分断
介護療養病棟には、二人の看護師長がいた。
三階担当は、眉間にマリアナ海溝より深い縦皺を刻んでいた
四階担当は、
主に看護師は、三階のナースステーションに詰めているので、仕事中は、四階のナースステーションに一人でいた。
基本的に、師長クラスは夜勤に入らない。
おかしいと思っていることがあって、出世して偉くなると現場に入らなくなる。どこの業界もそうなのかもしれないけど、経験と知識があるのに、現場で活躍しないのはもったいない。
しかし、例外はある。
塚本師長は、変則勤務で夜勤もこなしていた。理由は、それが一番患者様の状態を把握できるから――。
誰よりも、患者様のことを考えていた。
夜勤中、看護助手のリーダー陣は、仮眠を取らない。コールがないとき、休憩中は、常に介護の教本を読んで、最新の知識を学んでいた。
私もそれに倣い、教本を読む。そして、休憩中には爆睡した。おいっ!
塚本師長は、私を見るたびに「感心感心」と笑顔を見せた。
「看護助手をやってて、やっぱり医療的な知識もないと務まらないと思うんで、少し教えてください」
基本的な血圧測定、血管、酸素濃度SPo2。脈の計り方、誤嚥といろいろと教えてもらった。肺雑の音も聞かせてもらった。私の知識の基盤は、ここで形成された。
斎藤トキさんは「うー、あー」としか発声できないが、櫛でも梳かしきれない白髪の
夜勤に入りたての頃、リクライニングチェアを傾け、起床時から敷いてあるバスタオルを浜口リーダーと持って、二名介助でベッドに移乗する。
「あとは、お願い」
浜口リーダーはタックルする勢いで、飛び出していった。
トキさんの排泄介助を済ませると、違和感があった。
「うー、ゔー」
声がいつもより掠れていた。
「かはー、くはー」
呼吸が、絶対におかしい。確信すると、ナースコールを押す。
「あの師長、すいません。トキさん、呼吸が変なんですけど」
すぐに来てくれた塚本師長は、トキさんの様子を見て、壁に取り付けてあった吸引の機械を作動させ、透明なチューブを口に入れた。
「ふぅ。お手柄お手柄。これが詰まってた」
どこを見ても何もない。よく目を凝らして、チューブに繋がれているボトルにも注目する。小数点ミリ単位の赤いモノが見えた。
「あぁ、人参ですか」
「夕食のやつだね」
トキさんは、歯はないが咀嚼や嚥下能力に問題はなかった。食事は『極刻み食』だった。刻み食は、文字通り料理を細かく刻むことで、噛む力が弱くても食べられる。『極』が付くと、たまねぎのみじん切りよりも小さく、ミキサー食一歩手前といった感じ。
こんな砂粒のような欠片が、トキさんを苦しめていた。刻み食のデメリットは、細かすぎる分、誤嚥のリスクが高まる。(だから、コワくて、トロミをつけて提供する介護士もいた)今後、食事介助する際に、躊躇いそうになる。誰も、殺人者にはなりたくない。
「あんたが、トキさんを救ったんだ。自信持ちな」
背中をバシッと叩かれ、怖気づきそうな心に喝を入れられた気分だった。
「いや、そんな大袈裟な」
「介護に命は救えないなんて、偉そうに庄賀なんかはのたまってるけど、誰よりもいち早く異変に気付くことはできるのは、あんた達だ。持ちつ持たれつの関係が、いつから偉くなったんだか」
そう愚痴る姿は、長年の看護師生活に疲れきっていた。
看護助手に対して、唯一の、理解者だった。
四階勤務の日に、ナースステーションで岡林師長と依田さんが密談をするのを見かけるようになった。内容はわからない。二人とも、真剣な表情をしていた。
病院時代の入浴介助は、戦争だった。
朝の九時から始まり、終わるのは午後三時過ぎ。看護、介護関係なく総出でことにあたる。それぞれセクションに分かれる。自力で動けない患者様をストレッチャーに移乗して、風呂場まで誘導する移動班。これは、責任重大なミッションで、その日の進行状況によっても誰を先に誘導するかは変化する。もし、間違った選択をすると、歯車が嚙み合わず多数のヘイトを喰らうことになる。
ストレッチャー側の入浴介助班。約六時間、風呂場に拘束される。
自力で動ける患者様を入浴介助する班とその患者様を誘導する班。ここも、二人の息が合わないと患者様に迷惑がかかった。なにしろ、風呂場から廊下まで、数脚の椅子に座って裸のまま、バスタオルをかけられた状態で何人か待たされる。
