狂言

世間では、ゴールデンウィークが終わったが、私たち介護士には、そもそも長期休暇なんてない。

早出が終わって駐輪場に行くと、一人の男性が立っていた。

デパートで迷子になった子供。私の第一印象だった。

一八〇cmはありそうな高身長に、切り忘れた角刈りのような黒髪、白いTシャツとジーンズは突き出た腹部で窮屈そうに歪んでいた。身体は大人なのに、どこか幼く感じる。

その男が異様だったのは、涙を流しながら腕やシャツで拭っていた。随分、長い間、ここで泣いていたのか、頬には涙の筋ができ、泣きはらした目は血走っていた。

ただならぬ雰囲気に、不審者かと訝しむ。

「あ、あの…」

声をかけたものの、どう話したものかと思いあぐねていた。

男は、まだ溢れてくる涙を拭くことを諦めたのか、私を直視する。滴が顎を伝って、地面を濡らす。

戸惑っていたが、よく観察すると、私を見ていたわけではない。

目に光はなく、なにも見ていない。ただ、私が視線の先にいただけだ。

とにかく、面倒ごとはご免だったので、私は何もせず、原付に乗って帰路に着いた。



季節は梅雨。

中途採用で、立石晴香たていしはるかが入社した。まだ二十代前半で、介護の経験はデイサービスで半年働いていたそうだ。本人としては、施設で腰を据えて働き、いずれは資格取得を目指したいとのことだった。

若いのに、しっかりしている。

そして、もう一人。休職から復帰した看護師野田悟のださとる。あの日、駐輪場にいたのは彼だった。

見た目も清潔感があり、別人かと思うほど溌剌としていて「長い間、ご迷惑をおかけしました」と挨拶していた。


「僕ね、生まれは兵庫の芦屋なんよ」

昼休憩。食堂には、私と野田さんしかいない。私は早出で、彼は日勤だが、看護師が全員同じタイミングで休憩を取るわけにもいかないので、先に休憩になったのだ。

野田さんは、一食五〇〇円のまかない定食をおいしそうに食べていた。メニューはご利用者様の昼食と同じで、里芋の煮物を頬張った。

なんで、この時期に里芋なんだ。余計、暑苦しい。私も、同じように里芋を口に放った。

「お金持ちなんですね」

「いやいや、まぁ、今の両親がね」

「今の?」

「なんや、生後すぐに施設に捨てられたみたいで、ほんで今の両親に引き取られたみたいなんよ」

「はぁ、なんかドラマみたいですね」

悲壮感のかけらもない。あっけらかんと自己開示する。

「そんな、ええもんじゃないって。父親が自衛官やから、俺も高校卒業してから、自衛隊に入ったんよ。市谷駐屯地に配属されて、パラシュート降下とか、三階の高さから飛び降りたり。射撃訓練もしたで。知ってる? 映画みたいな銃の打ち方したら、骨折するからね、マジで。反動が痛いんよ」

「はぁ、そうなんですね」

「自衛隊に入った方がいいよ。いろんな資格も取れるし。給料もいいし。それ目当てで入った子もおったわ。キミも今からでも遅くない」

野田さんの左手の薬指に指輪がはめられていた。

「いやぁ、自分は遠慮します。野田さんは、ご結婚されてるんですか?」

「うん、してるよ。娘もおる。嫁は永富病院で働いとるで」

この施設の母体の病院。

「そうなんですね」

「嫁は東京出身で、お嬢様育ちなんよね。あの市川海老蔵が入院してた聖〇〇病院で働いてたんよ。俺も看護師の資格取ってそこで働いてたんやけどね。そこで出会ったわけ」

「なんか、すごいですね。でも、どうして、こっちに?」

「父親は、元々こっちの出身でね。院長と知り合いやったみたいで。人手が足りんからってことで、親父に愚痴ってたみたいなんよ。それを聞いて、思い切って移住しようかって。田舎暮らしって、憧れてたし」

