悪意

鈴木寅すずきとら様(名前ではわかりにくいけど女性)は、ガリガリにやせ細り、鼻にチューブを装着して、いつもメイバランスを飲んでいた。家族が面会に来たことはない。

夜中になると、「寂しい寂しい寂しい」と頻回にコールを鳴らし、様子を見に行くと泣きながら職員の手を掴んで放さず、寝付くまで手を握るしかない。

不安、孤独、絶望。すべての感情が、握る手の強さになって伝わってきた。


「うるさいねぇ、早う寝ぇ」

「あんただけじゃ、ないんだからね」

「甘えるな! いいかげんにせぇ!」


心無い罵声。

挙句の果てには、コールを外す。

朝になると、バレないように繋ぎなおす。


心苦しいが、なにもできない。

いや、できたはずだけど、やらなかった。


私と先輩看護助手の安村環やすむらたまき塚本美恵子つかもとみえこ師長が夜勤のとき、容態が急変。

師長は、ほぼかかりっきりになり、やがて家族に電話をかける。

「どう見積もっても、今夜だね。こりゃ、バタつくなぁ」

安村は、年下の先輩だが、いつもほんわかとしていて決断力はない。金銭的に苦しい患者様に自腹でおやつを購入するお人よしでもあった。

緊迫した状況に、彼女は不安そうな表情で佇むばかり。

「他の患者様には悪いけど、排泄を早めにまわろう」

そう提案すると、コクっと頷く。

「あぁ、そっちの方が助かる」

師長も、後押しします。

排泄を回っているとき、師長が手を握っている姿が見えました。


朝、患者様の起床介助をしていると、院長と師長が寅様の居室から出てきました。

院長はパジャマ姿に寝起きの顔、ぼさぼさの頭であくびをしながら「あとは、よろしく」と言って、すぐ近くの自宅に帰りました。

「今、逝ったよ。一応、アイツを呼んで、時間とってもらわないといけないからね」

院長からしたら、ただ患者が一人減っただけ。

私からしたら、初めての患者様の死。

「院長なんだから、あんな格好で来なくても」

「アレでもマシになったほうさ。昔なんて、患者が死んでから連絡してこいって言ってたからね」


淡い朝日が後光のように、白い布を被った患者様を照らしていました。

安村は泣きじゃくっていました。

「泣くんじゃない! 痛いとか辛いとか、厳しい現実を、精一杯、生きてから旅立たれたんだ。せめて、最期は笑顔で見送ってあげなさい」

塚本師長が、優しく諭すと、安村は涙を拭いて、師長と一緒に清拭をするため居室へ。


このときばかりは、誰も争わず。ただ、静謐なときが流れた。


私は、死に目にもあえず、泣くこともなく。

もう、手を握ることはないんだな。

ぼんやり、そう思った。



介護療養病棟は人員不足のため、一般病棟から佐藤美波さとうみなみが異動してきた。誰よりも、異動を望んでいた男は、もういない。

山田邦夫やまだくにお様は、アンパンマンそっくりの赤ら顔で、女性職員が近くにいるとニコニコされていた。

尿道にカテーテルを装着されている方だが、自慰行為を行う。しっかりと射精するので、カテーテル内に精液と思しき物体が詰まっていることがあり、通常より早いサイクルで交換を行っていた。

「キモっ」

佐藤は、山田様を車椅子へ移乗し、バルーンカテーテルから繋がったウロガードを袋に入れて車椅子に吊るした。

カテーテル内の白い液体の真実を知り、思わず本音が出た。

「おい、本人の前で」

「そこまでして、オナニーしたいですか?」

「直球すぎんか?」

山田様は佐藤に気をよくしてニコニコしながら、豊満な胸に手を伸ばした。

「最低」

佐藤は身を引き、軽蔑の眼差し。どんな状況でも、セクハラをしていい理由はない。

人としての営みもすべて白日の下に晒され評価されてしまう。

ここに、自由はない。



北岡隆三きたおかりゅうぞう様は、一年中、ランニングシャツに短パンで過ごしていた。坊主頭に、ほぼ抜け落ちた歯。トイレに行くだけの能力はあるが、排尿は尿器に、排便はポータブルで行う。済めば、コールボタンで教えてくれる。恥じらいもなく個室のドアを開け放したままされる。気がついた職員が閉めるのが常だった。