脱衣更衣班。入浴前後に、服を脱いだり着替えをしたりする班。ストレッチャー班と意思疎通ができていないと、入浴後の患者様を裸のまま、居室に放置することになってしまう。
雑務班。居室清掃やオムツパットの補充を行う。うまく回っていない班の補助、食事の準備などのなんでも屋。
ストレッチャー班や入浴介助班は、多忙につき休憩時間があと倒しになる。
「おかしいと思わないの?」
ストレッチャー班の遅めの休憩。喫煙所兼休憩室兼公園で、依田さんはキレていた。
「食事は、廊下で車いすにテーブル代わりの板を付けられて食べてる。異常な光景だから。もっと言うなら、入浴介助のとき、自力で動ける患者は、風呂場の前で裸で待たされて。ありえないから。」
事の発端は、何気なく悪気もなく「食事のときのテーブルって、ボロすぎて壊れそうですね」と発言したことだった。病院は、こういうものなんだと何も感じていなかった。
「すいません。その変な意味じゃなくて」
「まず、答えて。おかしいって思わない?」
「……すいません。正直、こういうものかって」
「じゃあ、自分が入浴のときに、裸で廊下に待たされたり、廊下で板を括りつけられて食事をしているところを、想像してみなさい」
依田さんは、指で根本まで灰になった煙草にも構わず、私を睨みつける。
確かに、今まで、裸で待機している患者様に「寒いから早くしてちょうだい」と言われるたびに「暖房入ってますから。もうちょっと、待ってくださいね」と決まり文句を言って流していた。最初の頃は、アレ? どうしてたっけ?
「食事は、食堂や自分の部屋で、テーブルに着いて摂るでしょう。患者だからなにやってもいいんじゃないの。普段の生活と同じことをしないと」
「確かに、…そうですね。すいません」
「他の人にも聞こえる声で、排泄の話をしたり、ひどいときは、カーテンも閉めない。悪口を言ったり。あんな看護師、どうかしてる」
私にも思い当たる節はあった。急いでいて、カーテンも半開き。患者の股間に異変があったとき、本人の目の前でそのままアレコレ話して。
「君は、どっちなの? 人として」
依田さんはいつも謎かけのようなことを言う。
「この病院は、ずっと人を殺している」
私はこのとき、私を睨んでいるものとばかり思っていたが、依田さんは私ではなく虚空を睨んでいた。
ただ、沈黙するしかなかった。息もできない状況に、指先で煙草が灰になりフィルターだけを挟んでいた。
師走の朝八時。
私の自宅から原付で三〇分程度の場所に、有名な観光地でもある浜があった。
浜の上に崖があり、崖っぷちには柵があった。そこから見下ろす光景は、まさに絶景。東映マークでも出したいくらいだ。
私は身を震わせて、集合場所に向かった。
塚本師長に「あんた、次の日曜日は暇かね?」と聞かれ、「まぁ、暇ですけど」と答えた。師長が浜口リーダーに掛け合い、特別シフトを組まされイベントにスタッフとして参加することになった。スタッフとして、二階一般病棟から
県内の病院から、救急医療班が集まり、災害・事故現場での救助活動の判断力とスピード、チームワークを競う大会のようだ。
アスファルトで舗装された崖に、五〇人近くの医療関係者が集まっていた。
田舎に、こんなに大勢の救急医療の人いたんだ。
皆、精悍できりっとした雰囲気に気圧される。
開会式が終わると、しばしの休憩があった。
「この光景、懐かしい。こっちまで、身が引き締まる」
喫煙所で、救急救命士を眺めながら塚本師長は笑みを見せた。
「昔、救急にいたんですか?」
「別に、そうじゃなくて。救急医療がある病院にいたことがあっただけ。今の、ダラけたとこじゃ、話になんないけど。新米の頃を思い出すよ」
「そ、そっすか」
「まだ煙草も吸ってなかった。昔、先生が、ロンピー吸っててさ。あっ、缶のやつね。しかも、手術室で、こう長い攝子で器用に摘まんで吸ってるのが、なんだか旨そうに見えてね。かなりヘビースモーカーで、まぁ、肺癌で死んだけど。あたしも、煙草の本数が増えてね」
「えっ、なんの話ですか? どうしたんですか?」
普段とは違い、かなり饒舌になっていた。