「そうなんですね」

人それぞれ、ドラマがある。稀有な経験をしている人に、実際に出会うとは思わなかった。

いるところにはいるもんだ。



梅雨も終わり、七月には納涼祭が行われた。

本当のお祭りみたいに、施設外の業者の屋台や出店が並んだ。

近隣住民も交えて、盛況のうちに終わった。



「あぁ、まぁた始まった。キャバクラ布袋」

久本副リーダーは、陰口を囁いた。

ナースステーションでは、永富病院から西田清彦にしだきよひこが利用者の様子を看護師の布袋優子ほていゆうこから申し送りを受けていた。

布袋看護師は、線が細く、モデル体型で垢抜けていて芸能人みたいだった。西田先生が毎回くるたび、距離感がおかしいのだ。

「まぁた、先生ったら。ご冗談」

「んん、冗談じゃないよ」

なんて、いいながら、布袋はボディタッチをしたりする。

その様を見て、キャバクラ布袋と言われていた。

よくもまぁ、恥ずかしげもなくできるよなぁと呆れていた。



秋になり、永富病院から一人の女性看護師が異動してきた。

野田看護師の奥さんだった。言い方は悪いが、薄幸の美人。そんな印象だった。

田辺リーダーは、陰で「こっちに送られてきたってことは、使いもんにならんのやろ」と言っていた。

私には、看護師としての能力に問題はないように思えた。


そして、冬になった。

「今年は、何やるで?」

田辺リーダーは、私にご利用者様の忘年会について意見を求めてきた。

「なんで、私に?」

「毎年、新人に聞く習わしになってるから」

「はっ? 初耳ですけど」

「うん。今、思いついたから」

なんとも、適当な。

「なんですかね。去年は、屋台出しましたよね」

「あぁ、くっそ不味かったけど」

普段、どんなものを食べているのか。私は、おいしいと思ったけど。

「うーん。劇とかかな」

「おっ、ええやん。じゃ、よろしく」

ということで、私が責任者に任命され、劇を披露することになった。

演目は桃太郎。その当時、ペプシコーラのCMで、小栗旬が桃太郎に扮していた。奇抜な世界観ながら、世間では「映画にしてほしい」と熱望されるほど人気があった。

恥ずかしながら、それをイメージソースに脚本を書いて田辺リーダーに提出した。

「ダメ。長すぎ。覚えきれん」

即、却下された。台詞は、ほぼ練習で確立された。ストーリー展開は、私が書いた脚本から大幅な変更が加えられた。ほぼ、田辺リーダーの悪ノリで、二転三転した。

常人にはない高い身体能力を持った桃太郎に、ある日、黒ずくめの男が「鬼が島で鬼を退治してくれ」と頼んでくる。「鬼は人々を苦しめ、民は飢え死にしている」と。

正義感の強い桃太郎は、道中でお供を引き連れ、鬼ヶ島へ。

鬼ヶ島では鬼たちに、黒ずくめの男が「桃太郎という悪漢が、もうすぐここへ来る。早く逃げないと、あなた方一族を滅ぼそうとしている」と訴える。

黒ずくめの男に唆され、鬼ヶ島で激突する両者。なんとか鬼に勝った桃太郎。そのとき、黒ずくめの男が桃太郎を襲う。男の目的は、鬼の財宝。

桃太郎、危うし!

テーマもやりたいこともなにもかもが、不明。

納得はできないが、田辺リーダーには逆らえない。

もう進みだしたのだから、引き返すことはできない。


配役もすべて田辺リーダーが決めた。

主演の桃太郎は、新人の立石。リーダー曰く、「デブが桃太郎やったら、おもろいやろ」とのことで抜擢された。

猿は介護士の村上春江むらかみはるえ。当時、四〇代で、幼い子供がいるシングルマザーだった。厨房の村上良太むかみりょうたと付き合っていた。

雉は介護士の仲村美和なかむらみわ。背が低く、ぽっちゃりとしていて、言葉もガラが悪いが、しっかりと利用者の話に耳を傾け、親身になって介護をしていた。田辺リーダー曰く「仲村とヤるくらいなら、死んだ方がマシ」と言っていた。