関西に住んでいたことがあるのか、関西弁で、話好きで職員と談笑しては瓶に詰められた飴をくれた。断ると、やや怖い顔になり「遠慮せんでええから」と言われる。先輩達からも、貰わないと終わらないと言われた。皆、飴はゴミ箱に捨てていた。理由は『汚い』から。

看護助手の副リーダー、細田実鈴ほそだみすずは、名前に似合わぬ巨体を揺らし、膝にテーピングを巻いて「あぁ、膝が痛い」とボヤいていた。年齢的には、看護助手リーダー浜口絹子はまぐちきぬこと、同世代だった。

「使えない」と陰口を叩かれていた。退職したもう一人の副リーダー依田瑠璃子きぬたるりことは真逆の評価だった。

曰く、「彼氏と喧嘩した次の日、出勤してきたはいいが、まったく上の空で使い物にならなかった」

曰く、「そして、突然、泣き出す」

曰く、「ご立派な意見をお持ちだが、合間で適当な理由をつけて業務を抜け出す。サボりの常習犯」

リーダー陣で、連携はとれていない。ほぼ、指示系統が見えない状況だった。

だが、本人には副リーダーの自覚はあるらしい。一度、男性患者の尿パットを巻く際に、ペニスを上向きにしてオムツを閉じたことがある。

「えっ、上にするんですか?」

男からすれば、痛い。なんか、不快。出るものも出ない。多くは下向きに収まっているから。

「介護では、これが正しいの」

「いや、痛いと思いますよ。排尿もしにくいだろうし」

「普通はどうしてるの?」

「下向きですけど」

「そう。参考にさせてもらうわね。でも、介護の教本では…」

そこから講義が始まった。うんざりするほど長い。一に対して十で返してくる。

彼女にとって、知識こそが副リーダーである証明書になっているのだろう。

細田副リーダーは、北岡様から嫌われていた。理由は知らない。私が入社したときから、そうだった。居室の前を通りがかっただけで、

「てめぇ、なにしてんだっ! まだ、生きとったんか、ワレェ! はよ、死に曝せ!!」怒号が廊下に響く。

「いい加減にしてください。皆さま、驚かれます」

細田さんも負けず劣らず、正論で言い返して、火に油を注ぐ。



北岡様の居室の奥に二人部屋があり、西畑正子にしはたまさこ様はいつも横になって、お菓子を食べながらテレビを鑑賞されていた。

手は、関節リウマチで変形していたが、日常生活に問題はない。

すぐそばで怒鳴りあっていても、この部屋はとても静かだった。

「まぁた、寝ながら食べて。喉に詰まったら大事ですよ」

トキさんのこともあり、フラットのままお菓子をボリボリ食べている姿にドキドキした。咀嚼も嚥下能力も問題ない。本人がそれを望んでいる。だから、リーダーさえもそのままにしていた。

「大丈夫だよ。死にゃしないって」

変形した指で胸を叩くと、子供のように笑った。厳密には、私がそういう言葉だと解釈しただけだが。

「ダメだって。ちょっと、頭起こしますよ」

私は、指で伝える。

「もう!」

そうは言うが、それ以上は何も言わない。

西畑様は、聴覚障害者だった。

私は、入社したばかりのとき、手話で挨拶をすると驚かれた。

「あんた、できるの?」

「まぁ、ちょっとだけですけど」

両親がそうだったから。


あるとき、西畑様に面会があった。そのあと、用事があって訪室すると、テレビが置いてある床頭台に、一枚の写真が額に入れて飾られていた。白黒の写真には、今では婚礼のときにしか見ないようなタキシードを着こなし、恰幅の良いちょび髭の紳士が立っていた。隣には、若かりし頃の西畑様が着物姿で寄り添うように立っていた。二人の後ろには、お屋敷と言えるサイズの日本家屋と、箱に車輪がついただけのような初期の車が写っていた。

