依存

医療・福祉関係に携わっている人間は、私が見てきた範囲で依存傾向が強いように感じた。

酒、煙草、異性、ギャンブル。

快楽に依存しないと、やっていけない。


介護副リーダー久本久美子ひさもとくみこは、身長は低く、褐色の肌に天然パーマの黒髪を後ろで結び、仕事中はノーメイクを眼鏡で隠していた。年齢は私より、かなり年上で、リハ助手の中島真由美なかじままゆみと同年代だと聞いた。

介護リーダー田辺淳一たなべじゅんいちの、悪評を並べ立てた。


「田辺は、昔、ここにおった男の介護士と二人して、この施設の女を何人喰えるか競争しよったことがある。二人合わせて、半分近くの職員と関係をもったがやき。股を開く女も頭おかしいやろ。あんな、チェ・ホンマンみたいな顔やのに、何がええんやろ。その当時、看護師と付き合いよったけど、DVが激しくて、一回顔に痣付けて出勤してきちょって。もう見られたもんじゃなかったき、帰ってくれって早退させたことがあった。元嫁とも、それで別れちゅうがやき。さすがに、子供には手出してないみたいやけど。あいつは、人の皮を被った悪魔や、気を付けないかんで」


田辺リーダーからの久本副リーダーの悪評はこうだ。


「あの人、旦那を若いときに亡くして、子供三人育ていうけど、旦那の死亡年金をたんまり貰いいうき、働かんでも余裕で暮らせるんよ。介護士やのに、ええ車乗りいうろ。あの人、金を酒に使うきね。飲み会とか行っても、酒癖悪い。もう、二度と行かん思うた。バーで、知らんおっさんの頭に植毛してやるって、爪楊枝を刺して血出てたからね。こっちが平謝りして終わったけど。次の日になったら、本人覚えてないし。多分、俺のこと悪く言いよったろうけど、あの人も男コロコロ変わるから。人のこと、言えんきね」


悪口を全職員分、毎日聞かされると嫌な気分になる。

気分が落ち込んでいく。

みんな、何かに狂っていた。



年末。久本副リーダーと数人の先輩たちは、介護福祉士試験のため、休憩中も勉強に勤しんでいた。当時は、三年の勤務実績があれば、筆記実技試験を受けるだけで良かった。ただ、実技試験だけは、県外で行われるのが難点だった。

ご利用者様の忘年会が行われ、お祭りのように出店を出していた。

この日ばかりは、栄養食やバランスといった概念はなくなり、好きなものを好きなだけ食べることができた。濃い味に飢えていたのか、普段からは想像もできないほど、食欲旺盛だった。


職員の忘年会は、ホテルで行われたそうだが、私は仕事だった。

年が明け、私は夜勤に入るようになった。

田辺リーダー付き添いの元、夕方四時半から明朝九時まで一六時間半の勤務。

ナースステーションで、看護師から申し送りを受ける。夕食、服薬、臥床、排泄、コール対応、日誌作成、排泄、コール対応、起床介助、朝食、服薬を延々こなさなければいけない。