犬は、生活相談員の男性。

鬼の大将は、野田看護師。その子分に、私。

黒ずくめの男は、田辺リーダー。

小道具は、リハ助手の中島真由美なかじままゆみが一人で担ってくれた。段ボールで、草や岩、桃太郎の桃など器用に作ってくれた。

音響は、事務の職員が担当してくれた。


監督と言うにはおこがましいが、私が演出を担当した。

キャラクターショーの経験があったお陰で、難しくはなかった。

殺陣シーンは、ジャッキー・チェンや実写版るろうに剣心を参考にさせてもらった。

黒ずくめの男が桃太郎に襲いかかり絶体絶命のピンチのときに、キャラクターショー同様、観客に応援を求める演出も取り入れた。


練習風景を見しらぬ女性が見に来るようになった。野田看護師の知り合いらしく、劇に興味があるとのことだった。

女性は、理知的で神経質そうな印象で、興味があるわりには、我々とは一言も話さなかった。


あるとき、練習終わりに田辺リーダーがスマホで風俗サイトを見せてきた。

「これ、近田なんやって」

介護士近田真理ちかだまりは、二一歳で音楽の趣味が一緒で話したことがある。

夜勤中、椅子に片膝を立てて、日誌を書きながら、片耳にイヤホンをして音楽を爆音で聞いていた。

当然、仕事に対する評価はかなり低い。

「またまたぁ」

画面には、下着姿の女性の写真があった。顔にモザイクがかかっているが、髪型や背格好は、そう言われれば見えなくもない。

「いや、本人が仲村に言うとったらしいんよ。デリヘルで働いてるって。なんや、ホストにハマってるらしいで。まぁ、どこの店かは言うてないみたいやけど、絶対これやろ」

「どうなんですかね」

「キミ、突撃してみいや。ワンチャン、ヤレるかもしれんやん」

野田も話に乗ってくる。

「近田ちゃん。かわいいもんねぇ。気持ちよさそうな身体してるし」

「もう、やめてくださいよ」

「近田はタイプじゃないかえ?」

「そういう話じゃなくて」

「まぁ、ぶっちゃけ、丸山が一番かわいいもんな。ヤリたいやろ?」

「そんなわけ、ないでしょ」

「まぁ、やったら殺すけど」

笑いながら、物騒なことを言う。

「じゃあ、僕が行きましょうか? 先陣きって」

「おう、行ってこい」

下世話な人間。下品な話。

気持ち悪かった。

丸山は、この男のどこを尊敬したのだろう。つくづく、わからなかった。



忘年会本番。

田辺リーダーは、目立ちたいとのことで、ネット通販でファイナルファンタジー7のクラウドのコスプレを注文していた。目にはカラコン、顔は黒塗りでいかにも化け物じみたキャラクターに仕上がっていた。

劇は、思いのほか反響が大きかった。

「こんなの見たことない」

「めちゃくちゃ、良かった」

「施設始まって以来の傑作」

私は、こうやって誰かと一緒に、一つの作品を作ることに喜びを感じていた。



夜勤は、孤独だった。

完全なブラックボックス。誰にも、侵害されることはない。

ショートステイで経管栄養のご利用者様がいた。食事も薬も、すべて胃瘻で繋がれたチューブから流し込まれる。

本来、経管栄養の接続は、医療行為にあたるため看護師が行う。意外に思われるかもしれないが、爪切りも医療行為にあたる。介護福祉士のみ、爪切りは許可されていた。

早出や夜勤の看護師がいない以上、介護士がやるしかない。あきらかな越権行為ではある。私は、田辺リーダーから一回だけ教わった記憶を頼りに、経管栄養を繋いだ。

一気に流し込むと、嘔吐の原因になるため、一時間くらいかけて少しずつ流し込む。

私は、しくじった。誤って、一気に流し込んでしまった。焦って、止めようとするが、どこをどうすれば止まるのかわからない。

すべての液が流れ込み、ご利用者様は「ぜぇ、はぁ」と息を引き込むような呼吸をされた。深呼吸をして、またいつもの様子に戻られた。嘔吐をする様子はない。


危なかった。まっ、いっか。


内心、安堵した。

廊下に出ると、岡本信夫おかもとのぶおが、濡れて黒ずんだ衣類のまま、ホールに向かっていた。このときの私は、岡本の姿を見ただけでイラつくようになっていた。

岡本は、二~三日まったく寝ない。そして、電池が切れたように熟睡する。乱れた生活サイクルを送っていた。日中、活動量をあげ、散歩やリハビリをするが、それでも寝ない。

今日は、ハズレの日だ。

「おい、戻るぞ」

「うんうん、まぁまぁ」

「着替えるぞ」

「まぁ、待ちや」

「どうしたの? なにがしたいの?」

「うんうん、まぁ、なにってこともないけど」

「じゃあ、戻るぞ」

「もう、待ってや」

クソクソクソクソクソクソ。

まったく理解できない。本人ですら、どうしたいのかわかっていない。

岡本は、自席に座ると、テーブルを手で掃くような動作をする。

何をしているんだ? 何が見えている?

