。

「どうしたの? なんで、落ちたの?」

「…なんでやろう」

間延びした答え。

「とにかく、ベッドに戻りますよ」

起き上がらせると、「痛い痛い」と反射的に身体が強張る。

なんとかベッドに横になってもらう。

「どこが痛いの?」

質問に答えない。

身体を触って「ここは? ここは?」と様子を伺う。

「痛い」

反応したのは、腰だった。見たところ、何も変化はない。折れてないか。打撲してないか。

不安になる。バイタルを測定する。

オンコールナースに連絡。介護主任に連絡。リーダーにも連絡しなければいけないが、不在なので割愛。

看護師から様子観察の指示。

朝になり、介護主任と門屋さんからの質問攻めにあった。

「排泄は?」

「落ちたところを見た?」

「物音はしなかったのか?」

一つずつ質問に答える。生きた心地がしなかった。

おそらく、パット交換は定時で行っていたが、元々夜間の尿量の多い人なので、トイレに行こうとしたのだろう。その際に、掛け布団に足を引っかけたかして滑り落ちた。

こんな筋書きができあがった。

実際に、事故現場の原因や過程ではなく、結果しか見ていないので推察しかできなかった。私は、夜勤日誌と事故報告書を書き、気付けば昼頃まで仕事をしていた。

門屋さんがご家族に電話して、平謝りしていた。



それから、私は立て続けに介護事故を起こした。

ある日、内藤さんを食堂に誘導した。内藤さんは歩行器を使われる方で、常に後ろから歩行器を持って支えなければいけなかった。

食堂に着いたものの、椅子が引かれていなかった。私は、横着をして、歩行器を片手で支え、もう片方で椅子を引こうとした。内藤さんはバランスを崩して、床に転倒した。

これは、言い訳のしようもなかった。

「すいません」

「俺じゃなくて、謝るのは利用者だろ」

斎藤さんに一喝される。


続けて、一番肝を冷やしたのは誤薬だった。

幸い、大した薬ではなかったので、ほとんど問題はなかった。

「もし、これが、心臓病の薬だったら。もし、降圧薬や低血圧の薬だったら。一歩間違えたら、人を殺すからね」

門屋さんに一喝される。

ご利用者様に、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


なにをやってもダメ。

無能。

そんな言葉が頭の中でループする。


あるとき、朝方オンコールナースに連絡する。

「あの、ご利用者様の臀部に、小さな傷があるんですけど」

「ふざけんなっ! そんなの、事後報告でいい」

怒鳴られ、電話を切られた。

私は先輩から、どんな些細なことも、身体的なことは看護師に連絡するように言われていた。

しかし、ここで初めて、些細な傷程度なら、事後報告でもいいと知った。

看護師は、一日五〇〇円で、オンコールをしている。寝ようにも、電話がいつ鳴るか。気が気じゃない。そして、次の日、日勤や早出で出勤しなければいけない。

気を遣え。

そう言われた。

怒鳴った看護師は、私を無視するようになった。気持ちが収まらないのだろう。

私は業務に支障が出るので、頭を下げて謝罪した。

「やっと、理解したかえ。いい加減にしい。クズが」

そう吐き捨てられた。


クズはどっちだよ。

頭の中で、看護師をめった刺しにした。

気分は、晴れなかった。



夜勤中、早起きをするご利用者様がいた。

野々村ハル様は、時間の感覚はしっかりされていた。夜中の二時過ぎに起き出そうとされたときは、時間を伝えたが、首を縦に振られた。

「わかっている。それでも起きたい」

発語はされないが、身体で意思表示をされる。これを許してしまうと、昼夜逆転になり、野々村様の生活サイクルが乱れる。そして、職員にキレられる。

なんとか、起きたい気持ちを押し留めてもらうが、四時が限界だった。

ご自分で脚に装具を装着し、軽介助で車椅子に移られる。トイレも、ご自分で移られる。

まず、洗顔とうがいをされる。義歯を装着すると、廊下を車椅子で何往復もされる。ご本人は、便がでないことをかなり気にされていて、運動をして排便を促すよう努力されていた。

ただ、車椅子は整備されておらず錆び付いたキィキィと音が鳴り、とにかくうるさい。イライラしてくる。


そんなとき、コールが鳴る。

よくベッドから転落するご利用者様で、床にマットレスを敷いてセンサーマットを設置していた。

一度、コワいので布団はダメなのか聞いたことがある。

理由は誰も知らないが、とにかくベッドじゃないとダメだとのこと。会社の方針だとかなんとか。それで、利用者がケガをしたらどうするんだ? 疑問に答える形で、マットレスを二段敷きにして段差を少なくして、対応するようになった。