病院のときと同じで、ご利用者様は日中の服のまま臥床される。パジャマに着替えたりしてたら、時間がいくらあっても足りない。

怒涛の忙しさが終わり、ほっと一息ついたのは、午前零時。

「寝るから、あとはよろしく」

田辺リーダーはリネン室から持ってきた布団を床に敷く。

「えっ、仮眠ですよね?」

「マジ寝よ」

スマホでアラームをセットする。

「コール鳴ったら、どうするんですか?」

「知らん知らん。運が良かったら、誰も死んでないやろ。手抜かんと、もたんで」

少しして、鼾が聞こえた。

本当に寝た。

ご利用者様の転落事故を経験しているとは思えない。自分には関係ないことだと割り切っている。

この人は、本当に、人の心があるんだろうか。

私は、朝までまんじりともせずに起きていた。



春になり、久本副リーダーと先輩は晴れて介護福祉士を取得した。

理学療法士として金子紗枝かねこさえが入社した。同じ理学療法士の蓼原恒夫たではらつねおの紹介らしい。

金子先生は、目の下に隈が常にあったが、ショートカットの茶髪に、細身の身体、愛らしい笑顔が魅力的だった。

ご利用者様にも笑顔で接し、春の陽射しのように暖かな印象だった。



私は、すぐに彼女の虜になり、一番接点のあったリハ助手中島さんの協力を得て、彼女と食事に行くことになった。

彼女は、首からたまごっちのようなものを下げていた。

「これ、万歩計なの」

何を食べたか覚えていないが、とにかく楽しかったことだけは覚えている。

食後、彼女は、大量のサプリメントを飲んでいた。

「これね、食べても太らないサプリなんだ」

また別の日に、彼女の車の中で、私の膝に横になったり。理性では、ドキドキしていたが、本能では違和感があった。

「今度、会わせたい人がいるんだけど」

彼女の言葉を鵜吞みにして、ノコノコ着いて行った。

旧日本家屋のような立派なお屋敷に入ると、彼女は二階に案内した。

二階の内装は意外にも近代的で、幼い頃に通った塾を思い出した。二部屋をつなげて、前に黒板とモニター。教室みたいに机と椅子が並んでいた。

「お元気様です」

品の良さそうな夫婦が出迎えてくれた。

「お元気様です」

大きな声で、彼女は挨拶する。

お疲れ様ではなくて、お元気様という聞きなれない言葉に困惑する。

「やあ、キミだね」

老年の男性に握手を求められた。

「はじめまして」

「まぁ、かけて待ってて」

言われるがまま、椅子に座る。

その内、数人の男女が「お元気様です!」と入ってきた。年齢層もバラバラ。

私は、なにが始まるのか、不安になった。

老年の男性が、教卓のような机に陣取る。

「はい、皆さん。お元気様です!」

「お元気様です」

口々に挨拶する。

「今日は、金子さんが新しい仲間を連れてきてくれました。拍手」

「わぁぁぁぁ」

拍手を浴びる中、自己紹介をさせられる。

老年の男性は、教師のように流暢に語った。

「みんなは、夢のために頑張ってますか! そう、頑張っているよね。自分のやりたいことのために、頑張っている。だから、疲れることなんてないよね。だって、自分の夢のためにやっているんだから。普通は、お疲れ様ですって挨拶するけど、我々は、一般人とは違い、夢や希望を持って一分一秒を生きている。いつも元気。だから、お元気様ですって挨拶をしてまぁす」

また、拍手が沸き起こる。壇上にいる老年の男性は、若々しく溌剌としていたが、椅子に座った者は、皆、目の下に隈を作り、無理やり笑っているように見えた。

昭和の特撮ヒーローで、怪人に操られた人間は目の下に隈ができる。それを思い出した。

そして、一人ずつ立って、目標を達成したとかの発表を始めた。達成すれば、「良かったね」「おめでとう」と、みんな、拍手する。

「これはね、ディズニーランドに行ったときに買ったんだけどね」

男性はスマホケースを掲げた。

「これ、今でこそ、日本でも発売されてるけど。このときは、まだアメリカにしかなかったからね。どう? すごいでしょ? もう、アメリカなんて、何回も行き過ぎて、飽きちゃったよ」