「めっちゃ、お金持ちだったんですね」

「昔はね。今じゃこのザマさ」

顔をクシャっとさせて笑う。

私の祖母が父を出産したとき「こんな出来損ないを生みやがって! この役立たず‼」と祖父の両親から罵られていたと伯母さんから聞いた。祖母は土下座をしながら「申し訳ございません」と泣いていたそうだ。

だから、西畑様も、かなりのご苦労があったと思われるが、そんな様子は微塵もなく。

音のしないテレビを見ながら、お菓子を食べる。

患者に優劣をつけてはいけないが、西畑様は私の一服の清涼剤だった。



安住清太あずみせいた様の妹は、毎日来院されていた。

仕事や生活はどうしているのか、謎に包まれていた。

毎日来ては、看護助手がやるパット交換、食事介助をされていた。

仕事だからと看護助手がパット交換を済ませると、「あたしがやるのに、なんでやってんの」と立腹される。じゃあ、しなかったら「あたしだって、毎日来れるわけじゃないんだよ。なんで、してないんだ」と立腹。

依田さんがいた頃は、「あんたね、あの女には気をつけな。ありゃ、ヤクザの女だからね。あんたも見たことあるだろ。足に輪っか(ミサンガ)をつけてる。あんなのするのは、ヤクザの女くらいだよ」と、吹聴されていた。私にもそう言うくらいだ。

依田さんは、話し合いをしようとしたそうだが、ムリだったらしい。

「兄貴はね、頭ブッ叩かれて、こんなになっちまった」

確かに、頭部は鈍器で殴られたように凹んでいた。私は、それ以上聞こうとは思わず、ただ機嫌を損ねないように相槌を打つのみだった。

またあるとき、「なにしてんだ、バカ!」と怒鳴る声と一緒に、叩く音がする。

暴言、暴力。

リーダーや先輩は、家族の問題だからと介入しなかった。



私と細田さんが夜勤の日。

北岡様の個室から怒鳴り声がしたので、慌てて様子を見に行く。

「出ていけ!」

「はいはい。おしっこ片づけたら、行きますから」

尿器を取るため細田さんは部屋の中央まで行くが、北岡様は仁王立ちになり侵入を拒んでいた。

「勝手なことをすなっ! ええから出ていけ! ぶち殺すぞ! はよ、死ね! どうせ、低能な親から生まれてきたんやろが。ブクブクに太ってからに。豚は豚小屋に行け!」

さすがに言いすぎだろと思って、間に入りました。

「ちょっと、北岡さん、落ち着いてください。それは、言いすぎですよ」

「あぁ、なんや。お前もアイツの味方すんのか。二人とも出ていけ!」

北岡様が手を振りかぶったので、細田さんを連れて退室しました。

それから、私もターゲットに含まれ、徹底した介護拒否。

排泄物の始末どころか、食事を持っていくと、お盆ごと床にぶちまけられたこともありました。

「てめぇが持ってきた汚い飯なんか食えるか! はよ死ね! お前なんか、死んだ方がええ。ゴミはなんぼおってもゴミやからな」

吐き捨てられました。


さすがに仕事ができる状態ではない。

浜口リーダーに訴えると、「じゃあ、キミは北岡様に入らなくていいから」と外されました。しかし、お局の田中芳江たなかよしえは「バカじゃないの! アンタだけ特別扱いできるわけないでしょ。みんな、同じ給料を貰って仕事してるんだから。仕事って自覚あるの? 自業自得じゃない」と一喝され、リーダーの指示は雲散霧消。それを聞いた周りの人間は、クスクスと嗤っていました。