訪室すると、尿失禁により、全裸になっていた。

定時の排泄介助では足りず、先回りしてパット交換するが、それでも間に合わない。

尿が気持ち悪くて、衣服を脱ぐ。

ベッドは、尿でぐっしょり濡れていた。マットレスも含め、すべて交換しなければいけない。

ご本人様に更衣を行うが、声掛けにも意味が通じておらず、顔や腕を叩かれる。

「クソが!」

苛立ちに怒鳴り声をあげた。

「おとなしくしろよ、もう、できねぇだろうが」

むりやり身体を押さえつけて、なんとか更衣を行う。車椅子では転落する可能性がある人なので、食堂のソファで休んでもらう。

その間に、急いでベッドメイキングを行う。

また、食堂から居室に誘導する。

移乗するときも、顔や腕、胸を叩かれる。目に拳が入った。

「いってぇ。クソが」

私は、利用者の髪の毛を掴むと、車椅子から引きずり下ろし、ベッドに倒した。

「死ねよ、死ねよ、死ねよ。ゴミクズが! カス! いってぇなぁ」

狂ったように、怒鳴り散らして、枕もとを拳で何度も殴った。


コールがあり、トイレに行くと、野々村さんが便まみれの指を見せて、苦笑いを浮かべる。服も壁も、便にまみれていた。

最悪だ。

「もう、なんで今なんだよ‼ クソが」

大声に、ビクッと身体を震わせ、申し訳なさそうに項垂れた。

いくら踏ん張っても排便がないことに、たまにご自分で摘便をされる。本来、摘便は医療行為で、看護師が便が硬くて出ない人に行ったりする。肛門を傷つけないようにワセリンを塗り、ゴム手袋をした指にも塗ってから、指を挿入して直接便を掻き出す。

それを自力でされる。いくら指摘しても、ご本人は続けていた。

陰部洗浄、更衣、指にこびり付いた便は取れず、洗面所で手を洗うが、爪の奥深くまで付着した便は取れなかった。

「クソが、自分で処理できないのに、摘便なんかするんじゃねぇよ」

それから、爪切りをして、残った便をほじくり出す。

トイレの中を清掃する。

これを、起床介助の時間にされた。

かなり時間が押していた。しかも、早出は斎藤さんだった。


朝方、権藤さんが「まだ起きとうない」とゴネられた。

もう、斎藤さんが来る。

「もう、みんな、起きてますよ」

「知らん。わたしゃ、まだ寝たい」

「いい加減にしろよ。我がままばっかり言って。どんだけ、人を振り回すんだよ」

暴れるのに構わず、無理やり起こした。

かなり立腹されていたが、こっちには関係ない。

斎藤さんにキレられる方が面倒だ。


斎藤さんは出勤してくると、「目、どうした?」と、驚いていた。

私は洗面所に鏡を見に行くと、右目が潰れていた。

あのとき、殴られたから。

理由を説明すると、「へぇ、殴られるような介助をしたのが悪いやろ」と、身も蓋もないことを言う。

じゃあ、どうしろって言うんだよ。



朝食の時間になり、食事介助をしていると、テレビに『介護の闇』『そのとき、何があったのか』とセンセーショナルな字幕付きで、ニュースが報道された。

神奈川県の障碍者施設、戦後初の大量殺人、犯人は「障碍者を安楽死させれば世界平和に繋がる」等と意味不明なことを供述しており……。

相模原障碍者施設殺傷事件。


そうだよな。

介護する利用者もいなくなれば、誰も苦しまないよな。


夜勤明けのぼうっとする頭で思った。


「おい、チャンネル変えるくらいの気遣いもできんのか」

「あぁ、すいません」


斎藤さんはチャンネルを変えた。


「こんなんして、何にもならんのに。人生捨てて、バカだよな」


お前を殺してやろうか。

そうすれば、私の心の平和は保たれる。




川崎の老人ホームの犯人も、相模原の犯人も、元々素行不良で、偏った思想の持ち主。



私は違う。

私は、人殺しなんかしない。

仕事もしている。

素行も悪くない。

休みは、家でぼうっとしているだけ。

ストレスの捌け口は、煙草だけ。


なにも晴れない。

気分は落ち込む。

いつも、なんであんなこと言ったんだろう。

どうして、あんな行動をとったのだろう。

後悔ばかりする。

その瞬間は、カッとなってやってしまう。

毎日、そんな気分だった。

後悔ばかり。

私は違う。

違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。

呪文のように唱えていた。



なにが闇だ。

なにも知らない癖に。

文字でしか知らない情報に、「けしからん」と罵倒するコメンテーターにも腹が立った。

お前たちが何を知ってんだよ。

こんなに苦しく、辛い気分になったことがあんのかよ。


利用者は我がまま気まま放題。

職員は圧力をかけてくる。

会社は、あからさまに差別する。

そして、この国は、介護政策なんて名ばかりで、少しでも自宅で生活できるように体調に気をつけましょう程度のこと。そうしないと、施設が回らない。いまだに、老人たちが施設入所に順番待ちをしている。

老人には、早く死ねと言わんばかり。

子供には手厚い政策をするのに。



そこまで余裕がない。

こっちだって、余裕がない。

表面化してないだけで、どこにだってある。


どこにだって、誰にだって、悪意はある。

意思を悪意に感じてしまう悪魔が宿る瞬間がある。



私は、絶対に違う。

自分に言い聞かせた。


































「アイム・ア・パーフェクトヒューマン」

つづく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る