そう言うと、笑いが起こった。


私は、冷めていた。

あぁ、やっぱり、本能というか、直感を信じていればよかった。

恋愛感情は、人の心を曇らせるなぁ。

なんて、考えていた。


「どうだった?」

彼女に尋ねられた。

「どうって…。これ、マルチだよね」

アムウェイ。オーガニック食品や化粧品、シャンプーを販売している。

「そうだよ」

「なんか、騙すようなやり方が気に入らない」

「だって、普通に言ったって、来ないでしょ」

彼女の中にも、マルチ商法はヤバいという認識があるのだろう。

「私は、たった一度きりの人生なんだから。お金に困りながら生きたくないの。これを理解してくれないんだったら、私は付き合えない」

なるほど。恋愛を餌にして、骨の髄までしゃぶりつくす気か。

私の恋愛は、早々に終わった。


中島さんが言いふらし、私の恋愛は知れ渡ることになった。

田辺リーダーに尋ねられたので、ありのままを告白した。

「はぁ? あの女、信者増やそうとしてるやん。勧誘活動は、規定でいかんきね。クソが、女のくせに、舐めやがって。俺の全権力を使って、あいつ追い出したろうかな」

「できるんですか?」

「伊達に十何年も働いてないきね。ほんま、ムカつくわぁ。あぁいう、男を舐めた女は、レイプしたろかな」

「はい? ちょっと」

「キミもキミや。いいようにされて腹立たんのか!」

「まぁ、腹は立ちますけど」

「女なんてものはさぁ、ちょっと甘いこと言うて、めっちゃ厳しくして、自分の頭でモノ考えられんようにしたら、すぐ股開く生き物やからな」

この人は、女性に親でも殺されたんだろうか。

「もう、いいです」

誰とも話したくなかった。


それから少しして、介護士の鈴木卓也すずきたくやが金子に金魚の糞のように付き纏うようになり、やがて首から万歩計を下げていた。

みんな、見て見ぬフリをした。



私が依存しているのは、煙草だ。

この頃から、あきらかに煙草の量が増えた。チェーンスモークどころではなく、煙草を咥えていないと不安になるほどだった。

また、休日は、何もしたくない状態だった。


夜勤の深夜。

排泄介助が一通り終わったはいいが、時間がかかりすぎて次の排泄介助まで、もうすぐだった。

二階ナースステーションの窓を開け、煙草を咥えるとセンサーコールが鳴った。

舌打ちして訪室すると、岡田信夫おかだのぶおが部屋の中をウロウロしていた。

「ここは、雨漏りしちゅうね」

衣服は全身濡れ、ベッドも同じだった。

「はい、着替えましょうね」

手を伸ばすと、跳ねのけられた。

「まぁ、まぁ、待ちや」

「濡れてますから、風邪ひきますよ」

その言葉に、衣類を触り、その手を私に擦りつけてきた。そして、廊下に出ていこうとしていた。

「岡田さん、着替えましょう」

「もう、やめぇや」

大声をあげられる。

私の中で、何かがキレた。

身体を抱えて、無理やり部屋の中に戻そうとした。

「おおの、なにするがで」

岡田さんは、扉の取っ手を掴み、渾身の力を籠める。私が全力で引っ張っても、びくともしない。こんな年寄りのどこに、これほどの力が残っているのか。

「着替えろや!」

私も大声をあげ、無理やり服を脱がせる。

「どんだけ、迷惑かける気なんや‼ クソが!」

心の中で燻っていた感情が爆発した。

なんとか、更衣が終わったかと思えば、今度はショートステイを利用していた葛葉治くずのはおさむが、杖をついて出てきた。

「どうしたの?」

「小便」

トイレで小便を済ませた葛葉が廊下に出てくると、股間部が濡れていた。

「はい、葛葉さん。ちょっと、濡れてますから、着替えましょう」

声掛けすると、杖を振りかざして、私の腕をしたたかに打ち付けた。

「触んな!」

「お前、ちょっと、こっち来い」

胸倉をつかんで居室に誘導し、ベッドに横に押し倒す。

ズボンを更衣する。

「クソが! こっちがなんもできんと思うて、調子に乗って。死ね! クソが!」

吐き捨て、廊下に出る。

煙草を吸って、一息つく。まだ、廊下を岡田が彷徨っていた。

落ち着いてくると、胸に罪悪感が押し寄せる。

俺は、なにをやってんだ。

クソクソクソクソクソ。


仕事が終わり、家に帰っても気分は晴れない。

なんで、あんなことをしたんだろう。

もっと、他にやりようはあった。

気分は落ち込み、食欲もなく、ただ煙草の本数だけが増えた。

片頭痛、吐き気に休日は潰れた。


夜勤明けで出勤すると、岡田様の腕に皮下出血ができていた。

「これ、なんでか知らん?」

田辺リーダーに聞かれた。

どう考えても、あの更衣をしたときだ。腕を強く握ったから。

「…いえ、わかりません」

嘘を吐いた。

自己保身のために。

「そっか」

普段の勤務態度のせいか、それ以上追求されなかった。

今度はバレないようにしないと。

一瞬、その思考が脳裏をよぎった。

いや、違う違う違う。

私は、自分が怖くなった。



ある日、入浴介助が終わり、介護士の丸山里奈まるやまりなと浴室の掃除をしていた。丸山は、田辺リーダーと付き合っていた。まだ、若く二一歳だった。線が細く、フランス人形のような彫りの深い顔立ちは日本人離れした美しさがあった。今はその顔は、吹き出物だらけだった。

彼女の短パンから伸びたふくらはぎに、皮下出血ができていた。

「足、どうしたの?」

「……ぶつけた」

「そうなんだ」

田辺リーダーの悪評を思い出す。

「単純な疑問なんだけど、ここだけの話。田辺さんと、どうして付き合ったの? 年齢も離れてるし、見た目も、その、丸山ってイケメンとか好きそうだし」

「高校の頃は、本当に、顔だけで選んでた。ただ、あの人のことは、顔とかじゃなくて、心の底から尊敬できるって思えたから。こんな感情、初めてだったし」

「その割に、楽しそうに見えないけど」

丸山は陰鬱な表情だった。

「なんかさ、土日は子供がうちに来るんだ。あの人の子供だから、かわいいんだけど。私、なにしてんだろう。赤の他人を家にあげて、ご飯作って。家政婦かなんかなのかなって、思っちゃうんだ。付き合ってても、……孤独だよ」

「…別れたら?」

「それができたらね」


人は生きるために、自分の幸せのために、大なり小なり依存する生き物だ。

ご利用者様は、その自由を奪われている。

じゃあ、私たちは、依存できて幸せなのか?


浴室の鏡に映った自分の顔は、髪の毛はボサボサで、頬がこけ、顔色は悪く、目の下に隈ができていた。



ストレスを抱え、何かに依存して気分を紛らわそうとするが、さらにストレスを抱えることになる。

悪循環。

みんな、狂っていた。


「丸山、いつか殺されるんじゃないか?」

鏡の中の私は、口角をあげ笑っていた。





















「アイツの人生、どこまでが本当なんや」

つづく。

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