牢獄
医療法人三光会老人保健施設やわらぎ。
経営母体は永富病院で、地元のダンスイベントでは毎年優勝候補のチームも有していた。
施設の二階ホールは吹き抜けになっていて、デザイン性はあるが、危ないなと思った。
前方は海に面していて、施設の二階からはオーシャンビューを一望できる。
裏手は山になっていて、災害時はそこに逃げるように指導されていた。
介護チームのリーダー
田辺さんは愛想よく笑うと、施設を案内してくれた。
「ここは、患者様はな――」
「患者じゃなくて、ご利用者様ね」
「すいません。病院のクセが」
「病院は病気を治すとこやき、患者で合っちゅうけど。施設は生活の場やき、利用者って呼ぶ」
「わかりました。ここは、ご利用者様は何名いらっしゃるんですか?」
「二階が三〇名、三階が一七名やね」
病院のときと、数字的には同じだ。
「夜勤は何名なんですか?」
「各フロアに介護士一人だけ」
「はっ?」
マジか。
「二階に入ったら、一人で起床介助をするってことですか?」
「もちろん。時間に追われるで」
病院のときは、少なくとも二人、早出も来たら三人でできていた起床介助を、たった一人で。ムリだ。目の前が、真っ暗になった。
「利用者コケたら、事故報告書、書かんといかんきね。くれぐれも、ないようにね」
病院では動く人がいなかった分、事故なんてなかった。いまいち、ピンとこなかった。
「はい、がんばります」
「質問あるかえ?」
「ここって、老健ってことは、皆さん、目途が立ったら帰ったりできるんですか?」
「老健が、リハビリもして、在宅復帰をさせるって言うのは建前で。みんな、ずっといるから。一度入ったら二度と出られない。牢獄と一緒よ。悪いこともしてないのにね。キミは、入りたいかえ?」
田辺さんは、つまらなさそうに言う。
「…いや、自分は――」
「俺はムリだね。こんなとこに世話になる前に、死にたいね。長生きはするもんじゃないで」
個人の主義主張は尊重する。しかし、介護リーダーという立場では、いささか不謹慎すぎた。
二階ホールに戻ると、数名の職員が排泄介助をしていた。職員が後ろから支えて、歩行器で歩かれているご利用者様。車椅子で誘導されるご利用者様。トイレで排泄をしていた。
「おお、トイレで排泄するんですね」
「当たり前やん。あぁ、そっちは病院やもんね。基本的に、介護は、本人の残存能力を維持または向上させる。本人にもできないことは、介護が手伝うってことやからね。当然、トイレで排泄してもらう。それが、人間らしい生活やからね」
私は当たり前のことに、驚いていた。
「ってことは、オムツの人はいないんですか?」
「今は、おらんね」
田辺さんは、一人の女性ご利用者様にトイレの声掛けをした。
「いや、いかん」
大声で拒否される。
「まぁ、そう言わんと。おしっこせんかったら、病気になるで」
ご利用者様の椅子を力づくで半回転されると、歩行器を設置する。
「もう、行かんと言うろうが」
「はいはい、行くよ」
田辺さんはズボンを持ち上げて、むりやり立たせた。
「ああああああ」
絶叫するご利用者様。
私の脳裏に、初田先生の講義が思い出された。
「立ち上がるときに、ズボンを持ち上げる人がいますけど、これは最低の介助方法です」
今、目の前でそれが起きていた。
「はい、じゃあ、誘導して」
「えっ、したことないんですけど」
「何事も、経験だから」
恐る恐るご利用者様の歩行器を持つ。
「トイレまで行きましょう」
「イヤ!」
そういうが、歩行器にもたれるように身を預けながら、しっかりご自分で歩行できていた。
個室に入ると、田辺さんに指導してもらいながら、ズボンと紙パンツを下ろして、便座に座ってもらえた。紙パンツの中には、排尿に染まったパッドが入っていた。
「プライバシーがあるから、見守るときはこっち。人に見られてたら、出るもんも出んきね」
田辺さんに促され、カーテンを引いて、表に出る。カーテンの隙間から様子を伺う。
「もう、いらんことして」
怒りは収まらない様子だが、少ししてチョロチョロと排尿の音がした。
「もう、ええかね」
田辺さんが問いかける。
「ええわね」
新しいパットを持って入る。
「ちゃんと、拭きや」
田辺さんはティッシュを手渡す。
「もう! アホ、バカ」