とりあえず、喉が渇いているのかもしれない。

ホットココアを提供する。

「これ飲んだら、寝るよ」

「うんうん。ありがと」

一口飲んだのを見届けると、ナースステーションで日誌を書く。

日誌には、『一時間ほどかけて経管栄養を終了する』と書いた。

岡本の様子を見ると、ココアを机に撒いて、掃き掃除のように手を動かしていた。

キレた。

「なに、してんだよ!」

「うんうん。これをこうせんと…」

「うるせぇよ。もう、寝るぞ」

こっちだって眠いのに、面倒ごと増やしやがって。

「イヤちや。やめてや」

そう言って、岡本は机から手を離さない。

腰を持って引っ張るが、びくともしない。

「くそっ!」

ココアを取り上げ、流しにぶん投げる。すべてを放ったらかしにする。

早出がくるまでに、元通りにできれば問題ない。

今は、とにかくコイツから離れないと。

ナースステーションの窓を全開にして、煙草に火を点ける。

クソが! 死ね! 年寄りなんてゴミクズが、早く死ね! なんで、若い俺らがお前らに苦しめられなきゃならん!

クソクソクソクソクソクソクソ。

認知症だかなんだか知らんが、あぁなったら、人間じゃねぇ。ただの、荷物。人間らしい生活なんて、ムリに決まってんじゃん。人間じゃねぇんだから。

数多の罵詈雑言が、心で渦巻き、さざ波が嵐になる。

吸っても吸っても、吸った気がしない。肺が痛くなっても、吸い続けた。


朝食後、田辺リーダーが経管栄養のご利用者様の居室へパット交換に行く。すぐに呼ばれた。枕や上着に、トロミ状の痕があった。

「これ、吐いてないかえ?」

確かに、経管栄養の液だった。

「あぁ、バイタル測ったときは、なんともなかったんですけど」

「教えたとおりにやったかえ?」

「ちゃんと、やりましたよ。一時間かけて流し込んで。疑うんですか?」

私は、嘘を吐いているというより、嘘を事実として思い込もうとしていた。

嘘を吐いていると認識している自分。

嘘を真実だと思い込もうとしている自分。

利用者に暴言、暴力をしていると認識してる自分。

それを悔いている自分。

いろんな自分に、心は引き裂かれそうだった。

「なら、いいけど。まぁ、看護師に報告するわ」

内心、ほっとした。

帰り際、久本副リーダーに昨夜の岡本の件を愚痴混じりに話す。

「もう、嫌になりますよ」

「あの人、もともと日曜大工が好きやったみたいやから。もしかしたら、それのつもりなのかもしれんね」

「そうなんですか?」

「そうなんですかって、情報提供書に書いてあったけど。読んでないの?」

生活状況、家族構成、病歴。

五〇人近くいる利用者の情報を細かく覚えられるわけがない。ただ、漠然と介護をしていた。

「あっ、そうでしたね。忘れてました」

「もう、そんなことも知らずに介護やってたんかって、びっくりするわ」

知ったことか! クソが!