「…もうすぐ師長じゃなくなるんよ」
「はい?」
寝耳に水。
師長は、短くなった煙草を灰皿に捨てると、大きく伸びをして潮風を吸い込んだ。
「岡林と依田が今、裏でコソコソやってるけど」
「あぁ、なんか、ここのところ、四階で話してましたね」
「どうやら、あたしを師長から下ろすために、画策してるみたいじゃないか。看護師のほとんどは、あっち側についてる」
「えっ? 嘘ですよね。誰から聞いたんですか?」
「部長の久石と新しい事務長の井上だよ。パワハラになりかねないほど、威圧感があるんだって。仕事がやりにくい。仕事のやり方も古いんだってさ。看護師連名の書類まで作っちゃってさ。久石からは、新設する部署に異動してくれないかって言われたけど、…もう、どうでもいい」
あの密談が、そんな内容だったとは思わなかった。信じられない。
岡林師長はともかく、依田さんは患者のことに対しては塚本師長と同じだと思っていた。
師長は海を眺めて、煙草に火を点ける。
「そんな、下ろすなんて」
「もう、年だね。あたしにゃ、もう闘う気力は残ってない。新しい部署で、定年まで、のんびりさせてもらおうかね」
そのとき、拡声器で開始の合図があり、集合することになった。
モヤモヤとしたまま、大会は始まった。
私の役割は、ストップウォッチで時間を見ながら、「あと何分です」と伝える役目だった。
参加者は、一〇分の制限時間内に、適切な判断を下さねばならない。
一回ずつ組によって、事故現場や災害現場と想定される状況は変わった。
何組も見ていると、今のは連携取れてなかったなぁとか、処置が制限時間に間に合わなかったなぁとか、いろいろ違いがわかった。
でも、絶対的に、皆、格好良かった。
命を助けるために、大声で叫び、処置に走る姿は、介護士にはない緊張感と格好良さがあった。
スタッフとして参加した佐藤は、負傷者役として参加していた。すでに、数組の男から、声をかけられていた。
最後に実演したのは、我が県最大の大病院である近澤病院だった。なんといっても、県内唯一のヘリポートを有し、ドクターヘリも完備していた。
明らかに他の組より、顔つきが違う。
指揮官らしき男性に、三人の男性、そして紅一点、若い女性がいた。
青いジャンバーに、処置道具の入ったデカいバッグを肩から下げていた。
開始の合図とともに、指揮官の男性が状況を分析、すぐに指示を出す。
ムダのない洗練された動きに、他の参加者たちは、釘付けになった。
若い女性が負傷者にトリアージを行う。私は、実際に現場を見るのは、初めてだった。今まで、海堂尊氏の『ジェネラル・ルージュの凱旋』や『救命病棟24時』でしか見たことなかった。
赤、黄、緑、黒。適切にトリアージタッグを置いていく。
赤は、最優先治療群。
黄は、待機的治療群。多少時間が遅れでも、命に危険はない。
緑は、軽症、ほとんど治療を必要としない。
黒は、呼吸をしていない。すでに死亡している。
命を区切る作業に、嫌な気分になった。
きっちりと時間内に終わった。
大会が終了したのは、夕方の四時だった。
優勝したのは、もちろん近澤病院。
そのまま、打ち上げという名の飲み会に誘われた。
会場は、ホテルの大広間を貸し切って行われた。私は、居酒屋でやるのかな程度に思っていたので、かなり場違いな気まずい思いをした。
乾杯して飲み始めると、かなりの男が佐藤に言い寄っている姿を見かけた。
仕事では、あんなに精悍で恰好良かった医療従事者も、今は鼻の下を伸ばしていた。
私の隣には、近澤病院の女性が座っていた。
誰とも会話できずに、ただビールを流し込んでいた。
「あの、どこかの病院の方ですか?」
隣の近澤病院の女性が話しかけてきた。
「えぇ、まぁ」
「時間、計ってましたよね」
「そうですね。○○病院です。師長に言われて、スタッフとして参加しました」
「あぁ、そうなんですね。看護師さんですか?」
「看護助手。介護の方です」
女性は頷くと、瓶ビールをコップに注いでくれた。
「いやいや」
慌てて、こちらもお酌を返す。
「近澤病院さん、凄かったですね。格好良かったです」
「いえいえ、そんな。皆さんはベテランですけど、私は、まだ新人で」