ご利用者様はティッシュをひったくり、股間を擦るように拭いた。
「死ね、アホ」
そう言うと、股間を拭いたティッシュを私に投げつけた。避ける間もなく、ティッシュは顔面に当たって、床のタイルに落ちた。
一瞬、黒い欲望が心の中で蠢く。
「こら、そんなことしたら、いかんやん」
田辺さんは、ティッシュを便器に捨てる。
「じゃあ、行きましょうか。立ちますよ」
ありったけの自制心を総動員して、平静を装う。
無事、ホールまで誘導すると、自席に座って頂く。
「いきなり、災難やったね」
「あぁ、そうですね」
「キレたらいかんきね。こっちは、なにされても黙って耐えないかん」
「そう、ですね」
「まぁ、利用者のことは、動物園のサル程度に思っとけば。サルに小便ひっかけられても、所詮、サルやしなで終わるろ?」
「…はあ、まあ」
曖昧な返事しかできなかった。完全に否定しきることができない自分が嫌だった。
「おはようございます」
リハ助手の
軽く挨拶をすると、私も手伝う。
テレビでは朝のワイドショーが垂れ流されていた。
介護士は水分のジュースを提供する。トロミが必要なご利用者様には粉を入れるが、注意点として白い粉が片栗粉のように溶け切らず、ダマになることがある。ただでさえ、嚥下能力に難があるご利用者様にそのまま提供すると、誤嚥の元になる。私は飲んだことはないが、トロミを入れると味が不味くなるらしい。
液体から、ほぼ個体となったジュースをご利用者様に提供する。リクライニングチェアをまっすぐにして、介護用品の食事用エプロンを付ける。ご利用者様に対して、脚を開き、斜め四十五度に位置する。
「はじめまして。今から、ジュースを飲みます。私がお手伝いしますからね」
声掛けをすることにより、ご利用者様に今から何をするかを知ってもらう。誰だって、いきなり口にスプーンを突っ込まれたら、びっくりするだろう。
ジュースをスプーンで掬って、口に運ぶ。
意思の感じられない表情に、口だけは反射的に動く。スプーンに入ったジュースを受け入れると、ゴクっと音を鳴らして飲みこむ。
「おいしいですか?」
声掛けに、目線だけで反応があった。
たまに、むせ込むことがあった。口から霧のように噴射されたジュースは霧散し、すかさず口にタオルを当てて、背中をタッピングする。
落ち着くと、また再開する。
トロミは嚥下しやすくなるメリットもあるが、デメリットとしては誤嚥をする可能性がある。
誤嚥とは、唾液、食物、水分が本来なら食道を通るのだが、誤嚥して気管に入ることがある。これは若い人間でも起こることで、むせたりして(喀出機能)異物を吐き出そうとする。しかし、ご高齢のご利用者様は、むせる力もない人もいる。そのまま、肺の中で菌が増殖し、誤嚥性肺炎を誘発する。
塚本看護師長から聞いたことがあった。人間には気管に異物が入らないように、蓋がされている。年を取ると、その蓋が緩くなり、誤嚥しやすくなる。
介護士を続けていると、違和感はすぐにわかる。声がガラガラと痰絡みのようになったり、食事や水分を摂取しなくなったり。最後は高熱が出る。
だからなのか、介護士の中には「むせ込むうちは、まだマシ」と言う人もいる。
トロミを過信しすぎるのも禁物で、付けすぎ固まりすぎて、喉元で留まっていたり。介護士の無知で、トロミでゴクゴク飲めるからと提供し、誤嚥を発生させることもある。
まさに、諸刃の剣。使い方を間違えると、ご利用者様を殺しかねない。
「さすがに、手馴れてるやん」
田辺リーダーは、テレビをぼうっと見ながらチラチラと私を観察していた。
他の職員も、似たような感じで、完全に作業化していた。誰も、ご利用者様と話していなかった。テレビを見ながら、介助している職員もいた。ご利用者様と話すときは、口からジュースを溢したり、飲みたくないと拒否されたときだけ。
昼食前には、ラジオ体操を実施した。少しでも活動量を上げて、空腹を感じてもらうためだが、ほんの数分ではあまり効果はない。それに加えて、口腔内体操『パタカラ体操』がある。これは、舌や口を動かして「ぱ、ぱ、ぱ」と発声することにより、唾液の分泌を促したり、嚥下能力の維持が目的だった。
昼食になると、厨房の職員がエレベーターであげたワゴンを回収して、一斉に配膳する。私は、名前と顔を覚えながら、配膳を行った。