「ボケ! アホ! ゴミの親もゴミや。ゴミがゴミ生んで、人間様に迷惑かけんな」

「はよ、死ね!」

「まだ、生きとんのか!」


連日、暴言を吐かれ、それでも言い返してはいけない。相手は患者。お客様なのですから。外れることも許されない。

これほど、死を望まれたことはありませんでした。


堀之内先生に会ったときに、現状を訴えてみても、

「あの人は、リハ室でもあんな感じだから。お前、わかるだろ。あの人、まともな人生送ってきてないって」


リーダーが機能しないので、久石智美ひさいしともみ看護部長、井上修一いのうえしゅういち事務長に訴えました。

「それは、よくない状態だね。もっと、チームで支えあっていかないと」

毒にも薬にも解決にもならない話で終わっただけ。


そして、細田さんは、我関せず。

「ごめんね。私のせいで」

とか、言ってほしかったんだ。



病院の裏手にある休憩室兼喫煙所兼公園で、食欲もなく煙草を飯代わりに吸っていた。

隣に、柳美稀やなぎみきが座った。


「一緒にいるとこ見られたら、変な目で見られますよ」

柳さんはそれには答えず、煙草に火を点けた。

「もう、毎日、しんどいっすわ。あんなに死んでくれって言われたことないっすよ。毎日毎日、気がおかしくなりそう」

この頃、私は休日になにも手につかず、ただ、ぼうっと過ごしていた。天井を見上げたり、ふいに涙が出たり。ネットで調べると、週末鬱というやつらしい。今まで、映画にゲームに読書にと楽しかったことが、全部楽しくなくなった。見る気もしない。