「そうなんですか。めちゃくちゃ、慣れた感じでしたけど」
「まだまだですよ」
謙遜して、ビールを一口飲む。
「どうして、救命士になったんですか?」
「ちょっと、言うの恥ずかしいんですけど。…コードブルーの影響で」
「コードブルーって。山Pとかガッキーが出てた、アレですか?」
「アレです」
「あぁ、それで。この間、ニュースで、コードブルーを見て救命士になる人が増えてるとか見ましたよ」
「私も、そのクチです」
「山P、格好良いいっすからね」
「いいですねぇ。まぁ、今となっては、ドラマと現実は違うなあって。当たり前ですけど」
そう言って笑顔になる。
「現実って、厳しいっすよね。自分なんか、いっつも、鬼みたいな看護師に怒られてばっかりですよ」
「こっちも同じようなもんですよ」
「ドクターヘリとかで、出動することあるんですか?」
「えぇ、事故とか」
「大変ですね」
「助けられる命がたくさんあるのに、この中の何人を助けられるのか。時間との勝負で、初めてトリアージするときに、黒を置くのが辛くて。なんとかして助けてあげたいって思うんですけどね。ドラマだったら、そこで奇跡が起こったりするんでしょうけど。現実は違います。ただ、最近、自分でも怖いのが、悲惨な状況だったり、トリアージするときに、何も感じてないんです。機械的にこなしているだけで。救命士としては正解なんでしょうけど、人としてどうなのかなって、思ったりします。なんて言ったらいいのか、介護士さんならわかります? この感じ」
「えぇ、まぁ」
曖昧な言葉で濁すことしかできなかった。
私も感覚が麻痺している部分はあった。
あれほど嫌いだった看護師は、命を救うだけの知識と技術があるからこその苦悩がある。
そこまで思い至らなかった。
「新人同士、これからもがんばりましょう」
乾杯して、ビールを流し込む。
私は、患者ではなく、虚空を見ていたようだ。
年末の忘年会は、そこそこの盛り上がりで終わった。
私の面接に立ち会っていた前任の事務長が定年退職したので、新しい事務長の、
井上事務長の、郷ひろみメドレーを白けた表情で見ていた。
一月。二人の看護助手が退職した。
二人とも、ナースステーションで花束をもらい、最後の挨拶で涙を流していた。
別れが悲しいのではない。普段の二人の会話から察するに、歯を食いしばってあらゆることに耐えてきた、長い看護助手生活からの解放に涙を流していた。
素直に、羨ましいと思った。
一人は介護福祉士。一人はケアマネージャーの資格をそれぞれ持っていて、退職後は施設で働くそうだ。
「あぁ、せいせいした!」
駐輪場でばったり会ったときに、二人とも軽やかにそう言って帰って行った。
二月。リハ助手の
「ちょっと、東京でのんびりしてくる。この三年間、いろいろあったし。まぁ、部長の計らいで介護福祉士も取れたし。いつでも、介護はできるけど、もう病院はいいや」
東京に住んでいる姉の家に、少しだけ身を寄せるそうだ。
三月。二階看護助手の武田くんが退職した。
「もう、待てないっす。三階に上げる上げる言って、人を釣っといて。これじゃ、飼い殺しっすよ」
吐き捨てた彼は、妻と離婚するそうだ。
「子供はかわいいんで一緒に連れて行ってあげたいけど。向こうのこともあるし、それはできないっしょ。だから、子供には恨んでくれてかまわない。でもパパは、ずっとお前たちのパパだからって。身勝手ですけど、でも、こうしないと、俺の人生、どうにもならないんすよ。もう、介護なんてムリっすよ。金にならん」
ネットで知り合った女性と付き合うため、彼は家族を捨て、介護士の夢も捨て、福岡に旅立っていった。
四月。塚本看護師長は任を解かれ、新設された『地域交流推進室』なる謎の部署の室長に任命された。
ナースステーションでの挨拶も、花束もなかった。
公園で会ったときに、「こんなもん、ただの名誉職。まぁ、邪魔者は消えたし。こっちも、あんなバカたちの面倒見なくて済むんだから。肩の荷が下りた」と言っていた。
「今まで、お疲れ様でした。短い間でしたけど、ありがとうございました」
頭を下げると、背中をバシッと叩かれた。
岡林師長がトップになってから、あからさまにタルんだ空気が流れていた。
お局の