昼食介助も同様に、ゆっくりと声掛けをしながら行った。
「最初やし、経験者やからあんまり言わんけど。そんなゆっくりやってたら、終わらんで」
田辺リーダーは、つまらなさそうに言う。
「すいません。がんばります」
私が、一人のご利用者様を介助している間に、ほぼすべてのご利用者様の介助が終わっていた。
「食べとうない」
食事を拒否するご利用者様もいた。
「食べな元気でんで。はい」
田辺リーダーが介助をすると、口を開けて咀嚼する。
「もう」
苛立ちや諦めといった表情をさせながら、辛そうに嚥下する。
病院のときもそうだった。
介護は、基本的に様々なリスクがある。すべてのリスクは潰しようがない。だから、どっちを取るかの選択を迫られる。
ご利用者様の自立支援が目的ではあるが、介助してもらうのが楽だからと介助待ちのご利用者様もいる。そんな人に、いくら声掛けで正論を言ったところで、相手にされない。それなら、介助してでも栄養を摂取してもらった方がいい。その短絡的な思考が、介助量を増やし、回りまわって介護士を苦しめることになる。
日本の法律上、モラル上、常識価値観に照らしても、利用者が栄養を摂らず死に至るか、介助してでも生かすかは火を見るより明らかだった。
また、日本のシステム上、絶対に死ねない。食事を口から摂取できなければ、胃に穴を開けてチューブを繋ぎ、直接栄養を流し込む
『ゆるやかな死』と呼ばれる自殺も許されない。
海外では、本人の意思を尊重する、またはすべて自己責任という文化があるため、本人が食事を摂らず、死に至ったとしても、それが本人の意思なら仕方なしと考えられているらしい。
そこが、日本の美徳だと思う。
食事が終わると、看護師が服薬介助を行う。
基本的に、食後二時間は横になってはいけない。
皆さんも、飯を食ったあとに、眠くなって、そのまま横になったときに、ゲップと一緒に中身まで逆流して出そうになったことがないだろうか。
逆流を防ぐために、食後二時間は横になってはいけない。だが、そんなに待てるわけもない。なにより、ご利用者様が辛い。病院のときもそうだが、ベッドをギャッジアップして対応する。
もしくは、左側臥位で臥床する。胃と食道、気管がほぼ同じ高さになり、逆流が起こりにくくなるためだ。
服薬介助も終わると、口腔ケアを行う。
歯磨きも舐めていると、最悪死に至る。唾液を分泌しないと、口腔内に細菌が繁殖する。食事も摂取できなくなる。
誤嚥リスクの高いご利用者様には、布や脱脂綿を指に巻いて口腔内を清掃する。手袋越しとは言え、人の口の中に指を突っ込むのは気分の良いものではない。ご利用者様はもっとイヤだろう。
リクライニングチェアのご利用者様を多床部屋の居室に誘導すると、田辺リーダーと二人で二名介助を行う。車椅子と身体に仕込まれた、タオルを持ってベッドに移乗する。
「やっぱり、タオルって怖いですね」
「まぁ、ここは、院長ケチやからね。なんも買ってくれん。あの人は、私腹を肥やすことに一生懸命やきね」
「そうなんですか?」
「えっ、知らんがや。有名やで。あの人、地方議員とか反社とも関わりあるきね」
「マジっすか」
スキャンダラスな内容に、いまいち絵空事のように感じる。
「ここって、病院では、ごみ処理場って言われいうきね。利用者もそうやし、使えん職員は、こっちに回される」
「ひどいですね」
新人にする話ではない。気が滅入ってくる。
私は、とんでもないところに就職してしまった。
陽射しが強かったので、カーテンを閉めようとしたとき、窓が視界に入った。窓枠の下に、ロックするためのストッパーがあった。
「これ、なんですか?」
「それ以上、開かんようにするためよ」
「なんでですか?」
田辺リーダーは、またつまらなさそうな顔をする。
「昔、俺が夜勤の日に、利用者がおらんなったんよ。カーテン開けたら、窓が開いてて。下覗いたら、落ちちょった。慌てて、懐中電灯持って、下に行ったら、即死してるのがすぐにわかった。コンクリートに頭カチ割られて、脳みそぶちまけとったから。あれは、キモかったわ。ほんで、警察呼んで、なんやかんやあって、窓にストッパー付けることになったがよ。認知ある人やったきね。なんかの拍子に、落ちたんやろ」