年末になり、私は初めて職員の忘年会に参加した。

ホテルの大広間を貸し切り、病院や施設の関係者が一堂に会する。

酒が入ると、人間本性が出る。

村上春江と村上良太が人目も憚らず、痴話喧嘩していた。

「お前は、誰にでも、股開くんか、コラ」

「もう、違うやん。ただ、話してただけやんか」

迷惑この上ない。

食事もあらかた済んで、一息ついた頃、院長が登壇した。

「さぁ、皆さま、今年も、お待ちかね、この時間がやって参りました。タイムイズマネー。ご起立ください」

皆、我先に一斉に立ち上がる。

「なにが始まるんですか?」

隣の田辺リーダーに聞く。

「まぁ、楽しいことやき」

まったく意味がわからないが、私も立ち上がった。周りは、目をギラつかせていた。

「先生、お願いしますよ」

院長のツテで参加していた地方議員に猫撫で声を出しながら、院長が近づく。

そして、議員から院長に札束が渡された。

「さぁ、皆さま。私とじゃんけんをして勝った席の皆さんに、このお金を差し上げます。私たちから日頃の感謝の意を込めて、ささやかなプレゼントでございます」

はっ? マジか…。

えっ、これって、アリなのか。

「さぁ、くるで。手出しや」

田辺リーダーに促され、私は手を挙げた。

「じゃんけん、ポン」

私は初戦敗退した。負けた人間は、着席する。

「あぁ、くそぅ」

悔しそうな声が、あちこちから聞かれた。

そうやって、じゃんけんが進められた。

「ちょっと、先生、うちの従業員の数知らないんですか? こんなんじゃ、足りないと思うんですよね」

院長は、議員に言うと、さも「しょうがないなぁ」と言わんばかりに、また札束が積まれた。

「ちょっと、ちょっと。西田先生、議員の先生がこれだけお気持ちを見せてくれているのに、当院の医者のあなたが何もしないんですか? そんなわけないですよねぇ」

西田先生は苦笑いをしながら、札束を積む。

「皆さん、どうですか? 見えますか、これが!」

そういって掲げた手には、厚みが増した札束が握られていた。

「ここで、大チャーアンス。敗者復活戦。さぁ、また仕切り直しでございます」

「よっ、待ってました!」

と、全員が立ち上がった。

そうして、熱狂の渦の中、じゃんけんは勧められた。私のテーブルで生き残っているのは、厨房で働くマツコの愛称で親しまれている巨漢の女性だった。残るは、二人。

「じゃんけん、ポン」

マツコが、勝った。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」

同卓の人間全員が雄叫びをあげていた。

卓には、七人。

一人当たり、二〇万の儲け。

「いや、自分はいりませんよ」

「そうはいかんき」

久本副リーダーは押し付けてくる。

「キミ、いい加減、善人ぶるのはやめたら。本当は、欲しくてたまらんやろ」

田辺リーダーは、札束をもぎ取ると、私に押し付けた。

そして、私は受け取った。

「ほら、本当は欲しかったんやん。顔が笑ってるやん」

私は、穢れた。



新年を迎えて、野田看護師は看護師長に直談判して、看護師で唯一夜勤に入るようになった。

「夜勤、こなさんと、こっちが回らんのですわ」

親指と人差し指で輪を作る。

少しして、変な噂が流れた。

夜勤中、女を連れ込んでいる。

「久本が見たんやって。あの、ほら、劇の練習のときに、来とったやん。あの女」

「嘘でしょ?」

「いや、マジやって。野田に聞いたんよ」

「聞いたんですか?」

「本人も認めとったわ。ちょっと、話があってとか、なんとか。あれ、知り合いちゃうやろ。浮気相手やろ」

「だとしても、普通、仕事先に来ますかね?」

「ここがイカれてるんやろ」

人差し指を頭の横で回す。

「ほんま、あいつ、夜勤やりだしたのって、ここをホテル代わりに使おうとしたんちゃうの」

今では、その言葉を信じられる。

ここにいる人間は、そういう人種ばかりだ。



介護士の丸山里奈まるやまりなが退職した。看護師になるため、看護学校に通うそうだ。

有休消化の前日まで、半月休みを取っていた。久本副リーダーが本人から聞いた話によれば、

「別れ話になって。本気で殺されるんじゃないかってくらい殴られたんやって。だから、出勤できんやろ。顔もヤバかったで。ほんま、惨かった」

最終日。まだ完治していないのか、左目に眼帯を付けていた。

「良かったな。別れられて」

「…うん」

「殺されなくてよかった」

「…私が、バカだっただけ」

「解放されて、どう?」

「今度は、イケメンで細い男を選ぶよ。殴り返せるくらいの」

「丸山って、冗談言うんだな」

「知らなかった?」

初めて、丸山の笑った顔を見た。

とても、美しかった。



三月。

野田看護師が、逮捕された。

罪状は、詐欺。

夜勤明けの田辺リーダーは、誰から聞いたのかぺらぺらと喋る。

「やっぱ、あの女。浮気相手やったらしいわ。でも、あの女は、自分が本命やと思うとったらしい。結婚してたことも、知らんかったって」

「そもそも、どうやって知り合ったんですかね?」

「ナンパらしいわ。兵庫の芦屋からこっちに仕事で来てる感じを装って、声をかけたらしい。芦屋言うたら、金持ちのトコやろ。やから、女もノッたんちゃうか。結婚をチラつかせて、ズルズル金を引っ張るようになったと。父親が特殊な病気になって手術費用がかかるとかなんとか。ほんで、期日になっても返済せんから、女がおかしいと思って警察に相談に行って発覚したってさ」