「まぁ、余計なことに首を突っ込んだからね」

「はぁ? じゃあ、あのまま、怒鳴り散らすのを放っておいたら良かったのか! アンタら先輩が、何もしなかったからあぁなってんじゃないのか!」

「こっちに患者を選ぶ権利はないんだよ。だから、問題行動があっても、すぐに潰そうとしたってムリでしょ」

「どいつもこいつも、適当なことばっかり。理想論はたくさんだ! 今だよ、今何とかしてほしいんだよ。なんとかしたいと思ってんなら、結果出せよ!」

柳さんは、黙って聞いていた。傷つけられた分、誰かを傷つけないと気持ちが納まらない。

「……ごめん」

「いつも、そればっかり。もう、聞き飽きたよ」

柳さんの煙草を持つ指は震えていた。

最低だ。

だけど、どうしようもなかった。



「ウロチョロすんな! はよ、死ね!」

罵声を浴びながら、西畑さんの居室に行く。コールがあったので、排泄介助を行う。

西畑さんはいつものように笑顔で出迎えてくれる。

排泄介助を終えると、笑顔は消えていた。

「どうしたの?」

「…別に、疲れてるだけ」

このときばかりは、失礼な話だが、聴覚障害でよかったと思った。あんな罵声を聞かずに済むのだから。

西畑さんは、私の手にお菓子を渡してくる。

「これで、元気だしな」

また、ニコっと笑う。

その優しさが、心苦しくもあったが、手の温かさにささくれだった心が癒された。いつまでも、こうしていたいと思うほどに。



ナースステーションに珍しく久石看護部長が来ていた。

「あれから、どう?」

私を見つけると、声をかけられた。

「変わってないですよ」

「そう。大変だろうけど、がんばってね」

他人事だと思って。

「部長は? どうしたんですか?」

「ちょっとね、安住さんの妹さんがね。今度は、患者様と揉めてね」

安住様は四階の個室にいるが、妹が四階の患者と揉めて大声で喚いていたらしい。

「今までは、職員に対してだったから、まだ目を瞑ってきたんだけど、さすがに患者様になると」

「あぁ、なるほど。だから、俺のことも、放ったらかしなんですね。患者に迷惑かかったら、金ヅルがいなくなりますもんね」

「キミ、待ちなさい!」

大声を無視して、仕事に戻った。



滝の水流が石を何十年もかけて削るように、毎日、少しずつ、私は、狂っていた。

無気力、無感情。

なにもやる気が起こらない。

機械的に仕事をこなしているだけ。

突然、キレて叫んだり。

家に帰ると、泣いたり。

食欲も性欲もない。

寝ようとしても寝付けない。


池田も、こんな気持ちだったのかな。


そんな態度だから、職場では腫物になっていた。

少しして、安住様が退院された。

噂では、院長、事務長、看護部長で詰めて、退院の方向に持っていったらしい。

「本当に、ご迷惑をおかけしました」

頭を下げて、帰ったらしい。



誰とも会話せず。

誰ともわかりあえず。

それでも毎日「死ね」と暴言を浴びる。



季節は、八月。

入社してから一年が経った。

そして、私は逃げた。

無断欠勤をして一か月ほど経った頃、離職表が届いた。

その間、なにもする気にならず。一日中、横になっていた。

自分は、ゴミなんだろうか。

クズだろうか。

生きている価値はないんだろうか。

いっそ、死んだ方が楽になるのか。

自分の首に包丁を突きつけ、ブッ刺すイメージに涙が止まらない。

泣いたかと思えば、無表情、無感動になる。

この世のすべてが呪わしい。

バイト時代の仲間の連絡先をすべて消去した。病院の方も。

なぜか、そうしたかった。スッキリしたかった。

ただ、池田だけは消せなかった。


毎日、悪夢に叩き起こされる。

私は、自分の身体より大きいモノが怖い。

周りに、そんな恐怖症を持った人間はいなかった。

ネットで調べると、巨神恐怖症と言うらしい。

例えば、観音像や巨大な建物。恐竜、クジラなどの巨大生物。

無機有機に関わらず、巨大なモノが怖い。


夢にゴジラが出てきた。私は一人で無人の街を走って逃げた。咆哮をあげ、建物を壊しながら、私を追いかけてくる。

あるときは、巨大な黒い霧のようなモノに追いかけられる。

それから、恐竜や深海でクジラやサメに追いかけられ、巨大な樹も出てきた。


私にとって、巨大なモノはホラーだった。スマホサイズでも、ゴジラを見るのは怖い。

いつも、自分の絶叫で目を覚ました。

寝るのが怖いと感じたこともあった。


少しずつ、買い物にも行けるようになった。

スーパーに買い物に行くと、老いも若きも、なぜか女性だけに、顔を顰めて避けられる。もちろん、こちらはただ買い物をしているだけだ。通路ですれ違う時、レジを担当する女性従業員、酷いときは母親が幼い女の子を自分の後ろにして、こちらを睨んできたこともあった。まるで、犯罪者だ。