世間話で語るには重すぎる。しかも、ご利用者様の前だ。言葉を発することはできなくても、意思はある。目や体の動きで伝えられるのが証拠。
田辺リーダーに悔いたり、反省したりする様子は微塵もない。
「それは、大変でしたね」
ご利用者様とは別の窓のクレセント錠を回し、窓を開けてみる。小顔の人や子供ならギリ顔を出せる程度しか開かない。閉塞感に息苦しくなる。
「そんとき思ったがやけどね。利用者、突き落として殺しても、事故で処理されるがやないかなって。これって、完全犯罪ってやつ?」
田辺リーダーは、なにが面白いのか笑っていた。
この人、狂ってる。
人の命を、なんだと思っているんだ。
そんな人が、リーダーをしている。
背筋に、氷水を垂らされた気分だった。
館内全面禁煙につき、喫煙者は施設の裏口で煙草を吸うことになった。携帯灰皿を持ち、壁に背を預けて座り込む。近所からの目があると苦情になるからと、不良中学生みたいに、肩身の狭い思いをしなければいけなかった。
先輩たちの話を聞いていると、職員や利用者の悪口に華が咲いていた。
どこも、一緒だな。ここで、どれだけ働けるだろう。
早くも、辞めたくなった。
午後は、介護日誌を介護士総出で書く。なんせ、全員分の記録を、手書きで仕上げなければいけない。
パソコンくらいないのかよ。これも、院長がケチったせいだろうか。
先輩たちは、世間話をしながら、日誌を書いていた。
その間、ご利用者様が席を立とうとたり、動いたりすると、
「はい、動かないでね」
「はい、立たないで」
「危ないき。座っちょってね」
大声で声掛けをするだけで、誰も動かない。
私はさすがにどうかと思い、席を立とうとすると、
「いいから。先に日誌仕上げて」
「でも」
「いいから。見て。この量」
「はぁ」
私も、同罪だった。
席に座り、日誌を仕上げる。
反抗して、立ち向かっていけるような。そんなヒーローみたいな人間ではない。
介護には、ケアマネージャーが作成した、ケアプランというものがある。ご利用者様に対して、どのようにケアしていくかの行動指針のようなもので、長期目標、短期目標がある。
例えば、長期目標が食事の自力摂取だとする。
短期目標は、箸やスプーンを使えるように支援する。嚥下・咀嚼能力の維持向上。口腔内体操を実施して、唾液分泌を促す。
一例としては、長期目標を達成するために、短期目標があるみたいなイメージ。
病院と同じでリハビリ専門の理学療法士はいるが、ケアプランに記載されている簡単なリハビリは介護士が行う。歩行訓練、立位訓練、口腔内体操。
田辺リーダーに付き添われながら、リハビリもこなした。
一日が終わり、家に帰ったときはクタクタになっていた。
飯を食うのも、風呂に入るのも、億劫に感じる。
「続けられそうかえ」
帰り際、田辺リーダーに聞かれた。
「えぇ、まぁ」
「介護なんて、続けるもんじゃないけど」
また、嫌みな笑い方をした。
病院と違い、ご利用者様の様子を観察していると、共通している点があった。ティッシュを、ポケットが膨らむくらい溜め込む。バッグを持っている人は、バッグに溜め込む。
認知症状に収集癖がある。ティッシュ、トイレットペーパー、ナプキン。主に紙類が多い。
例えば、口を拭いたり、鼻をかんだりするために、ティッシュをポケットに入れる。けど、それをすぐに忘れて、気付けば溜め込んでいる。
人によっては、ストレス症状の現れだとも言われる。
使用したティッシュを、キレイに折りたたみ、またポケットに戻そうとする。
「汚いですよ。捨てましょう」
「もったいない」
ムリに取ろうとしたり、否定すると、烈火のごとく怒られる。
余計に収集癖を促進することになる。
戦中を生き抜いてきた人たちだからなのか、トイレットペーパーも短く切り取る。ほとんど、手で拭いている状態だ。
「もっと、使っていいんですよ」
私が手渡そうとすると、
「そんなに使って。もったいない」
顔を顰められたことがある。
欲しがりません、勝つまでは。
戦争で得た習慣は、何十年経っても変わることはなかった。
ご利用者様に積極的に話しかける。
病院とは違い、ご利用者様と談笑しても、サボりとは言われなかった。むしろ、表面上は推奨されていた。
戦争の体験談、昔の生活習慣を知る経験になった。
男性のご利用者様は、特攻隊で散るはずだったが、その前に戦争が終わったと悲しそうな顔をされていた。