「マジっすか」

「しかも、他にも女おったらしい。その全員から、金引っ張っとったらしいわ。あいつ、出勤してくるとき、いつもバカでかい鞄持ってたやろ。あの中に、大量のゴム入れとったらしいわ。何発やる気なんやろな」

おかしそうに笑う。

こっちは、まったく笑えない。

「そもそも、兵庫の芦屋出身っていう話が嘘やからな」

「はい?」

「たまたま、大学が兵庫やっただけらしい」

「自衛隊の話は?」

「嘘」

「嫁さんが東京で、海老蔵の」

「嘘嘘嘘。ぜーんぶ、嘘。嫁は、田舎出身やで。本人が言うてた。まさか、旦那がそんな根も葉もないこと言うてるとは思わんかったやろうな」

「なんで、そんな嘘を」

「さぁ…、まっ、病気やろ。嘘つかな生きていけん病気。まぁ、もともと休職してたのも、そういう理由やし。あいつ、病気なんよ」

野田看護師を初めて見た日のことを思い出した。

デパートで迷子になった子供。どうしてそう思ったのか。

縋るような、寂しそうな目をしていたからだ。

日勤が出勤してきた。

野田看護師の奥さんは、この世の終わりのような表情で、俯いていた。挨拶もなく、ただ黙々と仕事をしていた。

「ちょっと、聞いたよ。困るよ。野田君、大変なことになったじゃないの」

事務長が大声で駆け込んできた。

ナースステーションで作業をしていた奥さんは、その場で泣き崩れた。

「事務長。場所を弁えてください」

一喝したのは、元リーダーの安川大輝やすかわだいきだった。プロボクサーを

目指していたという異色の経歴の持ち主で、普段は温厚で、寡黙な人だった。今はビール腹で、当時の面影はない。

「あぁ、ごめん。本当にごめん。気が動転してて」

奥さんを久本副リーダーが、休憩室に連れて行った。

事務長はいたたまれなくなったのか、逃げるように去って行った。


昼休憩。

喫煙所とは名ばかりの裏口で、安川さんと煙草を吸っていた。

「アイツの人生、どこまでが本当なんや」

「本当だって、信じたかったんじゃないですか」

「ふうん。よう、わからんな」

そこへ久本副リーダーが来て、しゃがみこんで煙草に火を点けた。

「ねぇ、これ見て。ネットに書いてあったんやけど、野田、これ初犯じゃなくて、二回目やったらしい」

地方掲示板の書き込み記事を見せてくる。

確かに、記事の引用もあった。

一回目も詐欺。

「これ、院長がうちに引っ張ってきたのって。一回目が終わった後って、ことですよね。時期的に」

「なにが知り合いで、まったく。犯罪者仲間やないんかえ」

久本副リーダーは、汚らわしいと言わんばかりに怒っていた。

「確かに、院長も裏社会の繋がりあるみたいですしね」

「もう、勘弁してほしいわ」



私が遅出で、立石が夜勤で二人きりになった。

「あの、ちょっと、お話が」

「改まって、どうした?」

「昨日、私、忘れ物しちゃってて。八時過ぎに取りに来たんですけど」

その時間、二階は田辺リーダー、三階は仲村美和が夜勤に入っていた。

職員用出入口は、二一時までは自由に出入りができた。

「それで、三階の休憩室に行こうとしたんですけど、そこで、あの…」

「どうしたの?」

「田辺リーダーと仲村さんが、その、……してて」

「はっ?」

「コールも鳴ってるのに、二人とも、無視で。私、逃げました」

「マジでサイアク。もう、あの休憩室使えないじゃん。その前に、介護士として終わってる。なにが、仲村とヤるくらいなら死んだ方がマシだよ。クズが」

美人な彼女と別れ、溜まっていたんだろう。

女なら誰でもいい。

仕事をなんだと思っているんだ。

介護をなんだと思っているんだ。

マジで、終わっている。



六月。

院長が逮捕された。

罪状は、詐欺及び恐喝未遂罪。


私は、退職願を看護師長に出した。

じきに事務長と面談をすることになった。

私は、引き留める余地もないような突拍子もないことを言って、絶対に辞めようと考えた。

「作家になりたいんです」

そう言って、すべての引き留めを断った。