問題はまだあった。入口の自動ドアが、私にだけ反応しない。

私が通ろうとすると、反応しない。故障かと思うと、他のお客さんは普通に入れる。

そのあとに続こうとすると、途端に扉が閉まる。入店拒否されてるみたいだ。

何度、扉にぶつかり、むりやりこじ開けて入ったことか。

もう、機械にも認識されてないのだろうか。


「あれ、俺、生きてる?」

もしかして、自分では生きてると思っているだけで、本当は死んでいるんじゃないだろうか。そんなバカげた不安に囚われる。



季節は、十一月。

次の職場が決まった。

今度は、老人保健施設だ。介護を必要とする高齢者の自立や支援をして、在宅復帰を目指すまでの仮住まいの場。

私は、介護が悪いわけではない。あの病院が悪いんだと思った。

他に正社員として、働く能力も道もツテもない。

今度は、しくじらない。

私も、あの病院を辞めていった人間たちと同じだ。悪口しか出てこなかった。

この一年間、悪口で済ませられることだけじゃなかったのに。

そんな自分が悲しくなった。


思いつきで池田に『俺も辞めたわ。ムリだった』とラインを送ったことがあったが、未読スルー。もう、関わりたくないんだろう。元気にしていれば、それでいい。

池田のラインを消去した。



老健への内定が決まった頃、柳さんから『会えないかな』とラインが入った。

私は、黙って退職したことは気にかかっていたので、会うことにした。


指定された喫茶店に行くと、窓際の席に仕事終わりだろうジャージ姿のままの柳さんが手を振る。

席に着くと、アイスコーヒーを注文する。届くまで、お互いに一言も話さなかった。


「なんで?」

開口一番、柳さんは聞いてきた。今まで見たこともない、真剣な表情。

「なんでって。……わかるでしょ」

「キミの言葉で聞きたいの」

「……あんな環境にいたら、気が変になる。というか、もうなってる。もう、身体が動かなくて。このままじゃ、死んでしまうって思って」

「ごめん。私は、キミを諦め見捨てた。あんなに、どうにかしたいって言ってたけど、私も、所詮、口だけの人間だったみたい」

まさか、謝られるとは思わなかった。

「いや、あぁ、柳さんは悪くないですって。どうにも、できないですよ。誰にも。俺、たくさん傷つけたから」

「キミや池田さんは、その何倍も傷ついてた。だから、ごめん。助けてあげられなくて」

今度は、頭を下げた。

「いや、いいですって。勘弁してくださいよ」

「じゃあ、これでオアイコってやつだね」

微笑を浮かべる。久しぶりに見る笑顔だった。


「次は決まったの?」

「えぇ、今度は老健です」

「また、介護やるんだ。安心した。介護嫌いになったかと思った」

「いや、まぁ、介護は続けたいです」

「北岡さんみたいな人もいるから、そこは気をつけてね」

聞きたくもない名前。心に蓋をする。

「柳さんの言ったとおりでした。何も見ない、聞かない、感じないこと。結局、自分にはムリでしたけど」

「それで、いいんだよ。まだ、大丈夫。でも、これだけは約束して。次のとこでは、どんなことがあっても、こんなこと、しちゃダメだからね」

「はい」

まだ、大丈夫。その言葉だけで、嬉しくなった。


「みんな、元気にしてますか?」

「そうだね。職員は元気だね。キミが来なくなって、すぐくらいに、トキさん、亡くなったよ」

あぁ、この数か月の間に。トキさんの鶏冠とさかヘアーを思い出す。

「そうですか」

「苦しまずに、逝けたから良かった」

「西畑さんは、どうしてますか?」

私を癒してくれた人物に、別れを告げぬままになっていたことが一番悔やまれる。

「先日、亡くなった」

「……そうですか」

悔やんでも悔やみきれない。

もう、あの手を握れない。お別れも言えない。後悔だけが、残った。



喫茶店を出て、近くの路上灰皿で煙草に火を点けた。

柳さんは、煙をたっぷりと肺に入れてから、吐き出す。


「さっきは、言ってなかったけど、安住さん、亡くなったって」

この数ヵ月に、知っている人間が、三人も亡くなっていた。人の死は、こんなにも突然訪れるものだろうか。

安住さんは妹さんに引き取られていた。

「じゃあ、妹さんが連絡してくれたんですか?」

「……ううん。警察」

「はっ?」

まるで、話がわからない。

「警察が来たんだって。それで、安住さんが亡くなったって、事務長と部長に話をしたみたいで」

「なんで、警察が?」

「……朝方、枕を顔に押し付けて。自分から、警察に通報したみたい。だから、事情聴取で、病院ではどんな様子だったかとか知りたかったみたい」

「そんな、そんな、それじゃあ、まるで……」





俺たち全員、人殺しじゃないか!!



「今度は、北岡さんを追い出すって、看護部長も事務長も息巻いてるけど」

「あぁ、依田さんは正しかった」



それから、なにを喋ったかもよく覚えていない。

別れてから、昔働いていたバイト先のコンビニに寄った。

私なりの、お礼参りだ。

自動ドアを抜けようとすると、半分くらいで止まったが、かまわずムリヤリ身体をねじ込ませる。大きな物音に、店員がこちらを見た。

そこに、元介護士の先輩がいた。


「あら、久しぶりぃ。元気してた? 仕事はどう? もう、一人前にバリバリ働いてるかな」

変わってない。

店も人も、何も変わっていない。









「あんたのせいで、こっちはボロボロなんだよ! よくも、あんな地獄に突き落として。サイテーのクソ女っ! 死ね!」



他の客や店員は、呆気に取られていたが、それだけ言うと退店する。

また、自動ドアにあたった。

もう、二度と会うことはなかった。



















「ここは、老健やからね。リハビリもして、在宅復帰をさせるって言うのは建前で。みんな、ずっといるから。一度入ったら二度と出られない。牢獄と一緒よ。悪いこともしてないのにね」


つづく。

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