「戦争が終わって、やった生き残ったと本音では思うたけど、先に逝った仲間たちのことを考えると、悪い気がしてねぇ。英霊になれんかった。あと何年生きるのか知らんけど、あっちに行ったら、一言、謝りたいねぇ」
恥ずかしそうに笑う顔を今でも覚えている。
「……ねぇ、もう殺してくれんかえ。死なせて」
そう、涙するご利用者様もいらっしゃった。
「何を言ってるんですか。これからも、長生きしてくださいよ。ご家族の方も、悲しみますよ」
「家族なんて、誰も来んやないか。私をこんなとこに捨てて。気が狂いそうになる。早う、死にたい」
「そんなこと、言わないでくださいよ。私たちも、できることはしますから。死にたいなんて言われると悲しくなります」
「勝手なこと言って。ここは、イヤ。なんもできん。こんなとこにおるくらいなら、死んだほうがマシや。ここは、牢獄かっ‼」
「はいはい、ごめんね」
田辺リーダーが割って入り、興奮したご利用者様を宥め、私を隅に追いやる。
「あぁいうのは、流せばええんよ。真面目に取り合いよったら、よけい興奮しだすから」
「でも、死にたいなんて」
「だから、日誌には残してないやろ」
「それって、いいんですかね。本当の現状を、ご家族に伝えないと」
「伝えて、どうなるがで。毎日、死にたいって泣いてますって言うんかえ。正論なんて、なんの役にも立たんがよ。介護では」
「でも、伝えたら、面会にも来てくれたり」
私にも経験がある。家族が認知症で、自分のこともわからなくなった姿を見るのは辛い。
田辺リーダーは、鼻で笑った。
「まぁ、家族も忙しいきね。面倒見れんき、うちに預けちゅうがやき。それに、あの人の家族。介護保険や年金を食い潰しちゅうきね。親の脛を、骨までしゃぶる気や」
「どうして、わかるんですか?」
「あの人の息子、事業に失敗して、今は借金で首回ってないって。かなり前に面会に来てたときに、ぽろっと言いよって。それに、あの人、あぁ見えて介護度五やで」
確かに、ご利用者様の日誌を読んでいて、介護度と現状が一致していない方が見受けられた。認定調査を受けたときより、症状が軽くなったのかな程度にしか思っていなかった。
「それは、状態が良くなったってことじゃないんですか?」
「はぁ? 本気で言いいうが? 良くなるわけないやん。介護度五って言うたら、寝たきりやで。となると、結果は、わかるやろ」
介護度のごまかし。
介護度が高いほど、支給される額も増える。
「でも、さすがに、ムリがあるでしょ」
認定調査は、主治医意見書、訪問調査、一次判定、二次判定、審査会を経て、厳正な審査が行われ決定される。
「これが、介護の不思議ながって。認定調査員や医者の前で、黙って横になっちょったら。調査員なんて、その場のことくらいしか知らんから。普段の様子も聞き取りくらいやから。一次判定でパソコンにかけて、二次判定で会議して。それでも、罷り通ってるんよ」
「ウソですよ。さすがに、ムリがありますって。全部、想像じゃないですか」
「主治医は、うちの院長。本当にムリかはわからんでぇ。実際、家族も来てないし。菓子の一つも持ってこん。夏服冬服も置きっぱなしで、替えにもこん。ボロボロになってるんでって電話しても、捨ててくださいの一言だけ。そんなもんやき、家族なんて」
私は、あまりの情報量に閉口するしかなかった。
「任侠ヘルパーとかヘルプマンとか見たんか知らんけど、あんなお涙頂戴の感動話、現実にあるわけないやんか」
田辺リーダーは、嗤った。
「そうかもしれないですけど。そんなの、かわいそうですよ。報われないっていうか」
「そういう無責任な発言が、苦しめてるんよ」
「誰をですか?」
「利用者本人に決まっちゅうろ。俺だって、こんなとこにおったら、死にたくなるわ。パチンコもセックスもできん。生殺しもええとこ。かわいそうなんて、ずいぶんと高いところからモノ言うやん。長生きしたいなんて、本人も望んでないがで」
善人の顔をした悪人。
そこまで言われても、なにも言い返せなかった。ただ、消化できない感情を押し殺すことだけしかできなかった。
「……孤独だよ」
つづく。
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