「そうか。夢があるんなら、仕方ないか」

事務長は諦め、看護師長はよくわからないという顔をしていた。



「夢があるっていうのは、いいことや」

安川さんが、喫煙所で煙草を吸いながら遠い目をする。

「俺は、諦めたけど、キミはまだ若い。なんにでもなれる」

「もう、三〇越えてますよ」

「ええか。人間、死ぬまでチャレンジできるんやで。夢は、なんぼあってもええ。頭の中は、自由や。だから、がんばりや」

さすがに、心が痛かった。



私が退職してから、田辺リーダーは夜勤専属のバイトになった。

理由は、看護学校に通うそうだ。

「介護なんて、やってられんで。先を考えるなら、看護師になった方がいいやろ。それに、看護学生の若い女、喰いまくれるしな」

この人の被害者が増えませんようにと願った。

「絶対、丸山のこと、根に持ってるんやって」

久本副リーダーは、そう分析した。


院長はうまく立ち回ったのか、裁判で無罪になったらしいが、さすがに院長の立場を退くことになったそうだ。



私は、二度と関わりたくなかったので、ラインの連絡先をすべて消去した。



それから、一年間、目的もなく、ただ介護はやりたくなかった。

昼間は、飲食店、夜はキャバクラでボーイをしていた。

ダラダラと時間だけを消費した。

創作意欲なんて沸いてくるはずもなく。

夢なんか、忘れていた。

一年経った頃、あらゆる一般職の正社員の求人に応募したが、すべて不採用。こんなことなら、大学くらい出ておくんだった。今さらながら、後悔した。



ふくし交流プラザ。

県内の福祉系の求人、福祉用具のレンタル、福祉系のイベントなどを引き受けている。

社協も入居団体として名を連ねていた。

初田先生も、ここの所属だった。

私が求人を探しに行ったとき、初田先生はいなかった。

求人コーナーの受付で応対してくれたのは、物腰の柔らかい妙齢の女性だった。

「ここは、どうでしょうか?」

提示された求人を見ると、給料面は問題なし。一番の魅力だったのは、夜勤がたった九時間で終わることだった。その代わり、夜勤手当は減額されていた。

「あの、正直な話、ここって、噂はどうですか? 退職率が高いとか」

「そうですね。こちら様では、そのようなお話は聞いてないですね。よそ様では、ありますけど」

私は、面接を申し込むことにした。

そこは、小高い山の上にあった。ちょっとしたお花見スポットで、春には満開の桜が咲き乱れる。近くには、浄水場があった。

『社会福祉法人坂の上の会 特別養護老人ホーム憩いの家』

それまで、まったく知らなかったが、坂の上の会は、保育園から特養まで手広く運営していた。まさに、ゆりかごから墓場まで。県内では、介護の黎明期からあり、「ここで働いていたなら、どこでも即採用になる」と言われるくらい有名な所らしい。

施設の隣には、運営している福祉専門学校があった。


私はまた着慣れないスーツに落ち着かない様子で、面接に行った。

出迎えてくれたのは、施設長と運営会社のお偉いさんみたいな人。あと、介護部長。

三名と対峙して、面接を行った。

「貴所の取り組みで、居酒屋というのを見まして。面白い、取り組みをしているなと思って」

「前職は、個人の意思を尊重して頂けたのですが、その分、チームワークに弱く」

「介護士として経験を付けるうえでも、特養で働いてみたいと思いまして」

どうせ落ちてもいいやと思い、その場で適当にウケのよさそうなことを言った。

そして、採用になった。

今度こそは、しくじらない。

なんて、思ってもいない。

できることをするだけ。

意見したり、余計なことは言わない。

ただ、働いて、給料が貰えたらそれでいい。

それ以上は望まない。

介護を始めて、四年が経っていた。
























「こんなに、まともな会社。初めてです」

つづく。

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