私は、派閥は嫌いだ。田中さんに睨まれていたのもあったけど、納得できなかったのは、私が患者様と話していると「サボるんじゃないよ」と池田からターゲット変更をされていた。その癖して、自分たちは井戸端会議に華を咲かせ、介助もそれなりになっていた。
私、
患者様で
しかし、リハビリの成果か、朝のモーニングケアの洗顔、歯磨き、髭剃りは自分でこなし、食事も器具を装着して自力摂取していた。
健三さんは、体位変換するときや排便のとき、更衣のときも、ミリ単位で注文をされる方だった。
「ちょっとした服の皺とかでも、痛くなるから」
指示は的確で、どうやったら意思を正確に伝えられるのかとよく考えられており、わかりやすかった。
ときどき、電動車椅子に乗って出かけることがあった。帰ってくると、決まって今川焼きを「いつも世話になってるからね」と職員に買ってきてくださった。本来は、受け取ってはいけない決まりだが、お気持ちに配慮して、貰っていた。
阪神ファンで、テレビで野球中継を熱心に見ていた。
あるとき、コールがずうっと鳴っていた。
排泄介助で手が離せず、「ヘルパァさぁん!」「介護さぁん!」と呼ぶ声が聞こえる。
うるせぇなぁ。
とにかくコールの元へ走ると、ナースステーションを横切る。田中さんも交えての井戸端会議が開催されていた。
クソがっ!
健三さんが鳴らしていたので、部屋に行く。
「遅い!」
普段、何があっても耐えたような表情で、「君たちも忙しいからね」と言って下さる、健三さんがキレた。
「すいません。ちょっと、排泄介助で手が離せなくて」
「どれだけ待ったと思ってるんだ! 何回押しても、誰も来ないじゃないか」
うつぶせのまま、顔は壁の方を向いていたので表情はわからない。
「すいません」
「君ら、最近、弛んでるんじゃないか。塚本さんがいたときは、まだ良かった。本当に、頼むよ」
健三さんは、的確な指示からもわかるように、職員の雰囲気を感じ取っていた。
「はい、なるべく早く来ますので」
「君にわかるかい? 自分の身体を動かせない人間の怖さが。このまま、誰も来ないんじゃないかって」
絶望しかない。
「…こんなはずじゃなかった」
呟きが、胸に重くのしかかる。
体位変換を行うと、改めて「すいません」と謝罪した。
「なんで、俺が怒られないといけないんだよ」
暇を持て余していた田中のババアや看護師だって行けた。
「まぁまぁ、そう怒んないの。はいこれ。甘いモノ食べて、落ち着きなよ」
差し出されたチョコ菓子に首を振る。煙と一緒に、溜息を吐く。
「確かに、最近、ひどいね」
柳先輩は、煙草に火を点ける。
「もう、ダメっすよ。なんで、一生懸命働いてるこっちが、こんなに職員や患者から怒られなくちゃいけないんすか? おかしいっすよ」
「うん。そうだね」
「柳さんはいいっすよね。うまく、取り入ってやってるから。面倒ごとなくて」
「はっ? どういう意味?」
「……言いすぎました」
「そんな風に思ってたの?」
柳さんは、軽蔑のまなざしを向けてきた。
「いや、だから…」
「あのさ、キミだけがしんどいんじゃないんだからね。今まで、いろんな後悔を積み上げてきた。なんとか、したい。でも、なにもできない。キミが、がんばってることもわかってる。だから、関わりたくない人とも関係を持って、信用を得て、足場を固めないと発言を聞いてもらえない。こっちだって、なんとかしたいと思ってがんばってんだよ。それをさ、……もう、いいや」
聞いたこともないような冷めた声だった。
先輩は去って行った。
数ヵ月後、依田瑠璃子が退職した。
理由はわからなかった。
だが、まことしやかに岡林師長と拗れたみたいな噂だけが独り歩きした。
「もう、こんなところで働いてらんない。あんたも、介護続けたいなら、施設で働けば」
最後に聞いた言葉だった。
それから、少しして。
岡林師長も退職した。
身勝手な行動。自分の行いに責任を持たない。
誰もかれも、不満を吐き捨て退職する。
報われない。修復できない。
すべてが、どうでもよかった。
あのとき、辞めて正解だったよ。
「アイツ、死んでくれないかな」
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